http://www.peace-forum.com/okinawa-branch/okinawa_No86.pdf
石川県平和運動センターは労働組合とPEACEネット会員で構成し、議員、市民団体などと連携する反戦・平和団体 1989.9県評センター2000.9連帯労組会議を経て誕生 平和憲法を活かし反戦・平和 反核 脱原発 環境 教育 人権などを取組む。信条の一つに、建国間もないアメリカの第3代大統領トマス・ジェファーソンが発した「信頼は専制の親である」(国民が政府を信頼すると専制政治を生み出す根拠となる)「猜疑心こそが民主主義国家を作る」という言葉。画像は改憲に反対する集会 米軍B1爆撃機と共に「核威嚇」する空自小松の戦闘機 「戦争法」成立により「参戦」準備を進め「先制攻撃」体制を強化している。絵は抽象画 熊谷守一の紫陽花、蟻・・辺野古、友禅作家志田弘子さんの母と子・・。団結して平和人権環境を壊す政権を倒し平和で自由な世界を創ろう!
「元号」を良しとはしない。改元にあたって免許証は西暦が記載されることとなった。外務省では西暦を使っている。グローバル社会に、元号は不便極まりない。元号法の下で、卒業証書に西暦を記載させるのに相当な闘いがあったことを思い出す。1989年1月7日、昭和天皇の崩御とともに小渕恵三官房長官が「新しい元号は、平成であります」と発表した。そして竹下登首相に換わって首相談話も発表した。天皇崩御の自粛ムードへの批判もあったが、平成天皇は、即位後朝見の儀において「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」と述べている。粛々と昭和から平成へ移っていったように感じられた。
今回の改元は、天皇の政治利用とも言える安倍晋三首相の記者会見、自らがその意義や内容を説明し「政治ショー」を演出した。国家主義者は「令和」の出典が国書である万葉集とことさらに強調し「、悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へ引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることのできる、そうした日本でありたい、との願いを込め『、令和』に決定しました」と述べた。白々しい、いけ図々しい、鉄面皮。この談話の内容ほど、今の日本に、安倍政権にふさわしくないものはない。子どもの7人に1人は貧困で一人親の子どもは半数以上、労働者の約38%が非正規雇用、奴隷労働と批判される外国人技能実習生、ヘイトにさらされる在日コリアン。そんな社会をほったらかしにして安倍首相は「新しい時代を、国民の皆さまと切りひらいていく」と述べた。へそで茶を沸かす!笑止千万!これほど人を馬鹿にした談話もあるまい。
「令和」は「「初春令月気淑風和」からとって、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味らしいが、安倍政権の中では、国の命令を聞いていれば平和に治まると聞こえる。「令和」の世が私たちに優しい時代となるのは、私たちの手に委ねられている。
(藤本泰成)
原水禁石川県民会議の2019年度代表委員、常任執行委員を決め、県下6会場で「反核・平和」行進をスタートさせることを決定。崎山比早子さん(3.11甲状腺がん子ども基金代表理事)の記念講演では、「小児甲状腺ガンの多発」には、放置、過ち、ごまかし、隠蔽、過小評価など不正が詰まっていると、安倍政権・環境省の犯罪を告発しました。
総会アピール(案)
世界初の原爆投下から74年。私たちは総力をあげて「核廃絶」に取り組んできました。
しかしアメリカは、新たにMDシステムを配備し、相手国の核兵器を無力化させ、実戦で使える「核兵器」さえ開発を進めています。ロシアは、MDシステムをかいくぐる新型核を、中国は、米軍の中枢を壊滅させる核を配備しました。今夏、米・ロの中距離「核」全廃条約は破棄されることが確実視されています。
このような情勢の中、唯一の被爆国である日本・安倍政権は、核廃絶でイニシアティブをとるどころか、「アメリカを全面的に支持」し、米軍との軍事一体化を進めています。
私たちは、「核抑止」論のまやかしをあばき、「武力で平和はつくれない」「軍事力は悪無限的な浪費である」という根本的な批判をしていかなければなりません。
核兵器にはプルトニウムが必須です。日本は、非核保有国で唯一、アメリカと原子力協定を結びプルトニウム利用が認められています。その使途は、核燃料サイクルに限定されていますが、技術は「核開発」と表裏一体です。原発の再稼働は、なんとしても阻止しなければなりません。
現在も、日本を含む世界中で多くの被ばく者が生み出され、苦難を強いられています。フクシマから8年を経た今も大地は汚染され、故郷は喪失したままです。被ばくの全容は解明されておらず、ガン死はこれから百年単位で続きます。ここ石川では、志賀原発を廃炉にすることがなにより重要です。活断層上に原発を建設強行した北電の無責任さと、雨水さえ防げない能力を問い、「活断層の是非は規制委の判断を待つ」という司法の責任放棄も許さず、廃炉を目指さなければなりません。
原水禁石川に結集する諸団体は、新たな核軍拡反対!核開発やめろ!核燃料サイクルの確立反対!原発再稼働阻止!志賀原発廃炉!の闘いをさらに推し進め、「核と戦争のない社会」を創っていこうではありませんか。
以上を確認し、総会アピールとします。
2019年5月22日
原水禁石川2019定期総会参加者一同
2019年2月末、ハノイでの第2回米朝首脳会談が合意文書を出すことなく終了し、また2020年NPT再検討会議まで残り約1年となり、その最後の準備委員会が4月29日より国連本部にて開催されている。そうした中、ピースデポは、2019年4月10日、河野外務大臣宛ての「朝鮮半島の非核化、NPT再検討会議;日本の核抑止依存政策の根本的再検討を求める要請書」を提出した。要請の趣旨と、その背景にあるNPTをめぐる情勢や朝鮮半島情勢に関する日本政府の姿勢について解説する。
外務大臣へ4項目の要請
1970年に核不拡散条約(以下、NPT)が発効してから半世紀、核兵器禁止条約ができてから初となるNPT再検討会議が2020年春に開催される。開催まで残り約1年となった。それに向かう第3回準備委員会が4月29日よりニューヨークの国連本部で開催されている。
しかし、米トランプ政権は、核態勢見直し(NPR)により低威力核弾頭など新型核の製造を開始し、中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱を表明し、核軍縮に逆行する動きを強めている。これに対しロシアは、米国が2002年にABM条約(対弾道ミサイル制限条約)から脱退し、ミサイル防衛(BMD)体制構築を打ち出して以来、米MDを打ち破る核兵器や極超音速兵器の開発を進めている。この結果、米ロの対立が激化し、新たな核軍拡競争が再燃しようとしている。一方で、2017年、韓国に登場した文在寅政権が朝鮮半島平和ビジョンを打ち出す中で、2018年、板門店宣言とシンガポール米朝共同声明という2つの首脳合意により、朝鮮半島の非核化と平和に画期的な変化が起きた。しかし、これもハノイでの第2回米朝首脳会談が不調に終わる中で、交渉の行方には暗雲が立ち込めている。
これらの困難を打破するためには新たな変化や動きが必要であり、戦争被爆国としての歴史体験を有する日本政府が、核抑止依存政策を根本的に再検討することを通じて、グローバルな核軍縮や北東アジアの非核化問題で大きな役割を発揮することが望まれる。
