2011年、日本原子力開発機構「もんじゅ」のホームページの巻頭文言です。
優れた技術、確かな安全、世界に示す新生「もんじゅ」
しかしあえなく、事故りました。
2010年5月、15年ぶりに無理して再稼働し試験運転を強行した2010年8月26日、炉内中継装置(直径46cm、長さ12m、重さ3.3トン)がつり上げ作業中に落下する事故を起こした。原子炉に鉄クズ(交換装置)3.3トンが落下し、回収が不能であることがわかった。
石川県平和運動センターは労働組合とPEACEネット会員で構成し、議員、市民団体などと連携する反戦・平和団体です。1989.9県評センター2000.9連帯労組会議を経て誕生 平和憲法を活かし反戦・平和 反核 脱原発 環境 教育 人権などを取組む。信条の一つに「信頼は専制の親である」:国民が政府を信頼すると専制政治を生み出してしまう、「猜疑心こそが民主主義国家を作る」がある。画像は改憲に反対する集会 米軍B1爆撃機と共に「核威嚇」する空自小松の戦闘機 「戦争法」成立により「参戦」準備を進め「先制攻撃」体制を強化している。絵は抽象画 熊谷守一氏の紫陽花、蟻・・、辺野古、友禅作家志田弘子さんの母と子・・。団結して平和人権環境を破壊する政権を倒し平和で自由な世界を創ろう!
2011年、日本原子力開発機構「もんじゅ」のホームページの巻頭文言です。
優れた技術、確かな安全、世界に示す新生「もんじゅ」
しかしあえなく、事故りました。
2010年5月、15年ぶりに無理して再稼働し試験運転を強行した2010年8月26日、炉内中継装置(直径46cm、長さ12m、重さ3.3トン)がつり上げ作業中に落下する事故を起こした。原子炉に鉄クズ(交換装置)3.3トンが落下し、回収が不能であることがわかった。
http://www.town.uchinada.lg.jp/webapps/www/section/detail.jsp?id=1438
(CNN)フランス大統領府によると、仏軍は27日、シリア領内で初めて過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」に対する空爆を実施した。
フランス大統領府によると、仏軍は9月27日、シリア領内で初めて過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」に対する空爆を実施した。
フランスは約1年前からイラクでISISへの空爆に加わっていたが、最近になって対象をシリアまで拡大する方針を表明していた。
シリア上空で2週間前から偵察飛行を実施し、収集された情報に基づいて空爆を実施したという。大統領府は声明で、ISISの脅威に立ち向かう同国の意志を確認し、「我が国の安全が脅かされる時はいつでも攻撃する」と強調した。
オランド大統領も国連総会出席のため訪れているニューヨークで、ISISは「我が国への脅威」との見方を示した。そのうえで「我々は目的を果たし、訓練キャンプ全体が破壊された」と述べた。
大統領によると、空爆には航空機6機が出撃した。仏軍が主導し、米主導の有志連合軍との緊密な連携の下で実施したという。
オランド大統領はシリア情勢について、ISISが「恐ろしい行為」を繰り広げているが、「主な責任はアサド大統領にある」と主張。「アサド大統領の下でシリアに未来はない」と述べた。
フランスでは今年1月、週刊紙「シャルリー・エブド」の本社などを狙った連続テロが発生。6月に南東部リヨン近郊の工場が襲撃され、8月にはパリ行きの国際特急列車内で発砲事件が起きた。
またバルス首相は、シリアなどから欧州へ殺到する難民の問題はISISに原因があるとの見方を示し、「根本的な解決策が必要だ」と述べていた。
フランスは一方で、シリア情勢の政治的解決に向け、アサド政権を支援するロシアやイランとも交渉を試みている。
「広場使用不許可違憲!」訴訟は本日、最終陳述を終え結審しました。判決は来年2月5日、202号法廷で13:10からです。
結審を終え、総括する原告・弁護団、支援者たち。
(最終)意 見 書
平成27年11月10日
私は、石川県平和運動センターで事務局長をしております中村照夫と申します。
