米国の未臨界核実験に対する抗議声明

2019年06月03日

米国の未臨界核実験に対する抗議声明
原水爆禁止日本国民会議
議  長 川野浩一
事務局長 藤本泰成
 2019年5月下旬、米国が2017年の12月以来トランプ政権で2回目となる未臨界核実験を、2019年2月13日にネバダ州の核実験場で行ったことが明らかになった。核兵器禁止条約採択に象徴される世界の核兵器廃絶への思いを踏みにじる米国の核実験に、原水爆禁止日本国民会議は強く抗議する。核実験を繰り返す米国に、朝鮮半島の非核化を主張し、朝鮮民主主義人民共和国をきびしい制裁阻止で追い詰める資格はない。
 トランプ政権は、2018年2月2日、核政策の指針となる「核戦略態勢の見直し」(NPR)を発表し、小型核(低出力核)や新たな潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)など、使用可能な核兵器の開発をすすめるとした。2020年度の予算教書では、124億ドル(約1兆3500億円)、前年度比11%増の核兵器関連予算がつけられている。米国は、2019年2月1日、中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱を宣言した。条約は8月に失効する。ロシア・中国に加えて、米国が中距離核の開発に着手することは、ヨーロッパと東北アジアの脅威となるに違いない。米国情報機関からの、「ロシアが低出力核実験を行っている可能性が高い」との報告もあり、米ロ間の核兵器競争が激化する可能性も否定できない。
 2020年4月末からの開催が予定される核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備会が5月10日に閉幕した。準備会では、核兵器保有国と非保有国との間で意見が対立し、本会議の方向性を決定づける勧告案が不採択となった。2017年7月7日、国連で採択された核兵器禁止条約は、現在70カ国が署名し、23カ国が批准している。世界の思いに、核兵器保有国は背を向けてはならない。核兵器保有国と非保有国の対立を深めるとして、核兵器禁止条約に反対する日本政府は、条約を批准し、唯一の戦争被爆国としての態度を明らかにしながら、核兵器廃絶への道筋を明確にしていく責任がある。
 原水禁は、連合・KAKKINと協力し、日本政府に核兵器禁止条約の批准を求める「核兵器廃絶1000万人署名」に、全力でとりくむ。「核と人類は共存できない」ことを基本に、2020年のNPT再検討会議の成功と核廃絶の明確な道筋の構築に向けて、全力でとりくむ。その決意を確認して、米国の未臨界核実験への抗議とする。(5月30日)
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辺野古埋め立て用の県外土砂搬出を止めよう!

辺野古埋め立て用の県外土砂搬出を止めよう!61万筆の請願署名提出(平和フォーラムより)

2019年6月11日

 防衛省は辺野古新基地建設に伴う埋め立て用に、2100 万m³もの土砂が必要とし、うち 約1700 万m³を沖縄県外の徳之島、奄美大島、佐多岬、天草、五島、門司及び瀬戸内各地区 で採取した土砂を使用する計画を立てています。これら土砂の搬出地の住民や環境団体らが2015年5月、「故郷の土で辺野古に基地をつくらせない」との思いから、「辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会(略称:辺野古土砂全協)」を設立し、内閣総理大臣宛に土砂搬出反対の署名活動をはじめ、各地で学習会を開催するなど活動を進めていました。

 総がかり行動実行委員会は昨年10月、辺野古土砂全協の呼びかけに応え、新たに始められた衆参両議長宛の請願署名行動にとりくみ、全国の市民、労働組合の協力でこれまでに609,824筆(2019年6月7日現在)が集まっています。
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 辺野古土砂全協と総がかり行動実行委は6月10日、ストップ辺野古の思いが詰まった請願署名約61万筆を衆参両議長に提出し、衆議院第2議員会館でこの署名を背景に防衛省、環境省と交渉を行ったほか、立憲野党4党一会派の国会議員に署名を手交し、国会と市民らが連携したとりくみを行っていくことを確認しました。また請願署名提出後の報告集会では、省庁交渉のようすを北上田毅さん、末田一秀さんらが報告し、また奄美、門司、瀬戸内海から駆けつけた各地の市民団体の代表者らが現地の報告を行いました。そして湯浅一郎さん(全国土砂全協顧問)が軟弱地盤対策で課題となる海砂や鉄鋼スラグ投入の問題をとりあげ、生物多様性の観点から容認できないと批判し、加えて搬出先の特定外来生物の調査を継続して取り組む必要性を訴えました。最後に総がかり行動実行委の勝島一博さんが閉会のあいさつを行い、辺野古土砂全協、「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会などの市民団体と協力し合いながら、辺野古新基地建設の反対のとりくみを強化し、あわせて建設強行する安倍政権を退陣に追い込むため参議院選挙での野党勝利が不可欠と、参院選への意気込みを訴えました。
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6.8志賀原発を廃炉に!原告団総会・樋口英明氏記念講演資料

6月8日(土)午後1時30分、石川県教育会館3Fホールに原告・サポーター、弁護団、市民ら約230人(講演だけの参加を含む)が集まり、志賀原発を廃炉に!訴訟原告団の2019年度総会が開催されました。(県平和センターよりリンクあり 同HPより無断転載 m(_ _)m)

最初に、北野原告団長があいさつしました。
志賀原発では活断層の上に核燃料がある。万一事故があったら私たちはどうなるのか。北野さんは裁判所がその危険性を放置し続けていることを、怒りを込めて糾弾しました。また「安全最優先の文化確立」を標榜(ひようぼう)しながら、原発の危険性を顧みず「再稼働最優先」に突き進む北陸電力を厳しく批判し、その姿勢が経営面にさまざまな歪みを生んでいることを指摘しました。
そして、富山で新しい訴訟を起す本総会の議案に触れ、52年にも及ぶ志賀(能登)原発反対運動の枠を越えて、新たな1ページを付け加えようと述べ、活発な議論を求めました。

樋口英明元福井地裁裁判長の講演資料を無断転載

樋口英明元福井地裁の判決では、いわゆる「国富論」が有名ですが、樋口さんは、原発を「技術論」に巻き込みたいのは「原発ムラ」と言われる人たちであり、その数値は「歪められ」「修正された」ものが殆どだが、それを裁判官は信用してしまう。その典型が「活断層」であり「基準地震動の値」である。一般人の感覚で、自分の頭で考えることが「裁判官」に求められている最も重要なことと、最近の「安倍政権寄り」の判決を批判した。