そうした観点から、19年4月10日、ピースデポは、湯浅、梅林が外務省を訪問し、アジア大洋州局石川浩司(ひろし)審議官及び軍縮不拡散・科学部の今西靖(のぶ)治(はる)軍備管理軍縮課長と、別個に面談し、河野外相宛の「朝鮮半島の非核化、NPT再検討会議;日本の核抑止依存政策の根本的再検討を求める要請書」●1を提出した。
要請項目は以下の4項目である。
2020年NPT再検討会議の重要性
まず、グローバルな核軍縮について述べておこう。2020年NPT再検討会議は、グローバルな核軍縮を前進させるために、米ロのNPT第6条や各回の再検討会議合意に背を向けた姿勢を正面から指摘し、変えていく極めて重要な場とせねばならない。しかし、それを成功させるため、2000年や2010年NPT再検討会議の時のように核軍縮への機運を作りだす必要がある。
2000年NPT再検討会議では、新アジェンダ連合(NAC)という有志国家の登場が会議に勢いと熱気を生み出した。それを中堅国家構想などのNGOが後押しした。その結果、「核兵器国は保有核兵器の完全廃棄を達成するという明確な約束を行うこと」という文言を含む13+2項目の合意が生み出された。2010年再検討会議は、米国におけるオバマ政権の登場と2009年のプラハ演説に始まる「核兵器のない世界」への熱気が会議を成功に導いた。合意文書で「いかなる核兵器使用ももたらす人道上の結末」への懸念が初めて表明され、64項目の行動勧告が採択された。それは核兵器禁止条約を生み出す人道アプローチの原点となった。2020年NPT再検討会議が成功するためには、これらの例にみられたような機運が作り出されなければならない。
にもかかわらず、冒頭に述べた悪化した米ロ関係だけではなく、底の浅いアメリカ・ファースト主義のトランプ大統領と国連に敵対的ですらあるボルトン大統領補佐官(安全保障担当)の指揮下にある米政権のもとで、私たちは2020年を迎えようとしている。
この厳しいマイナス状況を考えると、本当に核兵器がもたらす悪夢への危機感に裏打ちされた国の強いリーダーシップが必要である。だからこそ核兵器廃絶へ強い世論の支えのある被爆国日本の政府の責任ある登場を求めるのである。
4月2日、中満泉国連事務次長(軍縮担当)が2020年のNPT再検討会議について国連安保理で演説するという珍しい機会があった●2。議長国であるドイツの計らいとみられる。中満氏は米国をはじめとする核兵器国を前に凝縮された言葉で危機感を述べた。「NPTは驚くほど持久力があった。しかし、それを当然のことと思うな」と警告し、「冷戦後の軍縮の成功は止まった。核兵器の有効性を語る危険なレトリックと安全保障の教義における核兵器依存の増加がそれに代わった」と述べた。そして、NPTが置かれている状況を断層にたとえた。「(危険な情勢は)NPTをひずみの蓄積の中に置き、最近国家間に目立って続いている断層線を悪化させている。」つまり、2020年は、NPTに対して多くの国が信頼を置かなくなり、国家間の溝を一層深める決定的な年になるかも知れないという、危機感を中満氏は述べたのである。
私たちの要請に対して、今西課長からは、この情勢に見合う日本政府としての意欲を聞くことはできなかった。日豪がリードする12か国の非核兵器国の集まりであるNPDI(核不拡散・軍縮イニシャチブ)や賢人会議アピールなどの取り組みの説明があるに留まった。
朝鮮半島の画期的情勢下でも根強い核抑止への依存体質
一方、朝鮮hな党情勢に関連して、要請項目4)のグローバルな核軍縮や朝鮮半島の非核化に関して日本自身が役割を果たすため、核兵器に安全保障を依存する核抑止政策を止め、北東アジア非核兵器地帯をめざすべきであるとの要請に対しては、全く手ごたえのない回答に終始した。
板門店宣言で南北は、「完全な非核化を通じて、核のない朝鮮半島を実現する」という共同の目標を確認した。このことは、韓国は、いずれ「核の傘」依存を止めていく方向に向かうことを意味しているのではないかとの問いに、今西氏は、個人的な見解とした上で、「韓国が核抑止に依存しないと考えているとは捉えていない。韓国は、物理的に核兵器を持ち込まないことにコミットしているだけではないか。中国との関係で、米国の核の傘を手放すことはない」と述べた。
米朝合意が、「朝鮮半島の完全な非核化」と、「米国による安全の保証」をセットにしていることからすれば、北朝鮮から見れば、韓国が核の傘政策を維持している限り、北に対する核攻撃の選択肢は残ってしまう。北朝鮮の安全が保証されるためには、韓国が核の傘に依存しないという政策を採用せねばならないはずである。それは、朝鮮半島非核兵器地帯条約を作るということに行きつくことになる。
また、要請項目1)米朝交渉での経済制裁の緩和要請に対して、石川審議官は、現時点で制裁緩和はありえないと強く主張した。北朝鮮は、強力な経済制裁があったために対話の場に出てきたのであり、今、それを緩めたら元の黙阿弥であると力説した。しかし、国連安保理の制裁決議は、「安保理は、DPRKの遵守状況に照らして、必要に応じて(制裁)措置を強化したり、修正したり、留保したり、解除する準備がある」●3と繰り返し述べていることを指摘して、DPRKの遵守状況に照らして、制裁を解除することもありうると政府の行動を促した。しかし、要請の内容は現在の政府方針と正反対のものであり、面談の中で議論に進展はなかった。
南北、米朝首脳が歴史的合意をした新たな情勢においても、日本政府には、核の傘に安全保障を依存する道の重要性が染み付いている。日本が「核の傘」から出て、朝鮮半島の非核化から北東アジア非核兵器地帯に向かうべきとする私たちの要請に対しても、石川審議官は、北朝鮮への強力な経済制裁の継続が重要だと現状認識を強調するに留まった。これを打破するためには、市民社会の世論の一層の高まりが必要であることを痛感した一日であった。
歴戦の名パイロットは、なぜ沈黙を破って戦場を語り始めたのか 戦後は幼児教育に生涯を捧げる 神立 尚紀 (現代ビジネスより無断転載)
カメラマン・ノンフィクション作家 プロフィール
零戦搭乗員として、真珠湾作戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル攻防戦など最前線で戦い続け、何度も死地をくぐり抜けてきた原田要さん。戦後は平和を願い、幼児教育に生涯を捧げてきた。
戦後50年を迎える頃まで、戦時中のことは一切語ることはなかったが、あることがきっかけで、戦場の過酷さ、悲惨さを語り残すことを決意する。
それは、湾岸戦争での、まるでヴァーチャルゲームのような映像と、それに対する若者たちのあまりに軽すぎる反応を見聞きしたことだった。
みんな本当は死にたくなかった
3年前の平成28(2016)年5月3日、一人の元零戦搭乗員が、99歳で天寿を全うした。原田要さん。満100歳の誕生日を約3ヵ月後に控えていた。
原田さんは大正5(1916)年8月11日、長野県生まれ。長野中学校(現・長野高校)を中退、海軍を志願して昭和8(1933)年5月、横須賀海兵団に水兵として入団した。のちに航空兵を志望、部内選抜の操縦練習生を昭和12(1937)年、首席で卒業し、選ばれて戦闘機搭乗員となった。
昭和16(1941)年、太平洋戦争開戦時には空母「蒼龍」に乗組み、機動部隊の上空直衛として真珠湾作戦に参加。その後、昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦では乗艦が撃沈され、洋上に不時着し漂流。同年10月には、空母「飛鷹」零戦隊の一員としてガダルカナル島上空で敵戦闘機と空戦、正面から刺し違え、重傷を負い不時着、九死に一生を得るなどの壮絶な戦いを経て、内地の航空隊で教官として終戦を迎えた。