2011年4月から現職にあり、その前月までは石川県職員労働組合で休職専従副委員長をしており定年退職しました。県庁では主に、企画、県民文化、農林行政を担当してきました。その年の3月11日には福島原発事故があり、驚きと同時に、「これまで何をしてきたのだ」と反省し運動の再構築を目下の課題としておりました。
2014年5月3日憲法記念日。これまで10年以上の間、年2回は開催していましたので、私はいつものように金沢市役所前広場で「憲法改悪反対!」「憲法9条守れ!」の集会を行い、デモで、道行く若者に「憲法9条守れ!」「集団的自衛権の行使は戦争への道」を訴えました。これらは私にとって日課みたいなものであり、いつもの光景です。仲間と共に参加できたことの充実感、そして市民に訴えることができた満足感で一杯でした。
当時、ときの政権である安倍内閣は、歴代内閣が「どのように解釈しても憲法上許されない」としてきた「集団的自衛権の行使」を、「砂川判決」を根拠に「合憲」だとする超反動的解釈改憲をめざしており、私たちはこれを「憲法の危機」「平和の危機」ととらえ、街頭宣伝や集会、デモ、チラシ配布などで訴え、必死に反対してきました。
そんな4月16日、金沢市内の中心街を47年ぶりに陸上自衛隊金沢駐屯地の部隊が「軍事パレード」するということを知りました。「なんて時代錯誤なことを」と疑問を持つと同時に「安倍政権の戦争政策の先取りだ」と感じ、仲間たちと何回か会議を重ね、5月19日に金沢市役所前広場で「軍事力で平和は訪れない」ことを訴える「軍事パレード反対」集会とデモを持つことを決めました。金沢市長や陸上自衛隊駐屯地司令に「中止申入れ」をすることや警察へのデモ申請、金沢市への広場使用申請なども決めました。この時、「貸してくれない」なんて夢にも思いませんでした。ところが、金沢市総務課の担当者が「不許可」を匂わしていることを申請した山本由起子金沢市議から聞き、金沢市に説明を求めたのです。
そのやり取りは証拠として提出済みですが、「国のやることに地方自治体がどうのこうの言えません」とか、「憲法を守るというのは市の姿勢と合致するが、軍事パレード反対は合致しない」とか、「政治的なものや賛否両論あるものは貸さない」など、およそ自治体の主張とは思えない、国の下部機関のような「恣意的」かつ「内容に立ち入る」検閲的な考えを披瀝したのです。この訴訟における「原告の集会は示威行為に該当する」という被告の主張と合わせ、驚きの連続でした。
これまでも「市庁舎前広場」で憲法集会を開催し、自衛隊の強化反対や辺野古新基地建設、武器輸出などにも反対してきました。原水禁集会も「市庁舎前広場」で開催し、核兵器の廃絶と原発の再稼働にも反対してきました。それなのになぜ、観光都市のど真ん中で、武装した「自衛隊=軍隊」が迷彩色で固めた戦闘服を着たまま軍事パレードをすることには金沢市は「後押し」し、軍事パレードに反対する集会には使わせないのでしょうか。反対する集会を行うことは民主主義の基本的な権利ではないでしょうか。私たちは、軍事パレードに賛成する集会が市庁舎前広場で開催されることがあったとしても、会場は貸すべきと考えます。これが民主主義であると強く、強く思います。
最後に、金沢市から集会場を貸してもらえなかったため、石川県公園管理事務所へ申請に行きました。そこで担当者は右翼の抗議があることも念頭に置きながら、所長を交えた検討をされました。私は、「右であれ左であれ、集会の内容で許可・不許可を検討するのではなく、規則や条例に照らし、淡々と、基本的には貸し出すべき」ことを訴えました。その結果、「お貸しします」と熟議の末の結論を出してきたのです。市役所前広場と中央公園であることの差はありますが、軍事パレードには石川県のお歴々も出席しているのです。それにもかかわらずこのような冷静な決定を下したのです。見事な熟議ぶりであり、すばらしい判断だと思います。
近くには、姫路駅前広場において、政権批判をする団体の集会を中止させたことが問題となった事件があります。姫路市は、表現の自由、集会の自由の重要性に鑑み、非を認め、全面的に謝罪するという英断をしました。姫路市、石川県の判断こそ民主主義に則ったあるべき判断だと考えます。
司法の場に置いても、表現の自由・集会の自由が最大限保護されなければならないという判断が当然にもなされるであろうことを確信し、私の意見陳述を終えます。
2015年11月11日
石川県知事
谷 本 正 憲 様
さよなら!志賀原発ネットワーク
