「戦争のリアル・悲惨!」ブーゲンビル島 海軍「陸戦隊」の過酷な戦い 現代ビジネスより

 「国に見殺しにされた」軍隊の士官が抱え続けた「負い目」とは?

ブーゲンビル島海軍「陸戦隊」の過酷な戦い

2019.5.26  神立 尚紀

太平洋戦争において、米軍の反攻にあい劣勢に立たされた大日本帝国政府は、1943年9月30日、「絶対国防圏」内への戦線縮小を発表する。これは、本土防衛と戦争継続のため、千島ーマリアナ諸島ー西ニューギニアを結ぶラインの内側を死守するという構想だが、この時点で、「国防圏」の外にはまだ多くの将兵が残されていた。

彼らは、それから一切の補給を受けられず、降伏することもできず、ただ死ぬまで戦うことを強いられることになったのだ。東京帝国大学を繰り上げ卒業し、海軍陸戦隊を志願した福山孝之さんは、南太平洋のブーゲンビル島で、その渦中に身をおくことになった。

終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないまま、国から見捨てられた多くの部隊が全滅していくなかで、彼らはいかにして戦い、生き延びたのだろうか。

 ゲーテを手に戦場へ向かった帝大出身の小隊長

「おごそかに伝える。天皇陛下の命により終戦と決まった。軽挙妄動しないように。処置は追って令す」、昭和20(1945)年8月16日、すでに戦線から遥かに取り残された南太平洋、ソロモン諸島に浮かぶブーゲンビル島トリポイルの海軍第八十二警備隊本部。司令・伊藤三郎中佐の訓示を聞いて、居並ぶ士官のなかには、感極まって泣き出す者もいた。

福山孝之さん(故人)は、これまで張りつめていた全身の力が抜けていくような気がしたと言う。もう、敵の飛行機が頭上を飛んでも防空壕に走り込む必要はない。対空戦闘もしなくてよい。午後の明るい日差しのなかで、福山さんたちは数年ぶりの安堵感と解放感を噛みしめていた。

 

 

 

福山孝之さん。昭和17年11月、兵科予備学生の頃。福山さんのアルバムは戦災で焼失し、これが手元に残った海軍時代唯一の写真

福山さんは大正7(1918)年、島根県の生まれ。幼い頃に両親を亡くし、東京・渋谷の祖父母のもとで育てられた。昭和16(1941)年12月、東京帝国大学法学部を繰り上げ卒業(本来は昭和17年3月卒業予定だった)し、「どうせ軍務に服すのなら、陸軍二等兵で入営するより、短剣を吊ったスマートな海軍士官に」と、主に陸戦隊(海軍が編成する陸上戦闘部隊)や対空、対潜、通信の初級指揮官を養成するため新設された「海軍兵科予備学生」を志願。昭和17(1942)年1月、その1期生として横須賀海兵団に入団し、千葉県の館山砲術学校で陸上戦闘指揮の猛訓練を受ける。

 兵科予備学生一期生(陸戦班、館山砲術学校)の集合写真。昭和16年12月、大学、高専を繰り上げ卒業した者のうち、志願者から選抜。3列め左から4人めが福山さん

昭和18(1943)年1月、予備少尉に任官すると、すぐさま横須賀鎮守府第七特別陸戦隊(横七特。総員2300名)に配属され、ソロモン諸島方面の激戦場に送り込まれた。以後、コロンバンガラ島、ブーゲンビル島を渡り歩き、2年半ものあいだ、極限の戦場で苦しい戦いを続けていた。終戦時は海軍大尉で、ブーゲンビル島の日本軍拠点・ブインの北西12キロのところにあるトリポイルの対空砲台の指揮官を務めていた。

南太平洋ビスマルク諸島、ソロモン諸島要図。福山さんは、赤丸で印をつけた左端のラバウル、右端のコロンバンガラ島を経て、中央のブーゲンビル島に移動、トリポイルで終戦を迎えた