特に、一般住宅の「耐地震対策」で示された「値」より圧倒的に低い原発の基準地震動を見れば一目瞭然だと講演し、これは私たちが、ここに集まった全ての人々が伝えなければならないものだと、今後の行動指針まで提案された。

※資料はクリックすると大きくなります。

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米軍ヘリの部品落下事故に抗議する声明

米軍ヘリの部品落下事故に抗議する声明

2019年6月6日

フォーラム平和・人権・環境

共同代表 藤本 泰成

6月4日午後3時半ごろ、またしても米軍普天間基地所属のCH53E大型輸送ヘリが、沖縄県浦添市の浦西中学校のテニスコートに部品を落下させる事故を起こした。落下時には部活動中の同中学校の生徒が二十数人いたという。幸い怪我人もなく事なきを得たが、一歩間違えれば重大な事故になるところだった。

在沖米軍海兵隊は翌日、ヘリコプターの羽根の部分を保護するテープが落下したことを認めたが、「人や物に危害を与えるものではない」と開き直る発言すらしている。言語道断だ。米軍には人命を重視する安全管理の考え方が欠如しているとしか考えられない。落下した部品は、目視で確認できる羽根の部分であるにもかかわらず、飛行前に行うであろう点検で見落としたということだ。たかだか「20g程度のゴムの切れ端」では済まされない。日本政府も「再発防止策がとられている」として飛行停止を米軍に申し入れることはしないと述べている。事態をあまりにも軽く考えているのではないか。これまでも米軍は事故を起こすたびに安全管理を徹底させると述べてきた。しかしどうであろう、この間の相次ぐ事故を振り返れば、具体的な対策を取るつもりがないことは明白だろう。

米軍機による部品落下事故で記憶に新しいところでは、2017年12月7日、宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根に部品が落下した事故、同年12月13日に同じく宜野湾市の普天間第二小の校庭に大型ヘリの窓が落下、児童一名が負傷している。いずれも今回の事故と同型機によるものだ。2017年はこの2件を含めて4件、2018年はオスプレイのエンジン部品など2件の落下事故が起きている。普天間基地周辺や普天間基地所属の米軍機によるものが大半だ。

沖縄県と県教育委員会は「県民に大きな不安を与え極めて遺憾」「児童生徒の安全を脅かすようなことは断じてあってはならない」として学校上空の飛行を取りやめるよう求めている。子どもたちや住民のいのちを第一に考えれば、当然の要求だ。

安全対策を軽んじる日米双方の対応を断じて許すわけにはいかない。まずは、米軍機はすべていったん飛行停止にすべきだ。と同時に世界で一番危険とされる普天間基地を運用停止にすべきだ。そうでなければ、子どもたち、人々のいのちは守れない。

平和フォーラムは、在日米軍の今回の事故に強く抗議するとともに、普天間基地の即時閉鎖・返還、日米地位協定の抜本的な改定を求め、危険と隣り合わせにある基地周辺住民、過剰な基地負担に喘ぐ沖縄の現状を打開するために全力を挙げていく。

以上

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6.6 臨界事故隠し20周年「志賀原発を廃炉に!」北電本社申し入れ

2019年6月6日

申 入 書

北陸電力株式会社 社長  金井 豊 様

さよなら!志賀原発ネットワーク

志賀原発を廃炉に!訴訟 原告団

命のネットワーク

石川県平和運動センター

富山県平和運動センター

今から20年前の1999年6月18日、定期検査で停止中の志賀原発で3本の制御棒が抜け落ち原子炉が臨界に達するという臨界事故が起きました。緊急停止に失敗し原子炉を直ちに停止させることができず臨界が15分間継続、止まっているはずの原発が急に動き出して、すぐには止められなかったという事故です。原子炉の制御に失敗したチェルノブイリと同じタイプの事故で、臨界が15分で収束しなければ、あわや核惨事になるところでした。3.11福島事故の前に、能登で原発過酷事故が起きていたかもしれなかったのです。

原子炉設置許可の際、安全審査で想定されているのは制御棒1本の落下だけですが、この事故では3本の制御棒が落下したのです。つまり安全審査の想定がまったく不十分で、安全審査に通っても『「止める」・「冷やす」・「閉じ込める」という重大事故防止策の第一歩の「止める」に失敗することがあり得る』ことが実証されたわけです。

ところが北陸電力は運転日誌を改ざんし、この事故を隠蔽してしまいました。臨界事故を隠蔽したまま志賀原発2号機の建設が同年8月に開始され、事故と隠蔽の事実が明らかになったのは8年後の2007年3月15日、2号機の営業運転開始1年後のことでした。もし臨界事故が発生後直ちに公表されていたら、2号機の建設は困難だったでしょう。

隠蔽されていた臨界事故が明らかになり、事故の重大性に加え、隠蔽が長期間に及んだその悪質さ、しかもその事実を国が把握していなかったことに、地元住民だけでなく多くの市民がたいへんショックを受けました。この事故は全国的にも大きく報道され、志賀原発の名は全国に知れ渡ることになりました。臨界事故隠蔽が発覚した後、当時の原子力・安全保安院は事故の重大性にかんがみ、直ちに志賀1号機の停止措置をとり原因調査・再発防止策の策定を指示しました。この時点で設置許可が取り消されてもおかしくはありませんでした。この時、北陸電力は原発から撤退の決断をするべきだったし、それが最も確実な再発防止策でした。

臨界事故の発覚後、明らかになった沸騰水型原発の制御棒の構造的欠陥は、結局、何ら改良されておらず、手順の確認を強化するなどソフト面の対応がとられただけで抜本的な再発防止対策はありません。ところが北陸電力は「隠さない企業風土と安全文化の構築」とか、「法令・ルールを遵守し、絶対に隠さない、新しい北陸電力を創り上げる」などと事故を隠蔽したことが問題だったかのように臨界事故の重大性を矮小化してしまいました。しかしその後も相変わらず事故・トラブルは繰り返されています。その原因は一体どこにあるのでしょうか。また、“絶対に隠さない”企業になっているでしょうか。事故・トラブルの度に不都合な情報は隠されて、“安全文化の構築”も掛け声に過ぎないことが明らかではないでしょうか。

2011年3月11日の東日本大震災以降、志賀原発は1号機、2号機ともに停止したまま8年以上になりますが、電力供給には問題は生じていません。一方、北陸電力はこの間終始一貫して「志賀原発の早期再稼働を目指す」として、2014年8月には2号機の新規制基準への適合性審査(安全審査)を申請しました。しかし審査は進捗せず再稼働の目処は立たない状況です。