共同代表 岩淵 正明
南 高広
中垣たか子
申 入 書
来る11月23日、県は志賀原発の事故を想定した原子力防災訓練を実施する予定と報道されています。県や県内19市町のほか、内閣府や原子力規制委員会、自衛隊など約270機関の1950人が参加するとのこと。参加者は約1割減となりますが、1昨年とほぼ同規模の実施体制かと思われます。 私たちは1992年に実施された第一回訓練以降、住民参加でおこなわれる訓練では毎回調査行動を実施し、訓練内容をチェックし、問題点を指摘してきました。あわせて住民の原発に対する意識を知るため、住民アンケートも実施してきました。この間の調査行動や昨今の原子力政策、志賀原発を取り巻く新たな情勢も踏まえ、原子力防災のあり方について、私たちも一県民として知恵を絞りあいたいと考えています。
福島第一原発事故前、国や自治体の原子力防災計画の根底には「過酷事故は起きない。周辺住民の被ばくは避けられる」という信仰とも言うべき安全神話があり、原発推進政策と表裏一体をなしてきました。この神話は福島第一原発事故によって完全に瓦解し、甚大、深刻、広範かつ悲惨な被害を目の当たりにした多くの国民はこの「安全神話」が嘘っぱちであったことを知ったのです。脱原発を求める国民世論は一気に拡大し、その傾向は私たちの住民アンケートからも確認することができます。「過酷事故は起こりうる。二度とフクシマの悲劇を繰り返してはならない」、これは多くの国民がフクシマから得た教訓です。
ところが安倍政権は原発再稼働へ、さらには原発輸出を成長戦略の柱へと大きく舵を切り、原子力産業の復権・強化を図っています。原子力防災については、あろうことか過酷事故は起こるという前提で、住民と防災業務従事者に被ばくを強いる原子力災害対策指針を新たに策定しました。防災対策の強化ではなく、何がなんでも原発を再稼働させるための開き直りとしか言いようがありません。
福島第一原発事故以降の志賀原発の原子力防災訓練もこうした国の政策に呼応して実施されてきました。フクシマ後初めてとなる2012年の訓練は、国の原子力災害対策指針の策定前であり、また県原子力防災計画の改定前でしたが、北陸電力が再稼働への動きを強める中、初めて30キロ圏内の住民を30キロ圏外へ広域避難させる訓練を実施しました。
翌2013年の訓練は、国の原子力災害対策指針策定を受けて県原子力防災計画が改訂され初めての訓練でした。5キロ圏の緊急時活動レベル(EAL)や5~30キロ圏の運用上の介入レベル(OIL)という新たな避難の判断基準の導入をはじめ、自家用車による避難、スクリーニングポイントの設置、ヨウ素剤の配布方法の見直し、段階的避難の導入など、避難計画の根幹に関わる重要な改定がなされたにもかかわらず、想定される住民の被ばくを隠した欺瞞的な訓練でした。
昨年11月には志賀原発としては初めての国主催訓練が2日間にわたって実施されました。私たちがかねてから要求してきた実時間訓練やブラインド訓練が部分的には盛り込まれましたが、残念ながらそこには住民の姿はなく、実態とはかけ離れた非現実的訓練の繰り返しで終わりました。
これら3回の訓練に共通するのは、再稼働を前提として志賀原発稼働中の過酷事故を想定していること。しかしながら、住民が参加する訓練場面ではフクシマの教訓をほとんど踏まえていないことです。フクシマでは放射線防護やヨウ素剤の服用、放射線モニタリング、スクリーニング体制、除染など、あらゆる場面で防災計画は機能せず、住民は避けることができたはずの被ばくを余儀なくされ、何か所もの避難所を転々としたケースも少なくありません。改訂された原子力防災計画も、結局、過酷事故が起きれば直面することになる原子力災害の特殊性を十分には認識していないということです。これでは、「過酷事故が起きても大丈夫」という新たな安全神話づくり、安全性のPRのための訓練と言わざるをえません。
福島第一原発事故は、ひとたび過酷事故が起これば、生命や健康、財産、さらには地域コミュニティを破壞し、生業を奪い、地球環境にも取り返しのつかない深刻な影響を及ぼすことを実証しました。一方、この間約2年間、原発ゼロでも日本経済は電力不足も経済破綻も起こさず、むしろ再生可能エネルギーや省エネルギー、蓄電などの技術開発を加速させています。志賀原発に至っては実に4年8か月、停止状態が続いていますが、北陸電力管内に電力不足は起こっていません。むしろ他の電力会社に電力を融通し、コストの低い水力発電の比率の高さを生かして利益を出し続けています。全国的に見ても電力需給に何ら問題は生じていません。原発の必要性神話も崩壊したのです。このような原発のために、なぜ住民が生存権、人格権を根こそぎ奪われるリスクを負わなければならないのでしょうか。