出征するとき、福山さんは、ゲーテの『ファウスト』(上・下)とイプセン『野鴨』の3冊の文庫本と日記帳だけを携えて、兵員輸送に使われた特設空母「冲鷹(ちゅうよう)」に便乗、横須賀軍港をあとにした。福山さんは、内地から最初に赴任したニューブリテン島ラバウルで、自分の部下となる人たちと最初に顔を合わせたとき、その姿に衝撃を受けたという。

旧日本海軍の一大拠点であったラバウルの現在の姿(撮影:神立尚紀)

「中隊長が、新任小隊長の私を紹介し、皆一斉に私に敬礼しました。しかし驚いたことに、脚はだらっと曲がったまま、銃の持ち方もバラバラで概ね猫背、目は漠然と前を見ているだけ。館山で厳しい訓練を受けてきたばかりの私は、あまりの違いに驚きました。部下となったのは、下士官1名と数名の徴兵の現役兵をのぞけば、あとは3名の下士官もふくめて応召の年配者が多く、残りは17歳以下の若い志願兵でした」

ソロモン諸島をめぐる日米両軍の攻防戦は日ごとに厳しさを増していたが、ときはガダルカナル島から日本軍が撤退した直後、精強な部隊は前線ですでに底をついていたのだ。世界屈指の悪疫の地であるソロモン諸島では、マラリアやアメーバ赤痢、熱帯性潰瘍などの風土病にかかって斃れる者が、戦死者の何倍にものぼっていた。

25歳で死生観の転機を迎えた

昭和18(1943)年4月、福山さんはコロンバンガラ島に送られ、自らの小隊を率い、敵の上陸に備えて海岸線の防備にあたった。そこは文字通りの最前線で、連日、敵機の空襲や艦砲射撃、対岸の島からの砲撃にさらされ、福山さん自身も、防空壕が敵弾の直撃を受けて7時間ものあいだ、土砂に生き埋めになり、あわやということもあった。

福山さんがラバウルの次に進出したコロンバンガラ島近辺の地図

「しかし、このことがあってからは、それまで神経質でくよくよするタイプだった私が、なるようにしかならないと腹が据わって、大抵のことは気にならなくなりました。25歳で死生観の転機を迎えたんですね」

米軍に制空権を奪われて物資の輸送もままならなくなり、8月には後方からの補給も絶え、ひと月も経たないうちに島の各隊は食糧不足に陥った。上級司令部はコロンバンガラ島の維持をあきらめ、守備隊をブーゲンビル島に後退させることを決めた。

ソロモン海を航行する輸送船。敵機の空襲に犠牲も大きかった

ソロモン諸島の最前線で、輸送船から補給兵器を揚陸する様子

昭和18年10月、福山さんの部隊は、大発(輸送用舟艇)に乗り、途中、海戦の合間を通過したり、敵機の空襲に遭ったりしながら、やっとの思いでブーゲンビル島東南端の、日本軍の前進拠点であったブインにたどり着く。だが、そこで待っていたのも、飢餓と疫病と戦闘であることには変わりはなかった。

「コロンバンガラから帰還した我々は、ブインで敗残部隊の扱いを受けました。軍需部から衣服ももらえなければ、食糧も少ししかもらえない。軍隊には必ず『帳簿外』の物品がありますから、もとからそこにいた部隊ならそれでもなんとかなったんでしょうが、我々は引き揚げ部隊ですから、帳簿外のものがなにもない。結局、うちの部隊は、ボロボロの服のまま食糧もなく、自分たちで生きる方法を考えるしかありませんでした。

私は、半袖、半ズボンの防暑服は2着ほど持っていましたが、戦闘時の服装は、コロンバンガラ島で生き埋めになったときに着ていた草色の第三種軍装を、着替える服もないので終戦まで着続けました。弾片でほころびたのを、従兵が繕ってくれた服です」

9月から10月にかけて、ソロモンに在陣する同期生の大半が後輩の2期生と交代し、内地に呼び戻されたが、なぜか福山さんにだけ転勤辞令が来ず、防空砲台の指揮官として現地に残されることになった。