原田さんは戦後、幼稚園を経営、幼児教育に後半生を捧げた。
「この子たちに戦争の悲惨さは二度と味わわせたくない、ほんとうにそう思います。戦争で死んだ仲間たちも、平和を望んで国のためにと死んでいったんです。みんな、本当は死にたくなかったんだからね……。新しい日本を担う子供たちが、社会の一員として幸せに活躍できる下地を作る、それが結局は平和につながっていくと自負しているし、戦友たちの遺志を受け継ぐことになるんじゃないかと思っています。
――それと、相手を倒さなければ自分がやられる戦争の宿命とはいえ、自分が殺した相手のことは一生背負って行かなきゃならない。まったく、戦争なんて、心底もうこりごりですよ」
幼稚園の園長となった元零戦搭乗員・原田要さん(撮影・神立尚紀)
原田さんとの出会いは、ふとした偶然からだ。戦後50年を迎えた平成7(1995)年夏、神田神保町の古書店で、たまたま手に取った海軍関係の名簿にその名を見つけ、インタビューを申し込んだのが最初である。
手紙の返信によると、原田さんは生まれ故郷の長野市郊外で、幼稚園を経営しているという。勇猛果敢な零戦搭乗員が、いまは子供たちに囲まれて暮らしている――戦いの軌跡もさることながら、そのコントラストに心を惹かれた。
「戦争のことは思い出したくないから、これまでほとんど人に話してこなかった」
と言う原田さんが、私のインタビューに応えてくれたのは、戦後50年の節目を意識したことと、もう一つは、イラクによるクウェート侵攻を機に、国連が多国籍軍の派遣を決定、1991年1月17日、イラク攻撃を開始した湾岸戦争のニュース映像を見た若い人が、
「ミサイルが飛び交うのが花火のようできれい」
「まるでゲームのようだ」
などと感想を漏らすのを聞き、
「冗談じゃない、あのミサイルの先には人がいる。このままでは戦争に対する感覚が麻痺して、ふたたび過ちを繰り返してしまうのではないか」
と危機感を持ち、なんらかの形で戦争体験を語り伝えないといけない、と意識が変わったからだという。
「私は戦争中、死を覚悟したことが三度ありました。最初はセイロン島コロンボ空襲で、敵機を追うことに夢中になって味方機とはぐれてしまい、母艦(空母)の位置がわからなくなったとき。二度めはミッドウェー海戦で、母艦が被弾して、やむなく海面に不時着、フカ(鮫)の泳ぐ海を漂流したとき。そして三度めは、ガダルカナル島上空の空戦で被弾、重傷を負い、椰子林に不時着してジャングルをさまよったとき。
相手を倒さなければ、自分がやられてしまうのが戦争です。私は敵機と幾度も空戦をやり、何機も撃墜しました。撃墜した直後は、自分がやられなくてよかったという安堵感と、技倆で勝ったという優越感が湧いてきます。しかしそれも長くは続かず、相手も死にたくなかっただろうな、家族は困るだろうな、という思いがこみ上げてきて、なんとも言えない虚しさだけが残ります。私はいまも、この気持ちをひきずって生きているのです」
3~4倍に膨らんだ偽りの数字が流布している
平成9(1997)年、私は、スコラ社から上梓した元零戦搭乗員の写真・証言集『零戦の20世紀』のなかで、それまで沈黙を守ってきた原田さんの戦中、戦後の半生を、一章を設けて初めて紹介した。
以来、「元零戦パイロットで幼稚園の園長になった人がいる」ということが広く知れ渡り、各種メディアの取材が引きも切らなくなった。
原田さんは人を選ばず、来るものは拒まず、「戦争体験を語り伝えることが私の使命」とばかりに、ありとあらゆるメディアの取材を受け、やがて、「戦争の語り部」として、比類のない存在になっていった。
――ただ、20年以上、間近で接してきた目から見て、最晩年に伝わってくる原田さんの話の中身は、80歳代の頃と随分違っていた。「思い」の部分に変わりはほぼないが、事実関係が怪しくなってきたのだ。空戦中、「敵搭乗員の顔など見えない」と、80歳のとき私に語っていたのが、90歳代半ばには「怯えた顔を見た」になり、ガダルカナル島に不時着したとき、搭乗する零戦は火など吹いていなかったのが、「火を吹いた」になったりしたのがその主たるものだが、インタビュアーに誘導され、話を膨らませてしまわれた感も否めない。
防衛省防衛研究所所収の「軍艦蒼龍戦闘行動調書」に記録されている原田さんの撃墜機数は11機(うち6機は協同または不確実)。ミッドウェー海戦時に空母が撃沈されたことによる記録の不備や、ガダルカナル島上空で刺し違えた敵機などを考慮に入れても14機である。飛行時間は、航空記録が現存しないので判然としないが、80歳の頃、私に語ったのが2000時間強。原田さんに近い搭乗歴をもつ零戦搭乗員の、現存する航空記録と照らし合わせても、2500時間を超えることは考えられない。原田さんの場合、重傷を負った後のブランクがあるからなおさらである。
昭和16年、大分海軍航空隊教員時代の原田さん(当時25歳。一飛曹)
ところが、晩年、原田さんの名前で世に出た本のなかでは、出版社とライターによって、「撃墜機数19機、滞空時間8000時間」と、いずれも大きく盛られている。「滞空時間」とは微妙な表現だが、当時記録された「飛行時間」は、現代のパイロットの「飛行時間」が地上でのタキシングの時間も含むのとは違い、離陸から着陸までの正味の飛行時間で、しかもそれには、輸送機やほかの搭乗員が操縦する飛行機に同乗した時間も含まれるから、「飛行時間=滞空時間」と理解して差し支えない。なんと、撃墜機数で5機、飛行時間にいたっては3~4倍も膨らんだ偽りの数字が、ファクトチェックされることなく、本人の名で世に出てしまったのだ。
世の中には小さな話を大きく言う人と、大きな話を小さく言う人がいる。原田さんは明らかに後者のタイプだっただけに、そんな誇張が広まったことが残念でならない。
一般に、人が体験談を語るさい、記憶違いとは別に、インタビューや講演の回数が増えるほど話が大きくなり、話を重ねるうち本人の中でもそれが実体験の記憶と置き換わってしまう傾向がある。ドラマチックな感動を得たい聴き手の期待と、それに応えようとするサービス精神から話が膨らみ、引っ込みがつかなくなった人の例をいくつも見てきた。
長い付き合いのある人なら発言の振れ幅を補正できるが、いま、戦争体験者と初めて会った人は、聞いたことが全部事実だと信じてしまいがちである。当事者の回想にも一次資料による裏付け、別角度の考察などの検証は欠かせない所以である。
原田さんの場合、80歳代半ば頃から耳が急激に遠くなり、最晩年にはほとんど聞こえていなかった。それでも、何度も聞き返すのは相手に悪いと思ったらしく、質問とかみ合わない生返事が増えていた。難聴は加齢によるもので仕方がないが、聴き手の都合のいいように回答を誘導されかねない状況だったと言える。
いわゆる「市民団体」が接近してきて、その活動の主張に沿うよう原田さんの実像がデフォルメされる危うさも感じていた。聴き手の思想が右寄りであれ左寄りであれ、体験談を恣意的に、政治色の強い主張を補強するために利用するのは、歴史を学ぶ態度ではない。
いずれにせよ、一度、一人歩きしてしまった話の修正は容易ではなく、体験をファクトとして正しく伝え残すことは、想像以上に難しいことなのだ。
一触即発の国際事件となった米船舶への誤爆
原田さんが、満16歳で海軍を志願したのは、至極単純な動機からだった。