特に志賀原発敷地内には、原子力規制委員会の有識者会合で4人の専門家が「活断層の可能性は否定できない」との見解で一致した活断層が存在します。活断層の上にある原子炉には今も核燃料が据えられ、使用済み燃料プールにも核燃料が保管されています。万が一、外部電源の喪失や冷却水の漏出等により冷却機能が停止したときのリスクの大きさは、首都圏壊滅すら想定された福島第一原発4号炉によって多くの国民が知るところです。この状態を放置し、原発事故が起こればまさに人災です。今、北陸電力に求められているのは、原子力災害を未然に防止するための発生源対策であり、県は文字通りの原子力「防災」対策に最大限の指導力を発揮すべきです。再稼働前提の訓練など論外と言わなければなりません。
そこで以下3点、要望いたします。
記
1.志賀原発の再稼働を前提とした訓練は実施しないこと。
2.停止中の志賀原発で想定されるリスク評価を実施し、リスクをゼロにする、あるいは低減させる
対策を早急にたてるよう北陸電力に求めること。
3.2の対策を実施するための経過期間のリスク、対策後に残るリスクに備える原子力防災計画を策定し、実効性を確認する防災訓練を実施すること。
たかまつまちかど交流館3階(かほく市高松ツ-56-1)
展示中のものを撮影させてもらいました。相川欽也さん、小沢征爾さんのメッセージです。
鶴彬公式サイトより
「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川柳を詠んだ鶴彬(つるあきら)は、石川県高松に生まれ、本名は喜多一二(きたかつじ)といいます。
「暴風と海の恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動の高まりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。
日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のゐないニュース映画で勇ましい」などの作品を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ年の享年29歳でした。出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建っており、『鶴彬を顕彰する会』もつくられています。
『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝さんはインタビューにこう語っています。「一番最後の句が『胎内の動き知るころ骨がつき』というものすごいことです。身ごもった赤ちゃんの胎動がわかって生まれてくる日を予告していたというのに、父親は戦死してその遺骨が届く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。日中戦争が激しくなった1938年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通して死んでいきました。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います。」
警察病院で燃え尽きた鶴彬の遺骨は、ふる里高松へ帰ることなく、兄孝雄さんの手により、岩手県盛岡市の光照寺で手厚く葬られました。
決議は九州8県の町村議長会でつくる九州ブロック会議から提案された。決議は「全国の米軍専用施設の約74%を占める沖縄県においては米軍基地から派生する事件・事故や航空機騒音、環境問題、米軍人・軍属等による犯罪が戦後70年を経た今日においても後を絶たず、地域住民の生活に多大な影響を及ぼしている」と指摘した。
その上で、1960年の締結以来一度も改正されていないことに触れつつ「運用改善や環境補足協定の締結がなされてはいるものの、米軍基地から派生するさまざまな事件・事故等から国民の生命・財産と人権を守るためにはまだ不十分」として抜本的な見直しを求めた。【琉球新報電子版】