<何事も喜んで受け入れよ。長としての責任を負ひ、修養につとめるこれ以上の機會はない。我と我身に鞭を打たねばならない。どうせ人の一生は、坂道で重い石を持ち上げて居るやうなもの。これ位の重荷にくじけてはならぬ。>

と、福山さんは当時の心情を日記に記している。

今後補給はしないが降伏は許さない、死ぬまで戦え

しかし、最前線で戦う将兵の悲壮な覚悟を裏切るかのように、9月30日、日本政府は、戦線縮小と作戦方針の見直しをふくめた「絶対国防圏」構想を決定、即日発表する。これは、北は千島からマリアナ諸島、西部ニューギニアにいたるラインを絶対国防圏として死守するというものだが、それは同時に、その圏外にある日本軍将兵を、国が見殺しにする、ということでもあった。少なくとも福山さんたちは、そのように受け止めた。

「絶対国防圏の外側には、東部ニューギニア、ラバウル、ソロモンを中心に、約30万もの将兵がいたんですよ。その30万名に対して、今後補給はしないが降伏は許さない、死ぬまで戦えと、そんな無茶な命令を出したというのは、世界史上にもあまり例を見ないんじゃないでしょうか。とにかくこの構想を聞かされたときは、とんでもないことだとみんな憤慨していましたね」

11月1日、米軍はブインから約80キロ離れたブーゲンビル島中南部のトロキナ(タロキナ)に上陸、みるみるうちに橋頭保(きょうとうほ・攻撃の足場)を築き、飛行場を建設、島全体の制空権を完全に掌握する。同時に、ブイン地区の日本軍陣地に対する空襲も激しさを増していった。

「見捨てられても降参はできない。任務に忠実に、敵機が来たら戦わなければなりません。私の砲台では、偽陣地をつくって敵の攻撃をそらすなどの工夫を重ねながら、戦闘に明け暮れました。あるとき、銃座が直撃弾をくらって5名が一度に戦死したことがありましたが、班長の下士官は、頭に負傷して血をしたたらせながらも手ぬぐいで鉢巻をして、一生懸命に機銃を修理していた。そういう、責任感の強いよい部下に恵まれたことは、あの酷い戦争のなかでの唯一の救いでした」

福山さんが指揮官を務めるトリポイルの対空砲台は、143名の隊員からなり、12センチ高角砲4門、25ミリ連装対空機銃3基、20ミリ機銃3挺、ほか高射器、測距器、探照灯などを装備していた。昭和18年11月以降、終戦までの間に、福山隊の対空戦闘は89回にのぼり、数機の敵機を撃墜している。

 

世界史に類を見ない、イモ作りに追われる戦闘部隊

昭和18年9月以降、ブーゲンビル島への補給はまったく絶え、食糧事情は日に日に悪くなっていった。支給されるのは僅かな米と乾燥野菜だけ、昭和19(1944)年中頃にはその米も底をつく。栄養失調にマラリアが追い打ちをかけ、兵員の体力はますます衰えるばかりだった。対空戦闘には機敏な動きが要求されるが、隊員たちは皆、青白く痩せこけて、立っているだけで精いっぱい、高角砲の弾薬筒を取り落としたり、砲手の力が足りず、弾丸がスムーズに薬室に入らなかったりすることもあった。

「やむなく、各隊ごとに、戦いながらジャングルを切り開いて農地を開墾し、自給自足の態勢を整えることになりましたが、開墾するまでが大変な労力なんです。空襲がないときはもっぱら農園づくりに励みましたが、戦闘や訓練で時間が取られる上に病人が多く、なかなかはかどらなかった。イモが生育するまではイモの葉を煮て、わずかに飢えをしのいでいました」

福山隊では、漁師出身者で漁労班を編成して、魚とりやフカ(鮫)釣りに派遣した。塩も不足したので、製塩班をつくり、海岸でドラム缶を使い、海水を煮て塩を得たが、燃料となる薪を用意するだけでも、衰えた体には重労働だった。食糧不足は各隊とも同じだったので、畑荒らしが頻発、ときに発砲騒ぎや自殺者が出ることもあった。食糧を求めてあてどもなく歩き回る兵の姿を見ることもめずらしくなかった。

