米国の未臨界核実験に対する抗議声明

2019年06月03日

米国の未臨界核実験に対する抗議声明
原水爆禁止日本国民会議
議  長 川野浩一
事務局長 藤本泰成
 2019年5月下旬、米国が2017年の12月以来トランプ政権で2回目となる未臨界核実験を、2019年2月13日にネバダ州の核実験場で行ったことが明らかになった。核兵器禁止条約採択に象徴される世界の核兵器廃絶への思いを踏みにじる米国の核実験に、原水爆禁止日本国民会議は強く抗議する。核実験を繰り返す米国に、朝鮮半島の非核化を主張し、朝鮮民主主義人民共和国をきびしい制裁阻止で追い詰める資格はない。
 トランプ政権は、2018年2月2日、核政策の指針となる「核戦略態勢の見直し」(NPR)を発表し、小型核(低出力核)や新たな潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)など、使用可能な核兵器の開発をすすめるとした。2020年度の予算教書では、124億ドル(約1兆3500億円)、前年度比11%増の核兵器関連予算がつけられている。米国は、2019年2月1日、中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱を宣言した。条約は8月に失効する。ロシア・中国に加えて、米国が中距離核の開発に着手することは、ヨーロッパと東北アジアの脅威となるに違いない。米国情報機関からの、「ロシアが低出力核実験を行っている可能性が高い」との報告もあり、米ロ間の核兵器競争が激化する可能性も否定できない。
 2020年4月末からの開催が予定される核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備会が5月10日に閉幕した。準備会では、核兵器保有国と非保有国との間で意見が対立し、本会議の方向性を決定づける勧告案が不採択となった。2017年7月7日、国連で採択された核兵器禁止条約は、現在70カ国が署名し、23カ国が批准している。世界の思いに、核兵器保有国は背を向けてはならない。核兵器保有国と非保有国の対立を深めるとして、核兵器禁止条約に反対する日本政府は、条約を批准し、唯一の戦争被爆国としての態度を明らかにしながら、核兵器廃絶への道筋を明確にしていく責任がある。
 原水禁は、連合・KAKKINと協力し、日本政府に核兵器禁止条約の批准を求める「核兵器廃絶1000万人署名」に、全力でとりくむ。「核と人類は共存できない」ことを基本に、2020年のNPT再検討会議の成功と核廃絶の明確な道筋の構築に向けて、全力でとりくむ。その決意を確認して、米国の未臨界核実験への抗議とする。(5月30日)
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「何故攻撃に出ぬか…」 昭和天皇の「お言葉」

「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々  戦争責任の苦悩も明らかになったが…

辻田 真佐憲 文筆家  近現代史研究者

 

12月8日は、太平洋戦争開戦の日である。

この戦争を巡っては、昭和天皇が晩年の1987年まで「辛い」「戦争の責任のことをいわれる」などと悩んでいたことが、今年発見された資料で明らかになった(「小林忍侍従日記」)。

日本共産党の志位和夫委員長は、この資料発見のニュースに関連して「昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ」(8月23日)などとツイートし、大きな反響を引き起こした。

志位和夫 ✔@shiikazuo

「『戦争責任言われつらい』晩年の昭和天皇吐露」
昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ。

昭和天皇と戦争の話題は現在でも尽きるところを知らない。では、昭和天皇は太平洋戦争下にどのような発言をしていたのだろうか。既存の資料からその「お言葉」をたどってみたい。

昭和天皇〔PHOTO〕gettyimages

「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」

昭和天皇が、一貫して平和主義者だったかどうかについては、様々な議論がある。ただ、アメリカとの戦争に当初乗り気でなかったのは間違いない。高い国力を誇り、資源も豊富な同国を相手にすれば、惨敗する蓋然性が高かったからである。

もっとも、その心配を払拭するかのように、日本軍は緒戦で驚異的な快進撃を続けた。1941年12月に開戦するや、日本海軍は、真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊主力を戦闘不能ならしめ、またマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊主力を海の藻屑と葬り去った。

日本陸軍もこれに負けじと同月に香港を占領し、1942年1月にマニラ、2月にシンガポール、3月にラングーンおよび蘭印(オランダ領東インド諸島)をつぎつぎに占領、連戦連勝の凱歌をあげた。

続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。1941年12月25日には早くも、

「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、

「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)

といって、喜びを隠さなかった。

そのため、同年4月にアメリカの空母部隊によって東京が初空襲されても(ドゥーリトル爆撃)、なかなか信用せず、すぐに避難しようとしないぐらいだった。

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」

しかし、日本軍の快勝は長く続かなかった。本土への空襲を許した日本軍は、西太平洋の制海権を掌握するためミッドウェー島の攻略を企図した。開戦以来、無敵を誇る日本の空母部隊は、意気揚々と内地を出発し、進路を東に取った。

――よく知られるように、1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。

この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、

「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」(『木戸幸一日記』)

といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。

しかるに、天皇はいつまでもその態度を貫けなかった。同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。

天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。

〔PHOTO〕gettyimages

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」(『侍従武官城英一郎日記』)

これは、8月28日の「お言葉」である。3月には「戦果は早く挙がりすぎる」といっていたのに、この変化には驚かざるをえない。

数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、

「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」(井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)

とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

「米をピシャッとやることは出来ぬか?」

1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年だった。米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。

4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。

天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。

「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)

いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、

「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)

といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。

「命を国家に捧げて克くもやって呉れた」

つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。

よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。

「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)

つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。

「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)

こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、

「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)』)

と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和の海上特攻につながったとの指摘が存在する。

これについては、本当にそんな発言があったのか疑う声も少なくない。『昭和天皇実録』にも、別の「お言葉」が採用されている。

「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』)

制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。これはこれでかなり厳しく重い「お言葉」ではあった。

「万一の場合には自分が御守りして運命を共に」

天皇はいつ敗戦を覚悟したのか。これも諸説紛々たるところだ。

天皇が早く手を打たなかったので戦禍が拡大したとの批判がある一方で、ここまで待たなければ軍部を抑えられず、終戦処理など不可能だったとの見解もある。

いずれにせよ、1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

天皇がここで心配したのは、三種の神器のことだった。7月31日に木戸幸一内大臣にこう語った。

「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)

三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮にあった。

そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。

そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。

〔PHOTO〕gettyimages

単純な二者択一では実態に迫れない

以上をみてもわかるとおり、昭和天皇は戦時中たいへん多弁だった。一旦開戦した以上、大元帥としての役割を果たそうとしたのかもしれない。明治天皇はここまでではなかったので、これは昭和天皇に顕著な特徴だった。

もちろん、これのみをもって好戦的だと断ずるのは早計すぎる。昭和天皇の「お言葉」は、平時の平和志向のものも実に多いからだ。だからこそ議論を引き起こして止まない。

平和主義者か、軍国主義者か。そんな単純な二者択一から卒業しなければ、その実態に迫ることはできないだろう。来年の改元で、昭和もいよいよ遠くなる。これをより冷静で多元的な議論のきっかけにしたいところである。

【参考文献】
・「『戦争責任』いわれ辛い 昭和天皇素顔の27」(小林忍侍従日記)『47news』、2018年。
・宮内庁(編)『昭和天皇実録』8・9巻、東京書籍、2016年。
・防衛庁防衛研究所戦史部(監修)、中尾裕次(編)『昭和天皇発言記録集成』上下巻、芙蓉書房、2003年。
・山田朗『昭和天皇の戦争指導』昭和出版、1990年。
・同『大元帥昭和天皇』新日本出版社、1994年。
・同『昭和天皇の戦争 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』岩波書店、2017年。
※引用にあたっては、読みやすさを考え、カタカナをひらがなに直し、適宜句読点を付すなどした。
※引用資料のうち『眞田穰一郎少将日記』は、上掲の『昭和天皇発言記録集成』と山田書で微妙に引用の文言などが異なっている。同資料はきわめて難読であり、筆者も所蔵する防衛省防衛研究所で原本の複製を確認したが、ミミズがのたくりまわっているような状態で、確定できなかった。そこで本稿では、『集成』の文言に従った。

 

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連合と右派運動の「共闘」

連合と右派運動の「共闘」「民社党・同盟」どこへ向かうのか

©株式会社西日本新聞社より

 参議院選挙が近づく中、連合の股裂き状態が解消されていない。もともと連合は民主党・民進党を支援してきたが、大きく立憲民主党と国民民主党に分かれたため、組織内候補も二分化されている。比例代表の統一名簿も提案されているが、立憲民主党は応じていない。このまま選挙に突入すると、政党支持率が低迷する国民民主党は苦戦することが予想される。当然、国民民主党から比例代表で立候補予定の5人の組織内候補は、全員の当選が難しくなる。

 連合は、もともと一枚岩ではない。社会党を支持してきた「総評」や民社党を支持してきた「同盟」などが統一して結成されたため、思想的な背景を異にする人たちが参集している。

 朝日新聞の言論サイト「論座」でスタートした藤生明の連載「日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか」は、「民社党・同盟」勢力の現在を追うことで、今後の野党を展望する。

 連載第1回「生きていた民社党、保守運動をオルグする」(5月5日)の中で、藤生が注目するのは、現在、日本会議会長を務める田久保忠衛の存在である。田久保は「民主社会主義研究会議」(民社研)の中枢で活動した言論人で、民社党の綱領づくりにも参画した。民社研は1960年の民社党結成と同時に発足した組織で、民社党の政策を理論的に支えるシンクタンク的存在だった。