「兵役は『国民の義務』だった時代で、いずれ軍隊には行くことになるから、それなら志願して行こうと。海軍を選んだのは、陸軍ってかっこ悪いんですよね、やぼったいような恰好をして。海軍のほうが服装がスマートで、いろんなところに行かれるかと思ったんですが、入ってみたらそんなのは夢のまた夢。寝ているとき以外はすべて分刻みの生活で、いつもおなかがすいて、殴られて、スマートとは程遠い毎日でした」
昭和10年10月、航空兵器術練習生修了。前列右が原田さん(当時19歳。二等航空兵)
駆逐艦「潮」乗組を命じられた原田さんは、やがて飛行機に憧れを抱くようになり、航空兵器の練習生となって機銃や爆弾の整備を学んだのち、操縦練習生を志望する。全国から1500名ほどが受験して、採用されたのが50~60名。そこからさらにふるいにかけられ、卒業したのはたったの26名という狭き門だった。
昭和12年、九〇式艦上戦闘機で訓練を受けていた頃の原田さん(当時21歳、三等航空兵曹)
戦闘機搭乗員となった原田さんは、昭和12(1937)年10月、実戦部隊である第十二航空隊に転属となり、中国大陸へ出征した。
「海軍に身を投じた者が戦地に赴く。当時の心境は最高でした」
と、原田さんは率直に語っている。ここでは複葉の九五式艦上戦闘機に乗って、南京攻略の陸上部隊を上空から支援するため、連日のように爆弾を搭載して出撃を重ねた。ところが、南京陥落前日の12月12日、思わぬ事件が起こる。
この日、中国軍将兵が大挙して南京を脱出、揚子江を商船やジャンク(小型の木造帆船)に乗って逃走中、との情報に、海軍はただちに航空部隊を出撃させた。
「南京の上流50キロの揚子江上に、それらしき船舶4隻が多数のジャンクとともに航行しているのを発見、この日も九五戦に60キロ爆弾2発を積んで行ったんですが、そのなかでいちばん大きな船を爆撃したら命中して、まもなく沈没しました。戦闘機の爆撃は、ぎりぎりまで肉薄するから案外よく当たるんです。爆撃のあとは、ジャンクに向かって機銃掃射を繰り返しました」
だが、攻撃隊が爆撃した船舶は中国軍の敗残兵が乗った船ではなく、交戦の当事国ではない米アジア艦隊の砲艦「パネー」およびスタンダード石油会社の所有船三隻であった。
アメリカは、ただちに日本に対し厳重な抗議を申し入れ、一触即発の国際問題にまで発展した。「パネー号事件」と呼ばれる。
日本側は誤爆を認めアメリカに陳謝、巨額の賠償金を支払い、4名の指揮官を戒告処分とすることで事件は決着したが、原田さんも事情聴取を受け調書をとられた後、在隊わずか3ヵ月たらずで、長崎県の大村海軍航空隊(大村空)に転勤を命ぜられた。
内地に帰った原田さんは、大村空を皮切りに、佐伯海軍航空隊(大分県)、筑波海軍航空隊(茨城県)、百里原海軍航空隊(同)、大分海軍航空隊と、教員配置を渡り歩く。
大分空にいた頃、郷里で縁談が持ち上がり、許可を得て長野県に帰郷。昭和16(1941)年1月1日、原田さんの生家で、満17歳の精さんと結婚式を挙げた。見合いもなく、2人は、挙式のそのときが初対面だった。
昭和16年1月1日、郷里で精さんと挙式
結婚式は挙げたものの、事変下の戦闘機乗りの生活は多忙を極める。夜通しの宴会が明けると、翌日にはもう大分に戻る汽車に乗らなければならなかった。
「初対面の新妻を連れての旅は、なんとも照れくさいやら、恥ずかしいやらで、ほんとうに困りました」
と、原田さん。精さんは、
「一言も口をきいてくれないので、私は退屈しちゃって、もう帰ろうかと思いました」
と言う。2人が言葉を交わしたのは、旅も半ばを過ぎた頃だった。
「長野を発つとき餞別にいただいた水飴の包みを網棚に乗せていたら、暖房の熱で溶けて流れ、前の席に座っていた男性の肩に落ちて汚してしまったんです。びっくりするやら申し訳ないやらで、慌てて謝ったり服を拭いたり……。でもその方はとっても親切な方で、怒りもせずに許してくださいました」
とは、精さんの回想。水飴騒ぎが落ち着いたとき、原田さんがようやくホッとした笑顔を見せた。夫婦の距離が縮まった瞬間だった。
大分では、飛行場のすぐそばに家を借り、そこで新婚生活をスタートした。朝、原田さんが航空隊に出勤、訓練がはじまると、風向きによっては家の方向に離陸することになる。
昭和16年、大分海軍航空隊教員時代の原田さん(当時25歳。一飛曹)
「そうするとね、家内が2階に上がって見てるんですよ。お互いにはっきり顔が見えるんです」
「あなた、大分の空でよく宙返りしてたわね」
つかの間の平和な時間。しかし、大分での生活は長くは続かなかった。
「日本は負けた」と思い、目の前が真っ暗に
昭和16年9月、原田さんに空母「蒼龍」への転勤命令がくだる。急いで家を片付け、精さんを長野に帰して、勇躍乗艦した原田さんは、ここで初めて零戦に乗ることになった。12月8日、真珠湾攻撃。原田さんに与えられた任務は、攻撃隊の掩護ではなく、機動部隊の上空直衛だった。
「この日をもって、日本は悲惨な道をたどることになるわけですが、戦場にいる私たちには、日本がこの先どうなるんだろう、などと考える余裕もなく、ただ、国や家族のために戦うのだという気持ちでいっぱいでした」
「蒼龍」の転戦にともない、原田さんはウェーク島攻略作戦、オーストラリア北西部のダーウィン空襲、続いて昭和17年4月5日、セイロン島コロンボ港空襲に参加。コロンボ上空ではイギリス軍戦闘機と空戦、5機(うち不確実2機)を撃墜している。
「敵の飛行機は逃げ足が速くて、格闘戦どころではありません。そういうときは、逃げていく先に7ミリ7(7.7ミリ機銃)を撃ちこんでやるんです。そしたら、敵機は曳痕弾に驚いて回避する。少し距離が縮まる。それを繰り返して蛇行運動させ、近接して最後に20ミリ機銃で墜とすんですがね。相手の顔なんか見えませんよ。実は、私は射撃は得意じゃなかった。でも、実戦になると、射撃のうまい、へたはあまり関係なく、気の弱いほうが負けです。先に避けたほうがやられるんです」
ところが――。
「撃墜を重ねて、つい深追いしてしまい、あらかじめ決められた集合点に戻ったときにはもう、味方機は引き上げたあとでした。さあ困った。単機での洋上航法にも自信がないし、母艦に還る燃料があるかどうかもわからない。仕方がないから敵の飛行場に戻って自爆しようかと思っていたら、零戦が1機、私の横にスーッと寄ってきて、見れば名前も知らない若い搭乗員で、指を3本立てて撃墜数を示しながら、ニコニコと編隊を組んできました。
私は、この搭乗員を死なせてはかわいそうだと思って、よし、それならば、と、自分なりの航法で帰ってみたら、奇跡的に母艦にたどり着いたんです。その若い搭乗員は、母艦が見えると喜んじゃって、一目散に自分の艦に帰っていきましたよ」
そして昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦。この日、原田さんは、上空哨戒の戦闘機小隊長(3機編隊の長)として4度にわたって発艦した。
「2度めに発艦したとき、水平線すれすれに敵機の大群が見えました。これは雷撃機だと直感、1発も命中させてなるものかと、戦闘機は一斉にそれに襲いかかりました。当時のわれわれの常識では、艦にとっていちばん怖いのは魚雷で、ふつう、250キロ爆弾ぐらいで軍艦が沈むことはない、ということになっていましたから、急降下爆撃機のことはまったく念頭にありませんでした」
戦闘機隊は来襲した敵雷撃機のことごとくを撃墜、わずかに放たれた魚雷も巧みな操艦により回避される。弾丸を撃ちつくした原田さんは、敵襲の合間を見て着艦。一服する間もなく、またも敵襲で予備機に乗り換えて発艦。敵はふたたび雷撃機、原田さんは列機(僚機)を引き連れて、敵機の後上方から反復攻撃をかける。