ふつう、100名の部隊で4ヘクタールの畑があれば、隊員が生きてゆくために十分なイモと少々の野菜をつくることができたが、福山隊では8ヘクタールの畑を耕し、パイナップルやインゲン豆なども栽培していた。

昭和19年秋頃にはイモの生育もよくなり、しだいに食糧事情は好転してきたが、こんどは医薬品が不足し、マラリアで病死する者が増えてきた。しまいには、医務隊から食糧と引き換えに流出した薬にも闇値がつき、マラリア薬一粒が10円(現在の2~3万円に相当する)もの値段で取引されるようにもなった。

「戦闘を主任務とする軍隊が、生きるためとはいえイモ作りに追われているのは異常な姿で、これではまるで屯田兵、あるいは集団入植です。こんな軍隊も、おそらく世界史上にないでしょう。一般的にはあまり文明的な暮らしをしていなかった当時の日本人だからこそ、ああいう暮らしにも耐えられたんだと思います」

 

ゲリラとの戦いに散った「士官の鑑」のような指揮官

昭和20(1945)年に入ると、前年11月に米軍に代わってトロキナに陣を敷いたオーストラリア軍が、ブインの日本軍拠点に対して本格的に侵攻を始めた。日本軍はこれを迎え撃ち、しばしば夜襲で敵を悩ましたが、5月にはそれまで日本軍に協力的だった現地人が離反、集団で姿を消すとともに、前線に派遣した分遣隊がその襲撃を受けるようになり、なかには全滅させられた部隊もあった。ゲリラ化した現地人に襲われた戦死者の遺体には多数の毒矢が刺さり、また、蕃刀(ばんとう)でメッタ斬りにされた遺体もあった。

襲撃の模様から、現地人は数は少ないながらも火器を持っていること、幕舎のなかがくまなく荒らされていることから、日本軍の命令書や地図を奪うのが目的の一つと推定された。

司令部はただちにゲリラの討伐隊を出動させたが、第一次の討伐隊は、交戦中に隊長が敵弾を膝に受けて後退し、続いて鈴木芳徳中尉が率いる一個小隊に出動命令がくだった。鈴木隊はジャングル内の小道をたどって進んだが、途中、草むらに真新しい日本の三八式歩兵銃が落ちていたのを、鈴木中尉が不審に思い拾い上げた瞬間、地雷が爆発した。銃は、敵の仕掛けた罠であった。その銃は、ピアノ線で地雷につながっていて、強く引くと爆発するようになっていたのだ。鈴木中尉は即死した。ときに昭和20年5月14日だった。

「鈴木中尉は、兵科予備学生二期、青山学院前の有名なパン屋の息子でした。東京農業大学の醸造科を出ていて、イモが収穫できるようになってからは、隊で焼酎を作ったりもしました。勇敢な男でね、私たちなら銃撃を受けると反射的に身をすくめますが、彼は毅然として立ったままで戦闘指揮をしている。彼ほど胆の据わった人はいなかった。我々大学出のにわか士官の鑑のような男でした」

8月になると、オーストラリア軍は、日本軍陣地から、重砲の射程圏内となる15キロの地点まで進出してきた。そこを流れるミオ川が天然の濠になっているが、この線が破られれば、あと3、4日で敵軍がなだれ込んでくる。

ブーゲンビル島のオーストラリア軍侵攻図。終戦時、福山さんは、ミオ川をはさんで敵軍と対峙していた

「オーストラリア軍は、武器は米軍ほどではありませんが、戦法は同じです。飛行機で攻撃をかけてくるのと並行して、道路をつくりながら大砲を前進させ、その大砲で徹底的に叩いてから、歩兵が戦車と一緒に出てくるという戦い方でした」

 

4万3千名の犠牲者のうち戦死者は9千名

日本側は、砲弾も残りわずかである。福山隊では1門あたり70発の砲弾しか残っておらず、他の砲台でもこれは似たような状況だった。全滅を、誰もが覚悟した。そんな最終局面にあった8月16日、内地より一日遅れて、ブインの日本軍将兵にも終戦が伝えられたのだ。