一方、原子炉は停止していても原子炉建屋への雨水流入、大雨によるモニタリング・ポスト床上浸水、あるいは運転開始以来一度も点検していなかった換気装置の損傷が発見されるなど、次から次へと事故・トラブルが繰り返されています。事故を想定した原子力規制委員会との訓練で最低評価を受けていた事実が数ヵ月後に明らかになったこともありました。停止中でもゆるがせにはできない安全管理体制に緩みが生じているのではないかと危惧される状況です。「安全文化の構築」には程遠い志賀原発の実態に、私たちは不安を感じています。

いま原子炉内の核燃料はすべて使用済み核燃料プールに移されており臨界事故が起きる可能性はありませんが、直下に活断層があると指摘されている原子炉建屋の使用済み核燃料プールに使用済み、使用中に加え新燃料まですべての核燃料が入っています。その総数は1号機と2号機あわせて2985体、うち使用済み核燃料は872体あり、もしプールが冷却できない状況になればたいへん危険です。しかも沸騰水型原発では原子炉建屋の最上階に蓋のない燃料プールがありテロ攻撃には非常に脆弱であり、停止していても核燃料が存在すること自体が大きなリスクとなっています。

20年前の臨界事故で明らかになったのは、北陸電力の安全軽視と隠蔽体質、それ加えて原発の運転管理に関する技術的能力の欠如であったと、私たちは考えています。残念ながらこの状況は改善されておらず、むしろ長期間停止による運転員の士気の低下など新たな問題も生じています。

何よりも深刻な問題は、敷地内の活断層の存在です。その活動性が否定できない以上、志賀原発の再稼働などあり得ません。臨界事故を忘れフクシマから何も学ぼうとしない北陸電力に、原発運転の資格はありません。臨界事故隠蔽の発覚後、「経営トップからの『安全最優先』の強力な意思表明」ということが謳われていましたが、活断層問題に『安全最優先』で対応するなら、当然、志賀原発は廃炉の選択をするべきです。

電力供給には必要のない、まったく発電せずに電力を消費しているだけの原発のために、これ以上危険にさらされることのないよう、臨界事故から20年のいま、あらためて「北陸電力に原発運転の資格なし!」と訴えるとともに志賀原発の速やかな廃炉を求め、以下、申し入れます。

【 申入れ事項 】

1.『臨界事故から20年』の節目にあたり「原発は停止中であっても過酷事故に至る危険性がある」という臨界事故の教訓を踏まえ、改めての総点検作業を行い「安全文化の構築」、「隠さない企業風土づくり」がいまだに達成できていない原因と今後の対策を明らかにすること。

回答:日々、安全を追及し体制を整えている。毎年、6月をコンプライアンス月間として最大限、追い求めている。臨界事故は深刻な事故だったと受け止めている。隠ぺい体質といわれても仕方なかった。そこで臨界事故を風化させないよう再発防止対策にずっと取り組んでいる。臨界事故を起こした6月をこコンプライアンス月間として、幅広くコンプライアンスに係わる社会の問題について社員間で討議する機会を設けている。2017年は臨界事故が発覚して10年ということで全社員で何があったかを共有している。ただ、安全文化は直ちには確立できない。日々努力している。

反論:努力を重ねていると言っても結果的には2016年9月の雨水流入事故発生や活断層問題への対応などを見ても「隠さない風土」や「安全文化」は口先だけだということが一目瞭然。活断層問題でも安全優先の姿勢は全く見えず、はじめに再稼働ありきである。にもかかわらず日々努力を重ねているから認めてくださという。こういう企業がいま現在も2985体の使用済み核燃料など多くの核物質を扱っている。
コンプライアンスについても、この申し入れ行動に参加した市民の顔写真を北電社員が無断で撮影していることが参加者から指摘された。コンプライアンス月間を設けていると言ってもやってることはコンプライアンスの欠如。指摘されるまで自覚すらない。

2.臨界事故隠蔽の発覚後に示された『安全最優先』の方針を、改めて経営トップが表明すること。

回答:ご意見として拝聴します。久和前社長、金井社長も様々な場面で安全最優先を表明している。

反論:それが社内的に全く浸透していない。むしろ社長自ら再稼働最優先の発言を繰り返している。

3.とくに、敷地内断層の問題について『安全最優先』の方針で対応すること。すなわち、専門家の間で活動性についての評価が分かれる場合は、安全側に立って「活断層である」と判断すること。

回答:見解の相違   我々は「活断層」と見ていない。

反論:まずは有識者会合の評価書が「重要な知見」であると認め、安全最優先の対応を実践すること。再稼働に都合の悪い真実から目をそらす姿勢ばかりが目に映る。

4.敷地内断層の活動性が否定できるまでの間、断層上にある原子炉建屋から核燃料を撤去し、より危険性の少ない場所で保管すること。

回答:見解の相違  ご意見として拝聴します。

反論:まさに安全意識の欠如。活断層であることを否定できないうちは「推定活断層」として核燃料の撤去など行い、少しでも住民の安全性を高めるための取り組みがあってこそ、「安全文化」ではないか。

5.廃炉後の核燃料の取扱いについて検討を開始するとともに、核燃料が存在する限りは核燃料プールへのテロ攻撃の可能性があることを想定して、「特定重大事故等対処施設」(いわゆるテロ対策施設)の準備を早急に進めること。

回答:鋭意、検討中。

反論:核物質を保管している限り、テロのリスクは常に付きまとう。加えて活断層上にある建屋の燃料プールの中に核物質がある。臨界事故など「特定重大事故等対処施設」は待ったなしである。しかし、現実時点で具体的な計画はなく、予算額も不明。新規制基準適合のための安全対策費を1千億円台と述べてきたが、その中にも含まれていない。この特重施設の建設には数百億円、場合によっては1千億円を超えるケースもあるという。安全対策費がさらに経営を圧迫することが明らかになった。

やり取りでは、活断層であると認定されたのだから「安全側」で対応し、「廃炉」にすべき。「蛍光灯が切れても報告する風土づくり」をやってきたが、2016年、雨水事件を起こし「全電源喪失の危機」一歩手前であったのに、それを9日間、隠蔽した。その後の金井社長の「ちょっとした気の弛みがあった」発言にこそ、「安全第一」を放棄した姿勢がみえる。それが「再稼働第一」しか言わない北陸電力の根本問題である。

一方、申し入れ団を勝手に、前から撮る北陸電力社員に抗議した。 これらの「ゆるい」認識があるから、私たちは北電本社まで「廃炉を申し入れ」に来ていることを分かるべきだ、と追及した。