 日本会議のような右派運動が、「民社党・同盟」系の田久保に期待しているものは何か。藤生曰(いわ)く「民社協会の地方議員ネットワークやUAゼンセンのような活発な労働組合の存在は戦力として魅力的に映ったに違いない」。民社協会は、旧民社党系の国会議員・地方議員が構成するグループで、国会では国民民主党に属している。

「民社党・同盟」の人脈は、現在でも様々な右派運動に関与している。「新しい歴史教科書をつくる会」、「文化の日」を「明治の日」に改める運動、そして拉致問題。かつては「元号法制化実現運動」にも参画し、大きな役割を果たした。

 立憲民主党と国民民主党の亀裂は、労働運動のイデオロギー的な再分化・先鋭化を加速させる可能性がある。これは野党共闘の大きなネックになるだろう。国民民主党は、草の根の右派運動と、どのような関係性を保つのか。両者の関係が深まれば深まるほど、リベラルな価値観を重視する立憲民主党との溝は深まり、自民党との思想的近さが鮮明になる。

 民社党・同盟の源流をたどると、鈴木文治らが大正期に創設した友愛会(1912年)、日本労働総同盟(1921年)に行きつく。東京・芝にある「友愛労働歴史館」では、連合に至る歴史が展示されており、現在は「民社党結党60年、勤労国民政党の旗を掲げて」という企画展が開催されている(6月28日まで)。重要な展示なので、見に行ってみた。当然、1960年に民社党を結成し、初代委員長に就任した西尾末広が大きく取り上げられている。

 西尾は1928年の第1回普通選挙で社会民衆党から立候補し、当選。1930年代には無産政党が結集した社会大衆党に所属し、中核を担った。社会大衆党のメンバーは、国粋主義的な国体論に接近し、全体主義的な労働者の解放を主張。西尾は社会主義の観点から国家総動員法案を支持し、近衛文麿首相に対して「もっと大胆率直に日本の進むべき道はこれであると、かのヒトラーの如(ごと)く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべきであると思うのであります」と演説した。「一君万民」という国体論は、天皇の超越的権威のもと、万民は平等であるというイデオロギーである。西尾らにとって、この国体論は資本家から労働者を解放する根拠となった。

 このような社会大衆党の戦前・戦中の国体イデオロギーへの接近は、展示の中では強調されていない。しかし、「民社党・同盟」には、その皇国主義的ナショナリズムが連続的に受け継がれている側面がある。ここが藤生の指摘する「日本会議と共闘する労働戦線」につながる。現在の「民社党・同盟」は、どこへ向かおうとしているのか。今後の政局に関わる重要なポイントにほかならない。

(中島岳志 なかじま・たけし=東京工業大教授)

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懸念される米ロの核軍拡競争の再燃

懸念される米ロの核軍拡競争の再燃

 

         湯浅一郎(平和フォーラム平和軍縮時評より  ピースデポ代表)

2019年5月31日

 2020年4月の核不拡散条約(NPT)再検討会議まで残り1年を切った。1970年に第1回再検討会議が開かれてから半世紀、1995年に無期限延長されてから4分の1世紀、そして2017年に核兵器禁止条約(以下、TPNW)が成立してから初めての再検討会議である。この間、NPTは,「不拡散」条約としての制約を持ちつつも、「核なき世界」をめざして、多国間での議論、交渉ができる最も重要な場の1つとして機能し、2000年や2010年合意など幾多の成果をあげてきた。しかし、その重要な節目を前に、米国のINF(中距離核戦力)全廃条約からの離脱などを契機に、新たな核軍拡競争が起きるという深刻な事態となっている。そこで、ここでは、「力による平和」を目指すトランプ政権の核軍事戦略の現状とそれに対抗するロシアの動向をフォローし、米ロの新たな核軍拡競争を食い止めることの重要性を指摘したい。