「そのとき、三番機の長澤源蔵君が、私の目の前で敵雷撃機の旋回銃の機銃弾を浴び、火だるまとなって墜落しました。あれは私の誘導が悪かった。私が1機を撃墜して次の敵機を狙うときに、スローロールを打って連続攻撃をかけようとして、二番機、三番機もあとにならってきたんですが、それが敵に大きく背中を見せる形になってしまった。
敵に腹を見せるとか、背中を見せるとか、いちばん危険なことなのに、失敗でした。それで、敵が私を狙って撃った機銃弾が、同じコースを遅れて入った三番機に命中したんです。……本当に、列機がやられるのを見るほど、つらいものはありません」
長澤機の最期を見届けた原田さんが、気を取り直して周囲を見渡すと、そこには信じられない光景が広がっていた。
つい先ほどまで威容を誇っていた「加賀」「赤城」「蒼龍」の3隻の空母から空高く立ち上る火柱。零戦隊が海面すれすれの敵雷撃機を攻撃している間に、上空から襲ってきた急降下爆撃機の投下した爆弾が、相次いで命中したのだ。
原田さんは、ただ1隻、無傷で残った「飛龍」に着艦した。ほどなく、整備のできた零戦で、またもただちに発艦するよう命じられた。
「飛行機が艦橋よりずっと前にあるのに驚きました。滑走距離はぎりぎりで、はたして発艦できるか不安でしたが、整備員に尾翼をしっかり押さえさせてエンジンをいっぱいにふかし、離艦すると同時に脚上げ操作をしました。たちまち機は沈み込み、海面すれすれでやっと浮力がついて上昇を始めました」
早く上昇して敵機を墜とさなければ、と気は焦るばかり。高度が500メートルに達した頃、ふと後ろを振り返ると、「飛龍」も被弾、火柱が上がるのが見えた。
昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で炎上する空母「飛龍」。原田さんは「飛龍」から発艦した最後の搭乗員だった
「そのとき私は、『日本は負けた』と思って、目の前が真暗になりました。ともあれ直衛の任務を果たそうと、次々に飛来する敵機を攻撃すること約2時間、ついに自機も被弾、燃料もなくなって、夕闇せまる海面に不時着水しました」
原田さんは、この海戦で機動部隊を最後に発艦した搭乗員となった。身につけていたCYMA(シーマ)の腕時計は、着水した午後3時35分(現地時間7時35分)で止まっている。
ミッドウェー海戦で、原田機が不時着水した時間で止まったままの愛用の腕時計(スイス製CYMA)
「波の上に浮かんでいると、あちこちに艦の燃える黒煙が見えました。やがてあたりが暗くなってきて、これはもう、助かる見込みはない。拳銃があれば自決するんだけども、あわてて飛び上がってるからそれも持ってない。ほんとうに死を覚悟すると、早く死にたくなるものですよ。はじめはフカよけにマフラーを足に結んで長くたらしていましたが、もう食われた方が楽だと思って流してしまいました。脳裏に浮かぶのは、妻の顔だけでした」
4時間の漂流ののち、原田さんは、探照灯を照らして生存者を探していた駆逐艦「巻雲」に、奇跡的に救助された。甲板上には、収容された重傷者が折り重なるようにころがっていて、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図のようだった。ここに、真珠湾攻撃以来、無敗を誇った日本海軍機動部隊は、空母4隻を失い壊滅した。
ミッドウェーから生還した原田さんは、敗戦を隠蔽するためしばらく軟禁状態に置かれたのち、空母「飛鷹」乗組となった。1日も早く戦力をととのえるため、「飛鷹」の搭乗員たちは群馬県小泉の中島飛行機に赴き、飛行機受領のためのテスト飛行を繰り返した。
すでに8月7日、米軍は、日本海軍が飛行場を設営していたソロモン諸島のガダルカナル島に上陸、飛行場は米軍の手に落ち、ガダルカナル島奪還をめざす日本軍と、ここを反攻の足がかりにしようとする米軍との、陸、海、空にわたる総力戦が始まっている。
そんなある日、次の出撃が最期と覚悟していた原田さんは、どうしても妻子の顔が見たくなり、精さんを上野駅に呼び寄せた。
「産まれたばかりの長男を背負い、両手に抱えきれないほどの荷物をもって、農作業からそのまま駆けつけたようなみすぼらしい姿でしたが、なんともいえない純粋な、最高の美しさを感じました」
と、原田さんは述懐する。その言葉を聞いて、精さんは、
「戦死なんかされてたまるもんか、と必死の思いでしたね……。でも、『みすぼらしい姿』と言われるのは、女性としてちょっとね。主人の目にはそう映ったんでしょうけど」
と、静かに微笑んだ。
敵機と刺し違え、椰子林に突っ込むも
10月17日、空母「隼鷹」「飛鷹」の第二航空戦隊に、ガダルカナル島ルンガ泊地の敵輸送船団攻撃の命令がくだる。零戦18機、九七式艦上攻撃機18機、総勢36機の攻撃隊は母艦を発進。途中、艦攻1機が故障で引き返したが、残る35機は編隊を組んで、一路ガダルカナル島上空に向かった。
艦攻隊の高度は4000メートル、零戦隊は、その500メートル後上方に位置していた。ソロモンの空と海はあくまで青く、太陽は強くまぶしかった。ガダルカナル上空に差しかかる頃、前方の左上方500メートルほどのところに、断雲が近づいてきた。
「いやな雲だ」
原田さんの胸に不安がよぎった。
「断雲がほぼ真横上方にきたとき、はたせるかなグラマンF4F(米海軍の戦闘機)の一群、10数機が上空から降ってきた。すばやく戦闘態勢をととのえましたが、最初の一撃は防ぎようがありません。グラマンはわれわれ戦闘機には目もくれず、艦攻隊に襲いかかってきます。見る間に2機が火を噴き、後続機も1機、2機と煙を吐きはじめました」
零戦隊が追尾に向かおうとしたとき、1機のグラマンが反転して、「飛鷹」零戦隊の後方に回りこんできた。
「私は、『このヘナチョコになめた真似をされてたまるか』と、目もくらむばかりに操縦桿を引き、機首を向けたんですが、出港以来の疲れのせいか、一瞬、失神してしまったんです。G(重力)には強い方だったんですがね……。気がつくともう、目の前にグラマンが向かってきていました。私はとっさにこの敵機と刺し違える決心をして、下腹に力をこめて、左手のスロットルレバーについた発射把柄を握りました。互いの曳痕弾が交錯し、あっと思った時にはガーンという衝撃とともに、左手が発射把柄からはじき飛ばされた。飛行服の左腕のところに卵大の穴が開き、風防や計器板に血しぶきが飛び散りました」
操縦桿を足にはさみ、右手と口でゴムの止血帯を巻きつけ、ふと見ると、敵機は白煙を引きながら、はるか下方の島影に吸い込まれていくところであった。
「私は不時着を決意して、眼下の椰子林にすべり込みました。目の前に椰子の葉っぱが迫ってきたと思ったら、木にぶつかって片翼が吹き飛び、あとのことは憶えていません。意識が戻ると、私の零戦は地面にひっくり返っていて、風防がつぶれて外に出られないんです。ガソリンを被っているから息も苦しくて……」
原田さんは、右手の爪で地面に穴を掘り、死にもの狂いで脱出した。喉が焼けつくように渇いて、傷の痛みに耐えながら水を探した。ようやく、ボウフラのわいたどす黒い水たまりを見つけ、顔を突っ込んでそれを飲み干し、気を取り直して歩いていると、やはり不時着していた「隼鷹」艦攻隊の佐藤寿雄一飛曹と出遭った。
「それからは、佐藤君と一緒にジャングルのなかをさまよい歩きました。夜も、傷が痛くて眠れたもんじゃありません。ちっとも寝つけなくて、隣で寝ている佐藤君の顔を見ると、やはり眠れないようでした。
それで、椰子の葉陰に出ている月を見ながら、2人で手を握りあって、これでいいじゃないか、もう十分、やるだけのことはやったんだからいいよ、と。そして数日がかりでやっと、海軍の特殊潜航艇基地にたどり着いたんです。そこでは貴重な医薬品を全部、私のために使って治療してくれました」