北野 進原告団団長ブログより無断転載部分あり。m(_ _)m

 

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「何故攻撃に出ぬか…」 昭和天皇の「お言葉」

「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々  戦争責任の苦悩も明らかになったが…

辻田 真佐憲 文筆家  近現代史研究者

 

12月8日は、太平洋戦争開戦の日である。

この戦争を巡っては、昭和天皇が晩年の1987年まで「辛い」「戦争の責任のことをいわれる」などと悩んでいたことが、今年発見された資料で明らかになった(「小林忍侍従日記」)。

日本共産党の志位和夫委員長は、この資料発見のニュースに関連して「昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ」(8月23日)などとツイートし、大きな反響を引き起こした。

志位和夫 ✔@shiikazuo

「『戦争責任言われつらい』晩年の昭和天皇吐露」
昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ。

昭和天皇と戦争の話題は現在でも尽きるところを知らない。では、昭和天皇は太平洋戦争下にどのような発言をしていたのだろうか。既存の資料からその「お言葉」をたどってみたい。

昭和天皇〔PHOTO〕gettyimages

「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」

昭和天皇が、一貫して平和主義者だったかどうかについては、様々な議論がある。ただ、アメリカとの戦争に当初乗り気でなかったのは間違いない。高い国力を誇り、資源も豊富な同国を相手にすれば、惨敗する蓋然性が高かったからである。

もっとも、その心配を払拭するかのように、日本軍は緒戦で驚異的な快進撃を続けた。1941年12月に開戦するや、日本海軍は、真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊主力を戦闘不能ならしめ、またマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊主力を海の藻屑と葬り去った。

日本陸軍もこれに負けじと同月に香港を占領し、1942年1月にマニラ、2月にシンガポール、3月にラングーンおよび蘭印(オランダ領東インド諸島)をつぎつぎに占領、連戦連勝の凱歌をあげた。

続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。1941年12月25日には早くも、

「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、

「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)

といって、喜びを隠さなかった。

そのため、同年4月にアメリカの空母部隊によって東京が初空襲されても(ドゥーリトル爆撃)、なかなか信用せず、すぐに避難しようとしないぐらいだった。

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」

しかし、日本軍の快勝は長く続かなかった。本土への空襲を許した日本軍は、西太平洋の制海権を掌握するためミッドウェー島の攻略を企図した。開戦以来、無敵を誇る日本の空母部隊は、意気揚々と内地を出発し、進路を東に取った。

――よく知られるように、1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。

この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、

「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」(『木戸幸一日記』)

といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。

しかるに、天皇はいつまでもその態度を貫けなかった。同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。

天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。

〔PHOTO〕gettyimages

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」(『侍従武官城英一郎日記』)

これは、8月28日の「お言葉」である。3月には「戦果は早く挙がりすぎる」といっていたのに、この変化には驚かざるをえない。

数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、

「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」(井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)

とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

「米をピシャッとやることは出来ぬか?」

1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年だった。米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。

4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。

天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。

「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)

いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、

「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)

といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。

「命を国家に捧げて克くもやって呉れた」

つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。

よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。

「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)

つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。

「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)

こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、

「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)』)

と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和の海上特攻につながったとの指摘が存在する。

これについては、本当にそんな発言があったのか疑う声も少なくない。『昭和天皇実録』にも、別の「お言葉」が採用されている。

「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』)

制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。これはこれでかなり厳しく重い「お言葉」ではあった。

「万一の場合には自分が御守りして運命を共に」

天皇はいつ敗戦を覚悟したのか。これも諸説紛々たるところだ。

天皇が早く手を打たなかったので戦禍が拡大したとの批判がある一方で、ここまで待たなければ軍部を抑えられず、終戦処理など不可能だったとの見解もある。

いずれにせよ、1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

天皇がここで心配したのは、三種の神器のことだった。7月31日に木戸幸一内大臣にこう語った。

「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)

三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮にあった。

そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。

そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。

〔PHOTO〕gettyimages

単純な二者択一では実態に迫れない

以上をみてもわかるとおり、昭和天皇は戦時中たいへん多弁だった。一旦開戦した以上、大元帥としての役割を果たそうとしたのかもしれない。明治天皇はここまでではなかったので、これは昭和天皇に顕著な特徴だった。

もちろん、これのみをもって好戦的だと断ずるのは早計すぎる。昭和天皇の「お言葉」は、平時の平和志向のものも実に多いからだ。だからこそ議論を引き起こして止まない。

平和主義者か、軍国主義者か。そんな単純な二者択一から卒業しなければ、その実態に迫ることはできないだろう。来年の改元で、昭和もいよいよ遠くなる。これをより冷静で多元的な議論のきっかけにしたいところである。

【参考文献】
・「『戦争責任』いわれ辛い 昭和天皇素顔の27」(小林忍侍従日記)『47news』、2018年。
・宮内庁(編)『昭和天皇実録』8・9巻、東京書籍、2016年。
・防衛庁防衛研究所戦史部(監修)、中尾裕次(編)『昭和天皇発言記録集成』上下巻、芙蓉書房、2003年。
・山田朗『昭和天皇の戦争指導』昭和出版、1990年。
・同『大元帥昭和天皇』新日本出版社、1994年。
・同『昭和天皇の戦争 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』岩波書店、2017年。
※引用にあたっては、読みやすさを考え、カタカナをひらがなに直し、適宜句読点を付すなどした。
※引用資料のうち『眞田穰一郎少将日記』は、上掲の『昭和天皇発言記録集成』と山田書で微妙に引用の文言などが異なっている。同資料はきわめて難読であり、筆者も所蔵する防衛省防衛研究所で原本の複製を確認したが、ミミズがのたくりまわっているような状態で、確定できなかった。そこで本稿では、『集成』の文言に従った。

 

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連合と右派運動の「共闘」

連合と右派運動の「共闘」「民社党・同盟」どこへ向かうのか

©株式会社西日本新聞社より

 参議院選挙が近づく中、連合の股裂き状態が解消されていない。もともと連合は民主党・民進党を支援してきたが、大きく立憲民主党と国民民主党に分かれたため、組織内候補も二分化されている。比例代表の統一名簿も提案されているが、立憲民主党は応じていない。このまま選挙に突入すると、政党支持率が低迷する国民民主党は苦戦することが予想される。当然、国民民主党から比例代表で立候補予定の5人の組織内候補は、全員の当選が難しくなる。