1)「力による平和」を目指すトランプ政権の核軍事戦略
 核兵器国は、TPNWへの反対では一致しているが、相互の敵意を丸出しにして新たな軍拡競争に邁進している。特にトランプ政権は、「力による平和」を前面に打ち出し、国家防衛戦略(NDS)、核態勢見直し(NPR)を相次いで発表し、オバマ政権の8年間でようやく緒についた「国際協調に基づく核兵器のない世界」への道筋を否定する方向に向かった。トランプNPRには、局地攻撃を想定した低威力弾頭や、新型の巡航ミサイル開発が盛り込まれ、核兵器の役割を高める方向で安全保障政策を再構築しようとしている。さらにイラン核合意からの脱退、宇宙軍の創設や中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱表明、宇宙への展開も含むミサイル防衛見直し(MDR)策定など核軍縮に逆行する動きを強めている。
2019年2月2日、米トランプ政権は、米国と旧ソ連間で締結したINF全廃条約(中距離核戦力全廃条約)からの離脱をロシアに正式に通告した。声明文は、ロシアが2017年から配備している核弾頭搭載可能な地上発射型巡航ミサイル「ノバートル9M729」(NATO名SSC-8)が500kmを超える射程を有し、同盟国に脅威を与えていることを離脱の理由にあげている。そして、「ロシアが条約不履行を続けることは米国の至高の利益を危うくするものであり、米国はもはや条約に制限されないと結論づけた」と新型ミサイルの開発・配備の意志を明確にした●1。これに対してロシアは、9M729は短距離弾道ミサイル「イスカンデルM」の精度を向上させたものであり、重量が増した分だけ射程が短くなり、最大でも480kmを超えることはないと主張している●2。そして、むしろ米国がルーマニアやポーランドに配備したイージス・アショアこそ海洋発射型巡航ミサイルを陸上から発射する形に置き換えたものとして条約違反だと応酬しています。ロシアは、米国の主張を受け入れる様子もなく、INF条約の履行停止を宣言し、米国の行動と同様の措置をとるとした。条約は通告後6か月の8月2日で失効しますが、すでに事実上の失効状態となってしまったと言える。
INFとは、中距離核戦力のことを言う。INF全廃条約とは、1987年12月8日、核弾頭・通常弾頭の搭載を問わず、射程500~5,500kmの中距離及び準中距離の地上発射型の弾道及び巡航ミサイルの保有・生産・飛行実験を禁止することを米ソ2国間で結んだ条約である。ただし、海洋及び空中から発射するミサイルは条約の対象にはなっていない。
条約の前文には、「核戦争がすべての人類に壊滅的な結果をもたらすことを認識し、戦略的安定性を強化するという目的に導かれ、本条約に規定された諸措置が、戦争勃発の危険を減少し国際の平和と安全を強化するのに寄与することを確信し、ならびに核兵器の不拡散に関する条約の第6条の下における義務に留意し」協定したと格調の高い共同意思が示されている。つまり核戦争勃発の危険を減少させて国際の平和と安全に寄与すること、核不拡散条約(NPT)第6条にうたう核軍備の縮小撤廃の義務を果たすことを掲げている。条約により米ソ間の核兵器が撤廃されるのは初めてで、これがきっかけとなり米ソ冷戦が終結へと向かい、その後の戦略兵器削減条約(START)にもつながっていったという歴史的に大きな役割を果たした。INF全廃条約は核軍拡から核軍縮へと歴史を大転換させた大きな意義がある。

2)ロシアは、弾道ミサイル防衛網に対抗し新型核・ミサイルを開発
   ―プーチン大統領の最近の年次教書演説から
米国のこうした動きに対してロシアは、21世紀に入って以降、米国のBMDシステム設置に対抗して、BMDシステムを無力化するために次世代ミサイル開発を継続し、新型巡航ミサイルや無人潜水機など新たな核兵器運搬システムを開発してきた。
2018年3月1日、プーチン大統領は、モスクワで当面の施政方針を包括的に述べる年次教書演説の中でロシアの軍事、核政策の強さをアピールした。。約2時間にのぼる演説の3分の1の時間をさいて、大きなスクリーンに映し出された動画を背景に、世界中が射程に入るとする巡航ミサイルなど新型の核・ミサイル兵器を公表し、米国による世界規模の弾道ミサイル防衛(BMD)網に察知されることなく攻撃できる体制を確保していることを誇示した。
まずプーチン大統領は、2001年の米国の対弾道ミサイル制限条約(以下、ABM条約)からの一方的な撤退と、米国による世界規模のBMDシステムの実戦配備を批判しつつ、この間の流れを振り返った。2001年12月13日、ブッシュ米大統領は、「ABM 条約は、テロリストやならず者国家のミサイル攻撃から守るための方法を開発しようとするわが政府の能力を妨げるものである」●3と主張し、ABM条約から脱退する旨をロシアに一方的に通告した。ロシアは、この決定に強い懸念を表明したが、米国は、2002年6月13日に同条約から正式に脱退した。
ABM条約とは、戦略弾道ミサイルを迎撃するミサイルシステムの開発、配備を制限するために、1972年5月に署名された米ソ間の条約で、両国間の安全保障システムの基礎と見なされていた。この条約の下で、米ソは、当初2ヶ所、74年7月の議定書によりそれぞれ一ケ所にBMDシステムを配備する権利を有していたのである。
しかし、米国のABM条約からの脱退により、BMD配備を制限する構図が崩れた。ロシアの言い分では、米国のABM条約からの撤退から15年間、ロシアは一貫して戦略的安定の範囲内で合意に達するため米国と交渉を続けた。2010年には、ロシアと米国は戦略核兵器のさらなる削減と制限のための措置を含む新START条約に調印した。しかし、ロシアからの多くの抗議と要請にもかかわらず、米国の弾道ミサイルの無制限な増加とBMDシステム設置の動きは続いた。アラスカ州とカリフォルニア州に新たなBMD基地が設置され、西ヨーロッパでは東方拡大されたNATOの一員であるルーマニア、ポーランドで2つの新たなBMD基地が創設された。更には韓国にサード・ミサイル、日本に陸上アショアと北東アジアにおいても建設の動きが起きた。