ガダルカナル島で共に不時着し、重傷の原田さんを献身的に介抱した佐藤寿雄飛曹長(右。のち戦死)と。昭和18年に再会したときの1枚
しかし、原田さんの傷はしだいに悪化し、マラリア、デング熱も併発して、生死の境をさまよい続けた。舟艇に乗せられて11月5日にガダルカナル島を脱出、意識を取り戻したのは約1週間後、トラック島の第四海軍病院でのことだった。
結局、原田さんはこれを最後に、戦場に復帰することはできなかった。
内地に送還された原田さんは、准士官の飛行兵曹長に進級し、霞ケ浦海軍航空隊の教官となったが、負傷の後遺症で入退院を繰り返さざるを得ず、悪化する戦局を横目に苦しい日々を送った。受け持った飛行練習生の少年たちが、毎晩のように原田さんの部屋に押しかけてきては、早く前線に出してくれとせがんだ。その純真で真剣な瞳が、原田さんの胸に針で刺すような痛みを伴っていつまでも残った。昭和19(1944)年10月、フィリピンで最初に特攻隊の指揮官となって戦死した関行男大尉も、原田さんが直接、操縦の手ほどきをした飛行学生の1人である。
昭和19年、霞ケ浦海軍航空隊教官時代(当時28歳、飛行兵曹長)
戦争の話をした日は、夜通しうなされていた
そして昭和20(1945)年8月15日。原田さんは、霞ケ浦空派遣隊のあった北海道千歳基地で終戦を迎えた。満29歳の誕生日を迎えたばかりだった。
北海道では、「ソ連の落下傘部隊が北海道を占領し、男は去勢され、南方に送られて終身強制労働させられるだろう」などという、不安に駆られた人々による、根拠のない支離滅裂なデマが飛び交っていた。終戦を境に、それまで「兵隊さん、兵隊さん」と大事にしてくれた町の人たちから罵声を浴びせられるようになり、やるせない思いを味わったという。米軍に引き渡すため格納庫に並べた軍需物資も、基地に押し寄せてきた住民たちに略奪され、なにか日本人というものに裏切られた思いがした。
原田さんは戦後、郷里の長野に帰り、妻と子供2人、病弱な母をかかえて職を求めたが、公職追放にかかっているとの理由でどこへ行っても採用されず、また、戦犯の影におびえる日々であった。その上、夜中に空戦の夢を見て、うなされることも多かった。
敗戦のショックから立ち直るには、なおも数年の歳月を要した。
「戦後は家内と2人で、家族を養うためにずいぶん苦労しました。百姓をやったり、乳牛を飼って搾乳したり、いろいろやってみたけど一つも成功しませんでした。昭和38(1963)年には近くに県のモデル住宅として団地ができて、そこで八百屋をはじめ、同時にりんごの集配をやったり、子供たちが学校に通ってるうちはほとんど寝る暇もなかったですね。
昭和40(1965)年、地元に詳しいからと自治会長にさせられて、そうしたら、いろんな人が相談をもちかけてくるんです。まず、小さな子供を預かってくれるところはないかというので、近所のおばさんで赤ちゃんを預かってくれる人を探しました。
そのうち若い人が増えてくるとおばさんたちの手が足りなくなり、ちょうどその頃、小学校ができることになって私の田んぼを代替地として提供したら何がしかのお金が入ったので、昭和43(1968)年に託児所『北部愛児園』をつくりました。そしたら、そこに通っていた子供たちが順に大きくなって、こんどはとうとう幼稚園をやることになったんです」
昭和43年、託児所「北部愛児園」を開設。これが発展して幼稚園になった
託児所を増築して「みんなの幼稚園」の名で未認可保育園とし、さらに名称を「ひかり園」と改めて施設を拡充。昭和47(1972)年、幼稚園は学校法人として認可され、原田さんは理事長に就任する。56歳での新たなスタートだった。
「最初はけっして、やりたくて幼稚園を始めたわけじゃなかった。これも運命だと思うんですよ。もちろんいまは、幼児教育に生きがいを感じています。子供というのはほんとうに正直で、毎日が楽しくてしようがありません。
しかし、近頃は世の中が狂ってますね。私は、やはり教育が悪いんだと思う。幼稚園も、教育じゃなくて子供の奪い合いみたいになっています。宣伝合戦やって、立派な園舎を建てて、立派な遊具を買って、そんななかでおだて上げた教育をしているでしょう。
それと、私も心当たりがありますが、親が、自分の果たせなかった夢を子供に託そうとする。これが子供にとっては重荷になっちゃう。塾だ、習い事だ、といろんなことを小さいときからさせるけど、それじゃ、子供が子供らしく伸びないもの。盆栽みたいになっちゃって、かわいそうですよ。それに、いまの若い親を見ていると、自分の子さえよければ、他はどうなってもいいみたいです。
結局ね、感謝する気持ちがないわけですよ。いつも不平不満が先に立って、ありがとうという気持ちがないんじゃないかと。こんなことで、いったい日本はどこに行っちゃうんでしょうかね」
原田さんは、園長として子供たちの敬愛を集め、平成22(2010)年、94歳の年に引退するまで、幼児教育に情熱を注いだ。園長を引退したのと同じ年、70年近く連れ添ってきた精さんが、87歳で亡くなった。
原田要さんと精さん(撮影・神立尚紀)
原田さんが取材を受けるとき、精さんはいつもニコニコと傍らに座っていて、難聴のために質問の趣旨が伝わっていなかったり、原田さん自身に言い間違いがあったりすると、耳元でそのことを伝えて修正したものだった。メディアが伝える、原田さんの話す内容が目に見えて歪曲されてきたのは、精さんが亡くなったあとのことである。
私が本で原田さんのことを紹介し、取材の依頼が引きも切らなくなった頃、精さんに、
「主人はああ見えて、戦争の話をした晩は夜通し、苦しそうにうなされるんですよ。見ていてとっても辛くて。年も年だし、紹介してくれというお話があっても、お断りいただけると助かります……」
と言われてハッとしたことがある。
「こんど生まれ変わったら、もっと楽な人と一緒になりたいわ」
などと言いながら、夫を思う気持ちは、いつもひしひしと伝わってきた。
戦争のことでいい思い出なんて一つもない
原田さんは、平成27(2015)年8月、満99歳の誕生日を迎えた。これは当時、日本海軍の戦闘機搭乗員としての長寿記録でもあった(令和元年5月3日現在の長寿記録は、三上一禧さんの101歳)。穏やかな人柄もあいまって、かつての戦友や部下たちの間でも、絶大な尊敬を集めていた。
私が接した20年あまりの間に、原田さんが怒りを露わにするのを見たのは、終戦記念日に靖国神社に参拝したさい、テレビ局記者にマイクを向けられ、
「A級戦犯が合祀されている靖国神社にどんな思いでお参りされるんですか」
と聞かれて、
「そんなことは関係ない。私は祀られている友達に会いに来たんだ。ここで会おうって約束したんだから」
と憮然としていたのと、ある戦友会で、海軍兵学校出身の、年下の元上官とのやりとりで癇に障ることがあったらしく、
「なんだい、あいつは。いつまでも士官風を吹かせやがって」
と声を荒げたのと、その2回だけである。
「靖国神社へ戦友のみたまに会いに行く」ことと、「兵から叩き上げたベテラン搭乗員としてのプライド」は、原田さんのなかで「平和への思い」と矛盾するものではなかった。
「若い頃、私は死ぬということが怖くて、お坊さんに教えを乞いに行ったこともあったけど、克服できなかった。でもいざ、実際にその場に直面すると、案外平静なものでした。戦争で死ぬような目に何度も遭いながら、この歳まで生きてきて、人の命なんてわからないものだとつくづく思います。寿命は神様から与えられたもので、自分ではどうにもならないものなんですね。