 連合は、もともと一枚岩ではない。社会党を支持してきた「総評」や民社党を支持してきた「同盟」などが統一して結成されたため、思想的な背景を異にする人たちが参集している。

 朝日新聞の言論サイト「論座」でスタートした藤生明の連載「日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか」は、「民社党・同盟」勢力の現在を追うことで、今後の野党を展望する。

 連載第1回「生きていた民社党、保守運動をオルグする」(5月5日)の中で、藤生が注目するのは、現在、日本会議会長を務める田久保忠衛の存在である。田久保は「民主社会主義研究会議」(民社研)の中枢で活動した言論人で、民社党の綱領づくりにも参画した。民社研は1960年の民社党結成と同時に発足した組織で、民社党の政策を理論的に支えるシンクタンク的存在だった。

 日本会議のような右派運動が、「民社党・同盟」系の田久保に期待しているものは何か。藤生曰(いわ)く「民社協会の地方議員ネットワークやUAゼンセンのような活発な労働組合の存在は戦力として魅力的に映ったに違いない」。民社協会は、旧民社党系の国会議員・地方議員が構成するグループで、国会では国民民主党に属している。

「民社党・同盟」の人脈は、現在でも様々な右派運動に関与している。「新しい歴史教科書をつくる会」、「文化の日」を「明治の日」に改める運動、そして拉致問題。かつては「元号法制化実現運動」にも参画し、大きな役割を果たした。

 立憲民主党と国民民主党の亀裂は、労働運動のイデオロギー的な再分化・先鋭化を加速させる可能性がある。これは野党共闘の大きなネックになるだろう。国民民主党は、草の根の右派運動と、どのような関係性を保つのか。両者の関係が深まれば深まるほど、リベラルな価値観を重視する立憲民主党との溝は深まり、自民党との思想的近さが鮮明になる。

 民社党・同盟の源流をたどると、鈴木文治らが大正期に創設した友愛会(1912年)、日本労働総同盟(1921年)に行きつく。東京・芝にある「友愛労働歴史館」では、連合に至る歴史が展示されており、現在は「民社党結党60年、勤労国民政党の旗を掲げて」という企画展が開催されている(6月28日まで)。重要な展示なので、見に行ってみた。当然、1960年に民社党を結成し、初代委員長に就任した西尾末広が大きく取り上げられている。

 西尾は1928年の第1回普通選挙で社会民衆党から立候補し、当選。1930年代には無産政党が結集した社会大衆党に所属し、中核を担った。社会大衆党のメンバーは、国粋主義的な国体論に接近し、全体主義的な労働者の解放を主張。西尾は社会主義の観点から国家総動員法案を支持し、近衛文麿首相に対して「もっと大胆率直に日本の進むべき道はこれであると、かのヒトラーの如(ごと)く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべきであると思うのであります」と演説した。「一君万民」という国体論は、天皇の超越的権威のもと、万民は平等であるというイデオロギーである。西尾らにとって、この国体論は資本家から労働者を解放する根拠となった。

 このような社会大衆党の戦前・戦中の国体イデオロギーへの接近は、展示の中では強調されていない。しかし、「民社党・同盟」には、その皇国主義的ナショナリズムが連続的に受け継がれている側面がある。ここが藤生の指摘する「日本会議と共闘する労働戦線」につながる。現在の「民社党・同盟」は、どこへ向かおうとしているのか。今後の政局に関わる重要なポイントにほかならない。

(中島岳志 なかじま・たけし=東京工業大教授)

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「戦争のリアル・悲惨!」ブーゲンビル島 海軍「陸戦隊」の過酷な戦い 現代ビジネスより

 「国に見殺しにされた」軍隊の士官が抱え続けた「負い目」とは?

ブーゲンビル島海軍「陸戦隊」の過酷な戦い

2019.5.26  神立 尚紀

太平洋戦争において、米軍の反攻にあい劣勢に立たされた大日本帝国政府は、1943年9月30日、「絶対国防圏」内への戦線縮小を発表する。これは、本土防衛と戦争継続のため、千島ーマリアナ諸島ー西ニューギニアを結ぶラインの内側を死守するという構想だが、この時点で、「国防圏」の外にはまだ多くの将兵が残されていた。

彼らは、それから一切の補給を受けられず、降伏することもできず、ただ死ぬまで戦うことを強いられることになったのだ。東京帝国大学を繰り上げ卒業し、海軍陸戦隊を志願した福山孝之さんは、南太平洋のブーゲンビル島で、その渦中に身をおくことになった。

終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないまま、国から見捨てられた多くの部隊が全滅していくなかで、彼らはいかにして戦い、生き延びたのだろうか。

 ゲーテを手に戦場へ向かった帝大出身の小隊長

「おごそかに伝える。天皇陛下の命により終戦と決まった。軽挙妄動しないように。処置は追って令す」、昭和20(1945)年8月16日、すでに戦線から遥かに取り残された南太平洋、ソロモン諸島に浮かぶブーゲンビル島トリポイルの海軍第八十二警備隊本部。司令・伊藤三郎中佐の訓示を聞いて、居並ぶ士官のなかには、感極まって泣き出す者もいた。

福山孝之さん(故人)は、これまで張りつめていた全身の力が抜けていくような気がしたと言う。もう、敵の飛行機が頭上を飛んでも防空壕に走り込む必要はない。対空戦闘もしなくてよい。午後の明るい日差しのなかで、福山さんたちは数年ぶりの安堵感と解放感を噛みしめていた。

 

 

 

福山孝之さん。昭和17年11月、兵科予備学生の頃。福山さんのアルバムは戦災で焼失し、これが手元に残った海軍時代唯一の写真

福山さんは大正7(1918)年、島根県の生まれ。幼い頃に両親を亡くし、東京・渋谷の祖父母のもとで育てられた。昭和16(1941)年12月、東京帝国大学法学部を繰り上げ卒業(本来は昭和17年3月卒業予定だった)し、「どうせ軍務に服すのなら、陸軍二等兵で入営するより、短剣を吊ったスマートな海軍士官に」と、主に陸戦隊(海軍が編成する陸上戦闘部隊)や対空、対潜、通信の初級指揮官を養成するため新設された「海軍兵科予備学生」を志願。昭和17(1942)年1月、その1期生として横須賀海兵団に入団し、千葉県の館山砲術学校で陸上戦闘指揮の猛訓練を受ける。