ロシアは、上記の米BMDシステムを無力化するために、次世代ミサイル開発に乗り出した。2004年、プーチン大統領は、「他国が武器及び軍事上の潜在能力を増強する時、ロシアも新世代の兵器及び技術を確実に持てるようにする必要がある」とし、「近い将来、ロシア連邦軍、とりわけ戦略ミサイル軍が、大陸間をまたぐ距離にある標的を攻撃することが可能で、飛行中に飛行高度及びコースを調整できる極超音速で高精度な新しい兵器システムを手にするであろう」と述べた。

演説で、プーチン大統領は、今日、ロシアは、米国による世界規模のBMD網に察知されることなく攻撃できる新たな核兵器運搬システムを開発したと動画を使って説明した。まず、重量が200トンを超え、加速段階が短い開発中の新型の大陸間弾道ミサイル「サルマット」(RS-28)●4を示した。「サルマット」は北極や南極を経由してターゲットを攻撃することができ、最先端のBMDシステムでさえも攻撃の障害にはならないとした。
さらに、ターゲットに向かう際に弾道軌道を全く使用しない新型の戦略兵器の開発を始めたとする。その1つが最新のX-101空中発射ミサイルである。これは、核弾頭を搭載した低空飛行ステルス・ミサイルで、制約のほとんどない射程、予期せぬ軌道、迎撃境界を迂回する能力を備え、すべての既存および将来のBMDシステムに対して無敵であるとする。
もう1つは、長距離ミサイルを発射できる無人潜水機の開発である。ロシアは、最先端の魚雷の速度よりも数倍高い速度で、相当な深度で移動可能な無人潜水機を開発したとする。
さらに、キンジャル(短剣)と呼ぶ高精度の極超音速空中発射ミサイルシステムを構築しており、実験は完了し、17年12月から試験運用を開始した。発射航空機は、数分以内でミサイルを発射地点に運搬することができ、音速の10倍速い極超音速で飛行するミサイルは、飛行軌道のあらゆる段階で操縦可能であり、2000キロ以上の射程で核及び通常の弾頭を運搬し、将来のBMDシステムを無効にすることも可能であるという。

演説の最後で、プーチン大統領は、発表されたばかりのトランプ核態勢見直し(NPR)によれば、「通常兵器による攻撃及び、サイバー空間での脅威に対してさえ」核兵器を使用しての反撃がありうることになると深刻な懸念を表明した。これに対して、「ロシアの軍事ドクトリンには、核による攻撃に対してのみ、または、その他の大量破壊兵器によるロシアまたは同盟国への攻撃、または、通常兵器を使用した、まさに国家の存亡を脅かすロシアへの侵略行動に対してのみ、ロシアは核兵器を使用する権利を保有する」と米国との違いを強調した。

3)新たな核軍拡を食い止めよう
 現状のままでは、2019年8月2日にINF全廃条約は失効する可能性が高い。このまま進めば、2002年、米国のABM条約からの脱退を契機に、米国が始めたBMD体制の構築に対して、ロシアが、米BMDを無力化するための新型兵器の開発を推進することで、結果として、相互の軍拡が進んできたのと同じ状況が生み出されてしまう。ロシアが新たな兵器の開発を進めれば、それによって、米国によるミサイル防衛態勢の構築が止まり、縮小されるとは考えられない。むしろ、トランプ政権の軍備拡張の方針を考えれば、米国は、ロシアの新型兵器の開発に対抗できるBMD体制の強化や、先行してきた極超音速・通常戦略兵器の更なる開発に向かうだろう。その結果、米ロのかつての冷戦時代の核軍拡競争の再燃が懸念される。人類が、「核兵器のない世界」へ向け前進していくためには、この状況を打開する国際的努力が強く求められる。


●1 米国務省「INF条約から脱退する米国の意思」、2019年2月2日。
https://www.state.gov/secretary/remarks/2019/02/288722.htm
●2  セルゲイ・ボビレフ「ロシアの新ミサイルはINFに違反しない―軍事トップは言う」、タス通信、2019年1 月23 日。
●3 ピースデポ刊『核兵器・核実験モニター』第154-5号(2002年1月15日)。
●4 ニュークリア・ノートブック;「ロシアの核戦力2017」、原子科学者会報。
https://thebulletin.org/2017/03/russian-nuclear-forces-2017/

 

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「戦争のリアル・悲惨!」ブーゲンビル島 海軍「陸戦隊」の過酷な戦い 現代ビジネスより

 「国に見殺しにされた」軍隊の士官が抱え続けた「負い目」とは?