いまの若い人のなかには、日本がかつてアメリカと戦争をしたことを知らない人も多いと聞きます。年寄りの目からみると、あの戦争で、多くの犠牲の代償として得た平和が、粗末にされているような気がしてなりません。歴史を正しく認識して、平和のありがたさを理解しないと、また戦争を起こしてしまう。
軍隊や戦争のことでいい思い出なんて一つもない。ほんとうは思い出すのもいやだけど、命ある限り、自分たちが体験したことを次の世代に語り伝えることが、われわれの世代に課せられた使命だと思っています。
とはいえ、幼稚園で、小さな子供たちにそのことを教えるのは大変です。そこで私は、まず物は大事にしなさい、どんな物でもその物の身になって、けっして無駄には使わない、それが自分の命を守ることにつながるんだよ、という話から始めるようにしてきたんです」
――原田さんの左腕には、ガダルカナル島上空で負ったすさまじい銃創が残っていた。そんな実体験に裏打ちされた言葉は、限りなく重い。その思いは、子供たちにもきっと伝わっていたに違いない。原田さんを語るのに、メディアによる誇張など一切無用だったのだ。
2019年4月26日
最高裁第3小法廷(宮﨑裕子裁判長)は4月22日付で、沖縄での新基地建設に反対するなかで逮捕された沖縄平和運動センター議長の山城博治さんたちの上告を棄却する決定を下しました。平和フォーラムはこの最高裁の不当な決定に対して、強い憤りをもって抗議します。
この裁判は、沖縄県北部の米軍北部訓練場の一部返還の代わりに、オスプレイも発着できる新たなヘリパッドを建設すること、また辺野古の海を埋立て米軍のための新たな新基地建設を造ることに対して、多くの県民らが抗議行動を展開する渦中で起きた事件がきっかけでした。
有刺鉄線を切断したとして「器物損壊」、沖縄防衛局の職員に対すると押し問答をした際の混乱で「暴行」、「公務執行妨害」、ブロックを積み上げたとして「威力業務妨害」。これらの容疑で山城博治さんたちは、3ヵ月から半年以上に渡る長期勾留を強いられた挙句、執行猶予はついたものの、不当にも懲役刑が科されました。
上告趣意書では、①行政不服審査法を濫用して工事を継続し、県民の民意を無視した国の建設強行により、自然破壊が進んでいる状況。 ②1、2審判決が沖縄の歴史を理解せず、刑法の形式的解釈と適用に終始していること。③日本の沖縄に対する差別と抑圧の歴史を真摯に受け止めるべきであること。 ④1、2審判決が、事件の本質である事件の動機、背景事実を一顧だにせず、県民の行動を抑止する手段として刑法を運用解釈していること。 ⑤米軍基地に起因する事件事故の危険のなかで沖縄県民の生活が強いられている現状。以上を訴えたうえで、威力業務妨害と公務執行妨害、傷害について、容疑事実となる罪の構成要件に該当することだけに拘泥している不当なものだとしていました。
最高裁においては、これら弁護側の主張に一切答えることなく、不当な決定が下され、1、2審判決が確定してしまいました。
裁判所は事件の本質を見極めようとしたのでしょうか。あるいは見る必要はないと考えているのでしょうか。辺野古新基地建設を強行する安倍政権に忖度した政治弾圧裁判と指弾されてもおかしくはないでしょう。
裁判のなかで、山城さんは「事件の本質は沖縄差別で、裁かれるべきは日本政府である」と語っています。そして沖縄の歴史、米軍施設の過剰負担など、沖縄が置かれている現状を述べ、一方で、新基地建設に伴って政府が行ってきた様々な違法な行為、脱法行為の数々をとりあげています。ここに示された山城さんたちの思いは、かけられた容疑の抗弁ではなく、こうした歴史や社会的背景などをふくめ、日本政府からかけられている様々な行為をしっかりとみて判断して欲しいということだったのです。
平和フォーラムは、今後も辺野古新基地建設に反対するとりくみを力強くすすめていきます。それは、安倍政治のために失われつつある平和と民主主義、地方自治の精神をとりもどすためであり、安倍政治の強権的な振る舞いで、行政機関で隠ぺいや偽造などが横行している現状を打開するためであり、司法が三権分立のまっとうな民主政治に基づく機関となるためにです。そしてあらためて、上告を棄却した最高裁が思料することのなかった沖縄の置かれた歴史や社会的背景を、我々自身との関係のなかで、見つめなおし、沖縄の反基地運動と平和を求める闘いに連帯していく決意です。
2019年4月26日
フォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム)
福井県知事、県内乾式貯蔵検討と ―崩れる再処理正当化論
関西電力の3つの原子力発電所を抱える福井県の西川一誠知事は、2019年3月7日、知事選(4月7日投開票)に向けた政策発表の記者会見で、原子力発電所の使用済み燃料を空冷式の貯蔵容器に入れて敷地内を含む県内で保管する可能性も検討すると明らかにしました。これは、原発の貯蔵プールの空き容量不足のため再処理をするしかないとの議論の根拠を崩すものです。
再処理推進派は、2005年の原子力政策大綱策定時以来、次のような論法で再処理の正当化を図ってきました。「まもなく各地の原発の使用済み燃料プールが満杯になる。原発現地の市町村や県は使用済み燃料の地元外搬出を求めていて、地元での乾式貯蔵を認めてくれない。搬出先は六ヶ所村再処理工場の受け入れプールしかない。これも満杯。早く工場を動かし、燃料を再処理してこのプールに空きを作るしかない。でないと原発のプールが満杯になって原発は運転停止になる。だから工場の早期運転を!」福井県は、1990年代末以来、使用済み燃料は県外に搬出するよう求めてきました。西川知事も再三、県外搬出を主張してきました。
関電の県外搬出約束と知事選
2017年11月27日に知事が大飯原発3、4号機の再稼働に同意した際、県外保管施設について「2018年中に具体的な計画地点を示す」と関電は約束しています。20年に候補地を確保、30年頃操業という計画です。ところが、2018年12月16日に関電は、計画地点提示断念との方針を知事に伝えます。20年に確保の計画には変わりないとのことです。同月28日の定例記者会見で知事は、原発停止などの罰則を与える必要ないとの考えを示しました。
知事の3月7日発表の『元気ビジョン2019』には「使用済燃料の中間貯蔵施設の立地地点の確定を国・事業者に強く要請。中間貯蔵施設搬出までの安全な保管方法について地元市町とともに検討」とあります。知事による2015年3月16日の『福井ふるさと元気宣言』は、「使用済燃料の中間貯蔵施設の県外立地を国・事業者に強く求める」とだけ述べていました。この変化をもたらした背景として、上述の関西電力の提示断念の事態、対立候補の杉本達治前副知事の方針、そして、原発受け入れ自治体の首長らの発言が挙げられます。
記者会見で知事は「(県外に)中間貯蔵施設ができるまでの若干の期間、一時保管するという議論も並行して起こりうる。乾式貯蔵を含め、そういう議論はする」と説明しています。西川知事の下で副知事を務めた杉本氏は「物事を決めつけてやりきることがいいこととは思わない。(乾式など)何が安全か、立地、準立地自治体を含めてよく話をしながら進めていく」との考えを示していました(福井新聞2018年12月7日)。
選挙に重要な影響力を持つ立地自治体首長の昨年の発言は次のようなものです(明記以外は福井新聞から)。
野瀬豊高浜町長
「県内での貯蔵を俎上(そじょう)に載せてもいいのかなと思う」(11月30日)。
中塚寛おおい町長
「町を預かるものとして、地域住民の安全確保が第一」「(乾式貯蔵は)選択肢の一つであることは間違いない」(8月29日)「住民の安心安全を考えたとき、乾式貯蔵も一つの選択肢となり得る」(12月14日。中日新聞)。