 兵科予備学生一期生(陸戦班、館山砲術学校)の集合写真。昭和16年12月、大学、高専を繰り上げ卒業した者のうち、志願者から選抜。3列め左から4人めが福山さん

昭和18(1943)年1月、予備少尉に任官すると、すぐさま横須賀鎮守府第七特別陸戦隊(横七特。総員2300名)に配属され、ソロモン諸島方面の激戦場に送り込まれた。以後、コロンバンガラ島、ブーゲンビル島を渡り歩き、2年半ものあいだ、極限の戦場で苦しい戦いを続けていた。終戦時は海軍大尉で、ブーゲンビル島の日本軍拠点・ブインの北西12キロのところにあるトリポイルの対空砲台の指揮官を務めていた。

南太平洋ビスマルク諸島、ソロモン諸島要図。福山さんは、赤丸で印をつけた左端のラバウル、右端のコロンバンガラ島を経て、中央のブーゲンビル島に移動、トリポイルで終戦を迎えた

出征するとき、福山さんは、ゲーテの『ファウスト』(上・下)とイプセン『野鴨』の3冊の文庫本と日記帳だけを携えて、兵員輸送に使われた特設空母「冲鷹(ちゅうよう)」に便乗、横須賀軍港をあとにした。福山さんは、内地から最初に赴任したニューブリテン島ラバウルで、自分の部下となる人たちと最初に顔を合わせたとき、その姿に衝撃を受けたという。

旧日本海軍の一大拠点であったラバウルの現在の姿(撮影:神立尚紀)

「中隊長が、新任小隊長の私を紹介し、皆一斉に私に敬礼しました。しかし驚いたことに、脚はだらっと曲がったまま、銃の持ち方もバラバラで概ね猫背、目は漠然と前を見ているだけ。館山で厳しい訓練を受けてきたばかりの私は、あまりの違いに驚きました。部下となったのは、下士官1名と数名の徴兵の現役兵をのぞけば、あとは3名の下士官もふくめて応召の年配者が多く、残りは17歳以下の若い志願兵でした」

ソロモン諸島をめぐる日米両軍の攻防戦は日ごとに厳しさを増していたが、ときはガダルカナル島から日本軍が撤退した直後、精強な部隊は前線ですでに底をついていたのだ。世界屈指の悪疫の地であるソロモン諸島では、マラリアやアメーバ赤痢、熱帯性潰瘍などの風土病にかかって斃れる者が、戦死者の何倍にものぼっていた。

25歳で死生観の転機を迎えた

昭和18(1943)年4月、福山さんはコロンバンガラ島に送られ、自らの小隊を率い、敵の上陸に備えて海岸線の防備にあたった。そこは文字通りの最前線で、連日、敵機の空襲や艦砲射撃、対岸の島からの砲撃にさらされ、福山さん自身も、防空壕が敵弾の直撃を受けて7時間ものあいだ、土砂に生き埋めになり、あわやということもあった。

福山さんがラバウルの次に進出したコロンバンガラ島近辺の地図

「しかし、このことがあってからは、それまで神経質でくよくよするタイプだった私が、なるようにしかならないと腹が据わって、大抵のことは気にならなくなりました。25歳で死生観の転機を迎えたんですね」

米軍に制空権を奪われて物資の輸送もままならなくなり、8月には後方からの補給も絶え、ひと月も経たないうちに島の各隊は食糧不足に陥った。上級司令部はコロンバンガラ島の維持をあきらめ、守備隊をブーゲンビル島に後退させることを決めた。

ソロモン海を航行する輸送船。敵機の空襲に犠牲も大きかった

ソロモン諸島の最前線で、輸送船から補給兵器を揚陸する様子

昭和18年10月、福山さんの部隊は、大発(輸送用舟艇)に乗り、途中、海戦の合間を通過したり、敵機の空襲に遭ったりしながら、やっとの思いでブーゲンビル島東南端の、日本軍の前進拠点であったブインにたどり着く。だが、そこで待っていたのも、飢餓と疫病と戦闘であることには変わりはなかった。

「コロンバンガラから帰還した我々は、ブインで敗残部隊の扱いを受けました。軍需部から衣服ももらえなければ、食糧も少ししかもらえない。軍隊には必ず『帳簿外』の物品がありますから、もとからそこにいた部隊ならそれでもなんとかなったんでしょうが、我々は引き揚げ部隊ですから、帳簿外のものがなにもない。結局、うちの部隊は、ボロボロの服のまま食糧もなく、自分たちで生きる方法を考えるしかありませんでした。

私は、半袖、半ズボンの防暑服は2着ほど持っていましたが、戦闘時の服装は、コロンバンガラ島で生き埋めになったときに着ていた草色の第三種軍装を、着替える服もないので終戦まで着続けました。弾片でほころびたのを、従兵が繕ってくれた服です」

9月から10月にかけて、ソロモンに在陣する同期生の大半が後輩の2期生と交代し、内地に呼び戻されたが、なぜか福山さんにだけ転勤辞令が来ず、防空砲台の指揮官として現地に残されることになった。

<何事も喜んで受け入れよ。長としての責任を負ひ、修養につとめるこれ以上の機會はない。我と我身に鞭を打たねばならない。どうせ人の一生は、坂道で重い石を持ち上げて居るやうなもの。これ位の重荷にくじけてはならぬ。>

と、福山さんは当時の心情を日記に記している。

今後補給はしないが降伏は許さない、死ぬまで戦え

しかし、最前線で戦う将兵の悲壮な覚悟を裏切るかのように、9月30日、日本政府は、戦線縮小と作戦方針の見直しをふくめた「絶対国防圏」構想を決定、即日発表する。これは、北は千島からマリアナ諸島、西部ニューギニアにいたるラインを絶対国防圏として死守するというものだが、それは同時に、その圏外にある日本軍将兵を、国が見殺しにする、ということでもあった。少なくとも福山さんたちは、そのように受け止めた。

「絶対国防圏の外側には、東部ニューギニア、ラバウル、ソロモンを中心に、約30万もの将兵がいたんですよ。その30万名に対して、今後補給はしないが降伏は許さない、死ぬまで戦えと、そんな無茶な命令を出したというのは、世界史上にもあまり例を見ないんじゃないでしょうか。とにかくこの構想を聞かされたときは、とんでもないことだとみんな憤慨していましたね」

11月1日、米軍はブインから約80キロ離れたブーゲンビル島中南部のトロキナ(タロキナ)に上陸、みるみるうちに橋頭保(きょうとうほ・攻撃の足場)を築き、飛行場を建設、島全体の制空権を完全に掌握する。同時に、ブイン地区の日本軍陣地に対する空襲も激しさを増していった。