第八十二警備隊本部から持ち場の砲台に戻った福山さんは、隊員を集め、台上から終戦になったことを告げ、

「皆も苦労の連続だったが、これで終わった。生きて還れるぞ!」

と結んだ。すると、誰からともなく突然、「ワッ」という喚声が上がり、全員が諸手を挙げ、なかには跳び上がって喜ぶ者さえいた。本国から見放されて2年近く、太平洋の捨て子部隊の、率直な感情の発露だった。

ブーゲンビル島ではいまも、旧日本軍が造った防空壕を現地の人が日常生活に使っている。画面左側、コンクリート製構造物が防空壕の入口(撮影:神立尚紀)

終戦時、ブーゲンビル島に生き残った日本軍は、軍人、軍属合わせて2万4千名あまり。昭和18年秋から終戦までに、4万3千名近くが犠牲になっていた。そのうち戦死者は約9千名にすぎず、残りは栄養失調や、マラリアなど風土病で死亡した者だった。なかには、せっかく終戦まで生き延びたのに、捕虜収容所に送られる前に病死した者も少なからずいた。

「私の隊は戦闘部隊ですから、戦死25名、戦病死も25名で、ブーゲンビル島の部隊のなかでは比較的、戦病死者が少ない方でした。敵機は毎日のように来襲するとはいえ、戦闘自体は数分間で、あとは農作業なわけですから、毎日、農作業にどれだけ人を割けるかが、生きるための鍵でしたね……」

福山さんはその後、ほかの隊員たちとともに、ブーゲンビル島の沖合にあるファウロ諸島の、マサマサ島やタウノ島に設けられた捕虜収容所に送られた。

 

「生き残った負い目を背負って生きている」

翌昭和21(1946)年2月、復員輸送に使われた空母「葛城(かつらぎ)」に乗って浦賀に上陸、ちょうど3年ぶりに祖国の土を踏んだ。冬なのにボロボロの防暑服を着て、骨と皮ばかりに痩せた異様な姿の復員者の群れを見て、道ゆく人は皆、顔をそむけた。福山さんの目には、町の人たちの顔がみんな、ふっくらと桜色に見えた。

東京に帰ってみると、見渡す限りの焼野原で、渋谷の自宅も焼失、育ててくれた祖父母や縁者も亡くなっていて、まさに「今浦島」の気分だった。自宅の焼け跡には、見覚えのある茶碗のかけらが落ちていたのみで、大切な本やアルバムはもちろん、福山さんのものは何も残っていなかった。がっかりしてその場に座り込むと、真白く雪を頂いた富士山の姿が、とても近くに見えた。かつて自宅から富士山は見えなかったのに、視界を遮る建物が一軒残らず焼失していたのだ。

福山さんは北海道の親戚宅に身を寄せて、栄養失調とマラリアで衰えた体を休ませたのち、大学卒業時に採用の決まっていた日鉄鉱業に復職。60歳まで会社勤めを全うし、その後はソロモン方面の戦没者慰霊に尽くした。

「戦争中の生死を賭けた3年間を思えば、あとのことは単なる付け足しです。あの期間は人生のなかの別物で、残りの人生とのつながりは全然ない。海軍時代の経験が、戦後の自分の仕事の役に立ったとも思えない。しかし、あの戦争で死んだ人たちのことはけっして忘れてはいません。第一線で戦って生き残った者は誰もが、死んだ仲間に対してすまないと、多かれ少なかれ負い目を背負って生きてると思うんですよ」

福山孝之さん。戦後は会社勤務を経て、戦没者慰霊に尽くした(撮影:神立尚紀)

だからこそ、いまも慰霊祭に、高齢でほんとうはもう歩けないような人たちまでもが、命がけで出てくる。「生き残った負い目」を償うすべが、そんな形でしか、彼ら当事者にはないのである。

戦後74年が経とうとするいま、ガダルカナル島以外のソロモン諸島の戦いについてはあまり語られることがない。だが、国から遺棄されてなお、生きるために戦い、戦場に斃れた幾万の将兵がいたことも、記憶にとどめておきたい。

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