山口治太郎美浜町長
「(乾式貯蔵を)前向きにとらえて練る必要がある」「乾式貯蔵の方が発電所の安全性が高まるという話なので」(12月4日)。(美浜町では山口町長が勇退し、2月19日の選挙で戸嶋秀樹前副町長が「後継者」として無投票当選。)
また、日本原子力発電の敦賀原発を抱える敦賀市の渕上隆信市長(全国原子力発電所所在市町村協議会(全原協)会長)は、今年1月4日の記者会見で「安全性を高める点で乾式貯蔵もあり得る、との議論になってくるのではないか…規制委員長が安全と明確に発言したので、敷地内での乾式貯蔵の導入に対してはあまりナーバスにならなくてもよくなってきた」と述べています。
「大きな議論が必要」と原子力規制員会委員長
福井新聞は、原子力規制委員会の更田豊志委員長が2018年11月28日の定例会見で、「サイト内で貯留されているケースにおいては、使用済燃料プールの貯蔵量が多くなるよりは…むしろ乾式キャスクでの貯蔵を望みたい」と改めて述べたことが最近の首長らの発言の背景にあると指摘しています。規制委の2012年9月の発足以来、当時の田中俊一委員長と更田委員長代理は、たびたび、プール貯蔵より乾式貯蔵の方が安全だとし、5年から10年ほどプールで冷やした燃料は乾式貯蔵に移すべきだと発言してきました。これは、2013年の福島第一原発の事故の教訓だと言います。4号機のプールでは火災が心配されたが、同原発の乾式貯蔵施設(日本で導入された二つの乾式貯蔵施設一つ)の方は津波に襲われながら容器自体や燃料は健全だったからとの説明です。規制委は、このような考え方から、乾式貯蔵促進のために、3月13日、申請手続きを簡素化し、建屋なしの貯蔵も認める規則改正案を正式決定しました。
福島事故以前に乾式貯蔵を導入していたもう一つの原発は東海第二原発。事故後原子力規制委に申請をしているのは以下の通りです。中部電力2015年1月26日申請(新基準の下での建屋なし貯蔵検討中)、四国電力伊方原発(2018年5月25日申請)、九州電力玄海原発(2019年1月22日申請)。
更田現委員長は、2月13日の記者会見で、再稼働の現状からすると六ヶ所再処理工場は無用な施設になるのではないかと問われ、「大きな議論が必要」と答えています。田中元委員長は、3月1日都内での講演会で、再処理政策について「個人的にはやらない方がよい」、本格稼働すれば保有量増大と指摘しました。2021年の再処理工場竣工予定を控え大きな議論を巻き起こせるでしょうか。
(「核情報」主宰田窪雅文)
※この核燃政策に対する提案が原因なのか、4月7日の福井県知事選は、対立候補である自民党候補の圧勝となった。西川氏は、元福島県知事の佐藤氏同様、政治的に抹殺されたのか。
《投稿コーナー》高校生平和大使にノーベル平和賞を!ノルウェーで再アピール
3月3~7日、高校生平和大使3名が、広島・長崎両市長の親書を携え、ノーベル平和賞のノミネートに向けてのアピールと現地高校生世代との交流を目的として、2018年に引き続きノルウェーを訪問しました。参加した3名の報告文をお伝えします。
「スピード・実行力のあるオスロ市を見習って」 広島・英数学館高等学校3年 船井木奈美
私は2018年に続き、2回目のノルウェー・オスロ市の訪問となった。1年ぶりのオスロ市は、大きな変化を遂げていた。
オスロ市は環境問題に立ち向かうべく、車の交通量の大幅な削減を行い、EUから2019年度の欧州グリーン首都賞を受賞していた。訪問中の3月5日、ノルウェー政府が核兵器禁止条約に署名しないことを表明した。これに対しオスロ市長は、「政府が条約に署名するよう、オスロ市が政府に圧力をかけていく」と、私たちに決意を語った。ノルウェーも日本と同様、「核の傘」国の立場にあるが、オスロ市の核兵器廃絶に向けた意志は強固に見えた。オスロ市は核兵器問題をはじめとする数々の問題に対し、常に意欲的に取り組んでいる。オスロ市のスピード・実行力を是非とも見習いたい。
オスロ商業高校やNGOで現地高校生と交流し、被爆の実相や私たちの活動を紹介した。生徒からの質問で、核兵器の実在数や保有国、「核の傘」の言葉の意味を聞かれ、日本の若者と同じく、核兵器にまつわる知識の乏しさが問題だと感じた。しかし、短時間の交流の中で「どうしたら高校生平和大使になれるの?」「学校で高校生1万人署名を集めて日本に送るね!」という声が上がり、核兵器廃絶への関心の高まりを目の当たりにし、私達の活動の意義を再確認できた。ノルウェー訪問により、高校生平和大使のネットワークがまた一つ構築され、核兵器廃絶のメッセージが世界に広がる予感がした。
![]() 左からオスロ市のマリアンネ・ボルゲン市長、 中村さん、 山口さん、船井さん |
「再訪」 長崎・活水高等学校3年 中村涼香
今回は日本と同じ核の傘にあるノルウェーが国会で核兵器禁止条約に署名しないことを決定したタイミングで訪問することとなった。そういった意味でもノルウェー外務省を含む各所で軍縮大使などに向けて広島と長崎の被爆の実相や核兵器廃絶の必要性を訴えることができたのは非常に意義のあることであったと思う。また2度目の訪問となった今回、私達の活動が少しずつノルウェーの地でも認知されていることを実感した。今回初めて訪問した在ノルウェー日本国大使館を除き全ての訪問先で英語を用いて自分たちの言葉で直接話すことでより多くのことを伝えることができた。現在、SNSなど世界中が一瞬でつながることのできる媒体が数多く存在する中で直接話すことがいかに重要でその影響力が大きいかを感じた。オスロ商業高校やNGOを通して現地の中学生と交流した時には自分たちができることは何か、どうしたら活動に参加できるのかという質問も多く、私達と同じ核兵器の廃絶を願う仲間を増やすことができた。また私自身訪問を通して学んだことも多く、まだまだ若者が知るべきことは多いことを実感した。そういったことも含め今回の訪問は全てこの活動の次のステップにつながる重要なものであった。私が今回の訪問で見て聞いて学んだことは全て次の高校生にしっかりと引き継いでいきたいと思う。
「若い力」 長崎・活水高等学校1年 山口雪乃
現地では、核兵器廃絶を訴えると同時に自分たちの活動をアピールしてきましたが、交流をしたオスロ商業高校やNGO団体の皆さんの平和活動に対する関心の高さにとても驚きました。どの学生と話をしても、日本の学生と交流をするときよりも活発な話し合いをすることができ、自分自身の意識も以前よりさらに高められたように思います。特に、NGO団体NoToNuclearWeaponsの若者との交流では高校生1万人署名活動の広がりとこれからの可能性を感じました。私たちのこれまでの活動を説明すると、とても関心を持ったようで、「ノルウェーの若者には非核化に向けて何ができるか、日本とノルウェーがNPT条約に署名していない事をどう思うか、ノルウェーと日本の若者が協力できることは何か」など、多くの質問を受けました。私たちが説明したことに対して自分たちもそれを受けて何か行動を起こそうとする姿勢に強く心を打たれ、日本の同世代の若者にも彼らのように積極的に平和活動に取り組む若者がいるという事を伝えたいと思いました。交流した5人の学生は署名活動の存在を知り、自分たちも署名をしたい、学校でも署名を呼びかけて平和のために何かしたい」と非常に協力的でした。これからもこうした若者との交流を通じて署名活動を世界中に広げることで平和活動に関心をもつ若者を増やせるのではないかと期待しています。平和な未来を担う私たち若者が互いに協力しあって、それを実現することが私の願いです。