BPOが異例の政権批判を展開
2015年11月7日
さすがにもう安倍首相と籾井会長もベッタリとはいかない。放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会が6日、NHK「クローズアップ現代」の“やらせ報道”などに関する意見書の中で、政治圧力問題について異例の政権批判を展開。BPOが国や与党に異議を唱えるのは初めてだ。
弁護士でもある川端和治委員長は「政府側からメディアへの活動規制が目立つ中、(番組内容への介入は)問題があると指摘せざるを得ない」と強い危機感をあらわにしたが、もっともだろう。
意見書は、やらせ疑惑浮上後のNHKへの総務省による行政指導や、自民党調査会の事情聴取の他、自民党国会議員による「マスコミを懲らしめる」発言にも触れ、懸念を表明した。
特に高市総務相が厳重注意の根拠とした放送法の条項については「本来放送事業者が守るべき倫理規定である」と指摘。こうした動きは表現の自由を保障する憲法21条に違反する恐れがあると批判した。
当の高市総務相は「行政指導は放送法を所管する立場から必要な対応」「放送法の番組準則は法規範性を有するもの」などと反論したが、いかにも苦しい。
「BPOから『重大な放送違反があった』と指摘された“クロ現”は打ち切りもちらつきますが、ただ、自民党内ではBPOに政府が関与する構想も持ち上がっています。今後、強硬に手を突っ込んでくる恐れがある」(NHK関係者)
BPOvs自民党のバトルが激化しそうだ。
http://tsuruakira.jp/鶴彬公式サイト
2014年10月より、たかまつまちかど交流館3階に「高松ふるさと偉人館」がオープンしました。
「高松ふるさと偉人館」では「鶴彬資料室」を設け、鶴彬に関連する資料を蒐集し、常時展示を行っています。
■ 場所:たかまつまちかど交流館3階(かほく市高松ツ-56-1)
■ 開室日時:毎週水・金および、第3日曜日、午後1時~5時
※毎週火曜は全館休館日
開室日時以外に見学を希望される方は、事前にご連絡ください。連絡先:鶴彬を顕彰する会事務局 TEL/FAX・076-281-1201
公式サイトより
「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川柳を詠んだ鶴彬(つるあきら)は、石川県高松に生まれ、本名は喜多一二(きたかつじ)といいます。
「暴風と海の恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動の高まりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。
日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のゐないニュース映画で勇ましい」などの作品を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ年の享年29歳でした。出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建っており、『鶴彬を顕彰する会』もつくられています。
『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝さんはインタビューにこう語っています。「一番最後の句が『胎内の動き知るころ骨がつき』というのもすごいことです。身ごもった赤ちゃんの胎動がわかって生まれてくる日を予告していたというのに、父親は戦死してその遺骨が届く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。日中戦争が激しくなった1938年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通して死んでいきました。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います。」
警察病院で燃え尽きた鶴彬の遺骨は、ふる里高松へ帰ることなく、兄孝雄さんの手により、岩手県盛岡市の光照寺で手厚く葬られました。