ブーゲンビル島海軍「陸戦隊」の過酷な戦い

2019.5.26  神立 尚紀

太平洋戦争において、米軍の反攻にあい劣勢に立たされた大日本帝国政府は、1943年9月30日、「絶対国防圏」内への戦線縮小を発表する。これは、本土防衛と戦争継続のため、千島ーマリアナ諸島ー西ニューギニアを結ぶラインの内側を死守するという構想だが、この時点で、「国防圏」の外にはまだ多くの将兵が残されていた。

彼らは、それから一切の補給を受けられず、降伏することもできず、ただ死ぬまで戦うことを強いられることになったのだ。東京帝国大学を繰り上げ卒業し、海軍陸戦隊を志願した福山孝之さんは、南太平洋のブーゲンビル島で、その渦中に身をおくことになった。

終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないまま、国から見捨てられた多くの部隊が全滅していくなかで、彼らはいかにして戦い、生き延びたのだろうか。

 ゲーテを手に戦場へ向かった帝大出身の小隊長

「おごそかに伝える。天皇陛下の命により終戦と決まった。軽挙妄動しないように。処置は追って令す」、昭和20(1945)年8月16日、すでに戦線から遥かに取り残された南太平洋、ソロモン諸島に浮かぶブーゲンビル島トリポイルの海軍第八十二警備隊本部。司令・伊藤三郎中佐の訓示を聞いて、居並ぶ士官のなかには、感極まって泣き出す者もいた。

福山孝之さん(故人)は、これまで張りつめていた全身の力が抜けていくような気がしたと言う。もう、敵の飛行機が頭上を飛んでも防空壕に走り込む必要はない。対空戦闘もしなくてよい。午後の明るい日差しのなかで、福山さんたちは数年ぶりの安堵感と解放感を噛みしめていた。

 

 

 

福山孝之さん。昭和17年11月、兵科予備学生の頃。福山さんのアルバムは戦災で焼失し、これが手元に残った海軍時代唯一の写真

福山さんは大正7(1918)年、島根県の生まれ。幼い頃に両親を亡くし、東京・渋谷の祖父母のもとで育てられた。昭和16(1941)年12月、東京帝国大学法学部を繰り上げ卒業(本来は昭和17年3月卒業予定だった)し、「どうせ軍務に服すのなら、陸軍二等兵で入営するより、短剣を吊ったスマートな海軍士官に」と、主に陸戦隊(海軍が編成する陸上戦闘部隊)や対空、対潜、通信の初級指揮官を養成するため新設された「海軍兵科予備学生」を志願。昭和17(1942)年1月、その1期生として横須賀海兵団に入団し、千葉県の館山砲術学校で陸上戦闘指揮の猛訓練を受ける。

 兵科予備学生一期生(陸戦班、館山砲術学校)の集合写真。昭和16年12月、大学、高専を繰り上げ卒業した者のうち、志願者から選抜。3列め左から4人めが福山さん

昭和18(1943)年1月、予備少尉に任官すると、すぐさま横須賀鎮守府第七特別陸戦隊(横七特。総員2300名)に配属され、ソロモン諸島方面の激戦場に送り込まれた。以後、コロンバンガラ島、ブーゲンビル島を渡り歩き、2年半ものあいだ、極限の戦場で苦しい戦いを続けていた。終戦時は海軍大尉で、ブーゲンビル島の日本軍拠点・ブインの北西12キロのところにあるトリポイルの対空砲台の指揮官を務めていた。

南太平洋ビスマルク諸島、ソロモン諸島要図。福山さんは、赤丸で印をつけた左端のラバウル、右端のコロンバンガラ島を経て、中央のブーゲンビル島に移動、トリポイルで終戦を迎えた

出征するとき、福山さんは、ゲーテの『ファウスト』(上・下)とイプセン『野鴨』の3冊の文庫本と日記帳だけを携えて、兵員輸送に使われた特設空母「冲鷹(ちゅうよう)」に便乗、横須賀軍港をあとにした。福山さんは、内地から最初に赴任したニューブリテン島ラバウルで、自分の部下となる人たちと最初に顔を合わせたとき、その姿に衝撃を受けたという。

旧日本海軍の一大拠点であったラバウルの現在の姿(撮影:神立尚紀)

「中隊長が、新任小隊長の私を紹介し、皆一斉に私に敬礼しました。しかし驚いたことに、脚はだらっと曲がったまま、銃の持ち方もバラバラで概ね猫背、目は漠然と前を見ているだけ。館山で厳しい訓練を受けてきたばかりの私は、あまりの違いに驚きました。部下となったのは、下士官1名と数名の徴兵の現役兵をのぞけば、あとは3名の下士官もふくめて応召の年配者が多く、残りは17歳以下の若い志願兵でした」

ソロモン諸島をめぐる日米両軍の攻防戦は日ごとに厳しさを増していたが、ときはガダルカナル島から日本軍が撤退した直後、精強な部隊は前線ですでに底をついていたのだ。世界屈指の悪疫の地であるソロモン諸島では、マラリアやアメーバ赤痢、熱帯性潰瘍などの風土病にかかって斃れる者が、戦死者の何倍にものぼっていた。