「見捨てられても降参はできない。任務に忠実に、敵機が来たら戦わなければなりません。私の砲台では、偽陣地をつくって敵の攻撃をそらすなどの工夫を重ねながら、戦闘に明け暮れました。あるとき、銃座が直撃弾をくらって5名が一度に戦死したことがありましたが、班長の下士官は、頭に負傷して血をしたたらせながらも手ぬぐいで鉢巻をして、一生懸命に機銃を修理していた。そういう、責任感の強いよい部下に恵まれたことは、あの酷い戦争のなかでの唯一の救いでした」

福山さんが指揮官を務めるトリポイルの対空砲台は、143名の隊員からなり、12センチ高角砲4門、25ミリ連装対空機銃3基、20ミリ機銃3挺、ほか高射器、測距器、探照灯などを装備していた。昭和18年11月以降、終戦までの間に、福山隊の対空戦闘は89回にのぼり、数機の敵機を撃墜している。

 

世界史に類を見ない、イモ作りに追われる戦闘部隊

昭和18年9月以降、ブーゲンビル島への補給はまったく絶え、食糧事情は日に日に悪くなっていった。支給されるのは僅かな米と乾燥野菜だけ、昭和19(1944)年中頃にはその米も底をつく。栄養失調にマラリアが追い打ちをかけ、兵員の体力はますます衰えるばかりだった。対空戦闘には機敏な動きが要求されるが、隊員たちは皆、青白く痩せこけて、立っているだけで精いっぱい、高角砲の弾薬筒を取り落としたり、砲手の力が足りず、弾丸がスムーズに薬室に入らなかったりすることもあった。

「やむなく、各隊ごとに、戦いながらジャングルを切り開いて農地を開墾し、自給自足の態勢を整えることになりましたが、開墾するまでが大変な労力なんです。空襲がないときはもっぱら農園づくりに励みましたが、戦闘や訓練で時間が取られる上に病人が多く、なかなかはかどらなかった。イモが生育するまではイモの葉を煮て、わずかに飢えをしのいでいました」

福山隊では、漁師出身者で漁労班を編成して、魚とりやフカ(鮫)釣りに派遣した。塩も不足したので、製塩班をつくり、海岸でドラム缶を使い、海水を煮て塩を得たが、燃料となる薪を用意するだけでも、衰えた体には重労働だった。食糧不足は各隊とも同じだったので、畑荒らしが頻発、ときに発砲騒ぎや自殺者が出ることもあった。食糧を求めてあてどもなく歩き回る兵の姿を見ることもめずらしくなかった。

ふつう、100名の部隊で4ヘクタールの畑があれば、隊員が生きてゆくために十分なイモと少々の野菜をつくることができたが、福山隊では8ヘクタールの畑を耕し、パイナップルやインゲン豆なども栽培していた。

昭和19年秋頃にはイモの生育もよくなり、しだいに食糧事情は好転してきたが、こんどは医薬品が不足し、マラリアで病死する者が増えてきた。しまいには、医務隊から食糧と引き換えに流出した薬にも闇値がつき、マラリア薬一粒が10円(現在の2~3万円に相当する)もの値段で取引されるようにもなった。

「戦闘を主任務とする軍隊が、生きるためとはいえイモ作りに追われているのは異常な姿で、これではまるで屯田兵、あるいは集団入植です。こんな軍隊も、おそらく世界史上にないでしょう。一般的にはあまり文明的な暮らしをしていなかった当時の日本人だからこそ、ああいう暮らしにも耐えられたんだと思います」

 

ゲリラとの戦いに散った「士官の鑑」のような指揮官

昭和20(1945)年に入ると、前年11月に米軍に代わってトロキナに陣を敷いたオーストラリア軍が、ブインの日本軍拠点に対して本格的に侵攻を始めた。日本軍はこれを迎え撃ち、しばしば夜襲で敵を悩ましたが、5月にはそれまで日本軍に協力的だった現地人が離反、集団で姿を消すとともに、前線に派遣した分遣隊がその襲撃を受けるようになり、なかには全滅させられた部隊もあった。ゲリラ化した現地人に襲われた戦死者の遺体には多数の毒矢が刺さり、また、蕃刀(ばんとう)でメッタ斬りにされた遺体もあった。

襲撃の模様から、現地人は数は少ないながらも火器を持っていること、幕舎のなかがくまなく荒らされていることから、日本軍の命令書や地図を奪うのが目的の一つと推定された。

司令部はただちにゲリラの討伐隊を出動させたが、第一次の討伐隊は、交戦中に隊長が敵弾を膝に受けて後退し、続いて鈴木芳徳中尉が率いる一個小隊に出動命令がくだった。鈴木隊はジャングル内の小道をたどって進んだが、途中、草むらに真新しい日本の三八式歩兵銃が落ちていたのを、鈴木中尉が不審に思い拾い上げた瞬間、地雷が爆発した。銃は、敵の仕掛けた罠であった。その銃は、ピアノ線で地雷につながっていて、強く引くと爆発するようになっていたのだ。鈴木中尉は即死した。ときに昭和20年5月14日だった。

「鈴木中尉は、兵科予備学生二期、青山学院前の有名なパン屋の息子でした。東京農業大学の醸造科を出ていて、イモが収穫できるようになってからは、隊で焼酎を作ったりもしました。勇敢な男でね、私たちなら銃撃を受けると反射的に身をすくめますが、彼は毅然として立ったままで戦闘指揮をしている。彼ほど胆の据わった人はいなかった。我々大学出のにわか士官の鑑のような男でした」

8月になると、オーストラリア軍は、日本軍陣地から、重砲の射程圏内となる15キロの地点まで進出してきた。そこを流れるミオ川が天然の濠になっているが、この線が破られれば、あと3、4日で敵軍がなだれ込んでくる。

ブーゲンビル島のオーストラリア軍侵攻図。終戦時、福山さんは、ミオ川をはさんで敵軍と対峙していた

「オーストラリア軍は、武器は米軍ほどではありませんが、戦法は同じです。飛行機で攻撃をかけてくるのと並行して、道路をつくりながら大砲を前進させ、その大砲で徹底的に叩いてから、歩兵が戦車と一緒に出てくるという戦い方でした」

 

4万3千名の犠牲者のうち戦死者は9千名

日本側は、砲弾も残りわずかである。福山隊では1門あたり70発の砲弾しか残っておらず、他の砲台でもこれは似たような状況だった。全滅を、誰もが覚悟した。そんな最終局面にあった8月16日、内地より一日遅れて、ブインの日本軍将兵にも終戦が伝えられたのだ。