25歳で死生観の転機を迎えた

昭和18(1943)年4月、福山さんはコロンバンガラ島に送られ、自らの小隊を率い、敵の上陸に備えて海岸線の防備にあたった。そこは文字通りの最前線で、連日、敵機の空襲や艦砲射撃、対岸の島からの砲撃にさらされ、福山さん自身も、防空壕が敵弾の直撃を受けて7時間ものあいだ、土砂に生き埋めになり、あわやということもあった。

福山さんがラバウルの次に進出したコロンバンガラ島近辺の地図

「しかし、このことがあってからは、それまで神経質でくよくよするタイプだった私が、なるようにしかならないと腹が据わって、大抵のことは気にならなくなりました。25歳で死生観の転機を迎えたんですね」

米軍に制空権を奪われて物資の輸送もままならなくなり、8月には後方からの補給も絶え、ひと月も経たないうちに島の各隊は食糧不足に陥った。上級司令部はコロンバンガラ島の維持をあきらめ、守備隊をブーゲンビル島に後退させることを決めた。

ソロモン海を航行する輸送船。敵機の空襲に犠牲も大きかった

ソロモン諸島の最前線で、輸送船から補給兵器を揚陸する様子

昭和18年10月、福山さんの部隊は、大発(輸送用舟艇)に乗り、途中、海戦の合間を通過したり、敵機の空襲に遭ったりしながら、やっとの思いでブーゲンビル島東南端の、日本軍の前進拠点であったブインにたどり着く。だが、そこで待っていたのも、飢餓と疫病と戦闘であることには変わりはなかった。

「コロンバンガラから帰還した我々は、ブインで敗残部隊の扱いを受けました。軍需部から衣服ももらえなければ、食糧も少ししかもらえない。軍隊には必ず『帳簿外』の物品がありますから、もとからそこにいた部隊ならそれでもなんとかなったんでしょうが、我々は引き揚げ部隊ですから、帳簿外のものがなにもない。結局、うちの部隊は、ボロボロの服のまま食糧もなく、自分たちで生きる方法を考えるしかありませんでした。

私は、半袖、半ズボンの防暑服は2着ほど持っていましたが、戦闘時の服装は、コロンバンガラ島で生き埋めになったときに着ていた草色の第三種軍装を、着替える服もないので終戦まで着続けました。弾片でほころびたのを、従兵が繕ってくれた服です」

9月から10月にかけて、ソロモンに在陣する同期生の大半が後輩の2期生と交代し、内地に呼び戻されたが、なぜか福山さんにだけ転勤辞令が来ず、防空砲台の指揮官として現地に残されることになった。

<何事も喜んで受け入れよ。長としての責任を負ひ、修養につとめるこれ以上の機會はない。我と我身に鞭を打たねばならない。どうせ人の一生は、坂道で重い石を持ち上げて居るやうなもの。これ位の重荷にくじけてはならぬ。>

と、福山さんは当時の心情を日記に記している。

今後補給はしないが降伏は許さない、死ぬまで戦え

しかし、最前線で戦う将兵の悲壮な覚悟を裏切るかのように、9月30日、日本政府は、戦線縮小と作戦方針の見直しをふくめた「絶対国防圏」構想を決定、即日発表する。これは、北は千島からマリアナ諸島、西部ニューギニアにいたるラインを絶対国防圏として死守するというものだが、それは同時に、その圏外にある日本軍将兵を、国が見殺しにする、ということでもあった。少なくとも福山さんたちは、そのように受け止めた。

「絶対国防圏の外側には、東部ニューギニア、ラバウル、ソロモンを中心に、約30万もの将兵がいたんですよ。その30万名に対して、今後補給はしないが降伏は許さない、死ぬまで戦えと、そんな無茶な命令を出したというのは、世界史上にもあまり例を見ないんじゃないでしょうか。とにかくこの構想を聞かされたときは、とんでもないことだとみんな憤慨していましたね」

11月1日、米軍はブインから約80キロ離れたブーゲンビル島中南部のトロキナ(タロキナ)に上陸、みるみるうちに橋頭保(きょうとうほ・攻撃の足場)を築き、飛行場を建設、島全体の制空権を完全に掌握する。同時に、ブイン地区の日本軍陣地に対する空襲も激しさを増していった。

「見捨てられても降参はできない。任務に忠実に、敵機が来たら戦わなければなりません。私の砲台では、偽陣地をつくって敵の攻撃をそらすなどの工夫を重ねながら、戦闘に明け暮れました。あるとき、銃座が直撃弾をくらって5名が一度に戦死したことがありましたが、班長の下士官は、頭に負傷して血をしたたらせながらも手ぬぐいで鉢巻をして、一生懸命に機銃を修理していた。そういう、責任感の強いよい部下に恵まれたことは、あの酷い戦争のなかでの唯一の救いでした」