第八十二警備隊本部から持ち場の砲台に戻った福山さんは、隊員を集め、台上から終戦になったことを告げ、

「皆も苦労の連続だったが、これで終わった。生きて還れるぞ!」

と結んだ。すると、誰からともなく突然、「ワッ」という喚声が上がり、全員が諸手を挙げ、なかには跳び上がって喜ぶ者さえいた。本国から見放されて2年近く、太平洋の捨て子部隊の、率直な感情の発露だった。

ブーゲンビル島ではいまも、旧日本軍が造った防空壕を現地の人が日常生活に使っている。画面左側、コンクリート製構造物が防空壕の入口(撮影:神立尚紀)

終戦時、ブーゲンビル島に生き残った日本軍は、軍人、軍属合わせて2万4千名あまり。昭和18年秋から終戦までに、4万3千名近くが犠牲になっていた。そのうち戦死者は約9千名にすぎず、残りは栄養失調や、マラリアなど風土病で死亡した者だった。なかには、せっかく終戦まで生き延びたのに、捕虜収容所に送られる前に病死した者も少なからずいた。

「私の隊は戦闘部隊ですから、戦死25名、戦病死も25名で、ブーゲンビル島の部隊のなかでは比較的、戦病死者が少ない方でした。敵機は毎日のように来襲するとはいえ、戦闘自体は数分間で、あとは農作業なわけですから、毎日、農作業にどれだけ人を割けるかが、生きるための鍵でしたね……」

福山さんはその後、ほかの隊員たちとともに、ブーゲンビル島の沖合にあるファウロ諸島の、マサマサ島やタウノ島に設けられた捕虜収容所に送られた。

 

「生き残った負い目を背負って生きている」

翌昭和21(1946)年2月、復員輸送に使われた空母「葛城(かつらぎ)」に乗って浦賀に上陸、ちょうど3年ぶりに祖国の土を踏んだ。冬なのにボロボロの防暑服を着て、骨と皮ばかりに痩せた異様な姿の復員者の群れを見て、道ゆく人は皆、顔をそむけた。福山さんの目には、町の人たちの顔がみんな、ふっくらと桜色に見えた。

東京に帰ってみると、見渡す限りの焼野原で、渋谷の自宅も焼失、育ててくれた祖父母や縁者も亡くなっていて、まさに「今浦島」の気分だった。自宅の焼け跡には、見覚えのある茶碗のかけらが落ちていたのみで、大切な本やアルバムはもちろん、福山さんのものは何も残っていなかった。がっかりしてその場に座り込むと、真白く雪を頂いた富士山の姿が、とても近くに見えた。かつて自宅から富士山は見えなかったのに、視界を遮る建物が一軒残らず焼失していたのだ。

福山さんは北海道の親戚宅に身を寄せて、栄養失調とマラリアで衰えた体を休ませたのち、大学卒業時に採用の決まっていた日鉄鉱業に復職。60歳まで会社勤めを全うし、その後はソロモン方面の戦没者慰霊に尽くした。

「戦争中の生死を賭けた3年間を思えば、あとのことは単なる付け足しです。あの期間は人生のなかの別物で、残りの人生とのつながりは全然ない。海軍時代の経験が、戦後の自分の仕事の役に立ったとも思えない。しかし、あの戦争で死んだ人たちのことはけっして忘れてはいません。第一線で戦って生き残った者は誰もが、死んだ仲間に対してすまないと、多かれ少なかれ負い目を背負って生きてると思うんですよ」

福山孝之さん。戦後は会社勤務を経て、戦没者慰霊に尽くした(撮影:神立尚紀)

だからこそ、いまも慰霊祭に、高齢でほんとうはもう歩けないような人たちまでもが、命がけで出てくる。「生き残った負い目」を償うすべが、そんな形でしか、彼ら当事者にはないのである。

戦後74年が経とうとするいま、ガダルカナル島以外のソロモン諸島の戦いについてはあまり語られることがない。だが、国から遺棄されてなお、生きるために戦い、戦場に斃れた幾万の将兵がいたことも、記憶にとどめておきたい。

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5.29北信越キャラバン「沖縄連帯」集会 -沖縄から平和を考える-山城博治さん

沖縄・辺野古と連帯するため、そして、「戦争する国」づくり・憲法改悪を阻止するため、今年も、北信越キャラバン「沖縄連帯集会」を開催しました。本年は、主な構成組織の書記局を日中に訪問し、役員間の濃い交流を行なったあと、集会を開催しました。橘 広行県平和センター共同代表、社民党県連副代表森一敏さんの挨拶を受けた後、メインスピーカー沖縄平和運動セン ター議長山城博治さんから熱い講演を受けました。

沖縄と連帯し、全国の反戦・平和の闘いと連帯し、世界の平和勢力と連帯するため、昨年と同規模の120名が集い、成功を納めました。ここで培った連帯を、安倍政権の野望!「辺野古新基地建設」「戦争する国」づくり「憲法改悪」を阻止する力にしましょう。

http://www.peace-forum.com/okinawa-branch/okinawa_No87.pdf (5/27沖縄だより 平和フォーラムより)

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山口、秋田とも「適地」 イージス・アショアの配備

イージス・アショア、配備候補2県に「適地」伝達 防衛省

政治 2019/5/28 19:00
防衛省は28日、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」を配備する候補地である秋田、山口両県への説明を終えた。原田憲治防衛副大臣が27~28日に両県を訪れて知事らと面会した。周辺環境や人体に与える影響を調査した結果、問題は見つからなかったと説明し、配備にあたって「適地」だとの判断を伝えた。両県は回答を保留している。

防衛省はイージス・アショア2基を国内に配備し、ミサイル防衛体制を強化する計画だ。候補地は陸上自衛隊新屋演習場(秋田市)と陸自むつみ演習場(山口県萩市、阿武町)の2カ所だ。

防衛省は地元が懸念するイージス・アショアが発する電波について「人体に影響がなく安全」との調査結果を報告した。テロの攻撃目標になるとの不安には警備体制を増強することで応える。

秋田県は「すぐに結果を出せない」との立場を防衛省に伝えた。山口県では阿武町が配備に反対している。

イージス・アショアの稼働は搭載するレーダーの開発に時間がかかるため2024年度以降になるとみられ、地元との調整が難航すればさらにずれこむ可能性がある。

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