福山さんが指揮官を務めるトリポイルの対空砲台は、143名の隊員からなり、12センチ高角砲4門、25ミリ連装対空機銃3基、20ミリ機銃3挺、ほか高射器、測距器、探照灯などを装備していた。昭和18年11月以降、終戦までの間に、福山隊の対空戦闘は89回にのぼり、数機の敵機を撃墜している。

 

世界史に類を見ない、イモ作りに追われる戦闘部隊

昭和18年9月以降、ブーゲンビル島への補給はまったく絶え、食糧事情は日に日に悪くなっていった。支給されるのは僅かな米と乾燥野菜だけ、昭和19(1944)年中頃にはその米も底をつく。栄養失調にマラリアが追い打ちをかけ、兵員の体力はますます衰えるばかりだった。対空戦闘には機敏な動きが要求されるが、隊員たちは皆、青白く痩せこけて、立っているだけで精いっぱい、高角砲の弾薬筒を取り落としたり、砲手の力が足りず、弾丸がスムーズに薬室に入らなかったりすることもあった。

「やむなく、各隊ごとに、戦いながらジャングルを切り開いて農地を開墾し、自給自足の態勢を整えることになりましたが、開墾するまでが大変な労力なんです。空襲がないときはもっぱら農園づくりに励みましたが、戦闘や訓練で時間が取られる上に病人が多く、なかなかはかどらなかった。イモが生育するまではイモの葉を煮て、わずかに飢えをしのいでいました」

福山隊では、漁師出身者で漁労班を編成して、魚とりやフカ(鮫)釣りに派遣した。塩も不足したので、製塩班をつくり、海岸でドラム缶を使い、海水を煮て塩を得たが、燃料となる薪を用意するだけでも、衰えた体には重労働だった。食糧不足は各隊とも同じだったので、畑荒らしが頻発、ときに発砲騒ぎや自殺者が出ることもあった。食糧を求めてあてどもなく歩き回る兵の姿を見ることもめずらしくなかった。

ふつう、100名の部隊で4ヘクタールの畑があれば、隊員が生きてゆくために十分なイモと少々の野菜をつくることができたが、福山隊では8ヘクタールの畑を耕し、パイナップルやインゲン豆なども栽培していた。

昭和19年秋頃にはイモの生育もよくなり、しだいに食糧事情は好転してきたが、こんどは医薬品が不足し、マラリアで病死する者が増えてきた。しまいには、医務隊から食糧と引き換えに流出した薬にも闇値がつき、マラリア薬一粒が10円(現在の2~3万円に相当する)もの値段で取引されるようにもなった。

「戦闘を主任務とする軍隊が、生きるためとはいえイモ作りに追われているのは異常な姿で、これではまるで屯田兵、あるいは集団入植です。こんな軍隊も、おそらく世界史上にないでしょう。一般的にはあまり文明的な暮らしをしていなかった当時の日本人だからこそ、ああいう暮らしにも耐えられたんだと思います」

 

ゲリラとの戦いに散った「士官の鑑」のような指揮官

昭和20(1945)年に入ると、前年11月に米軍に代わってトロキナに陣を敷いたオーストラリア軍が、ブインの日本軍拠点に対して本格的に侵攻を始めた。日本軍はこれを迎え撃ち、しばしば夜襲で敵を悩ましたが、5月にはそれまで日本軍に協力的だった現地人が離反、集団で姿を消すとともに、前線に派遣した分遣隊がその襲撃を受けるようになり、なかには全滅させられた部隊もあった。ゲリラ化した現地人に襲われた戦死者の遺体には多数の毒矢が刺さり、また、蕃刀(ばんとう)でメッタ斬りにされた遺体もあった。

襲撃の模様から、現地人は数は少ないながらも火器を持っていること、幕舎のなかがくまなく荒らされていることから、日本軍の命令書や地図を奪うのが目的の一つと推定された。

司令部はただちにゲリラの討伐隊を出動させたが、第一次の討伐隊は、交戦中に隊長が敵弾を膝に受けて後退し、続いて鈴木芳徳中尉が率いる一個小隊に出動命令がくだった。鈴木隊はジャングル内の小道をたどって進んだが、途中、草むらに真新しい日本の三八式歩兵銃が落ちていたのを、鈴木中尉が不審に思い拾い上げた瞬間、地雷が爆発した。銃は、敵の仕掛けた罠であった。その銃は、ピアノ線で地雷につながっていて、強く引くと爆発するようになっていたのだ。鈴木中尉は即死した。ときに昭和20年5月14日だった。

「鈴木中尉は、兵科予備学生二期、青山学院前の有名なパン屋の息子でした。東京農業大学の醸造科を出ていて、イモが収穫できるようになってからは、隊で焼酎を作ったりもしました。勇敢な男でね、私たちなら銃撃を受けると反射的に身をすくめますが、彼は毅然として立ったままで戦闘指揮をしている。彼ほど胆の据わった人はいなかった。我々大学出のにわか士官の鑑のような男でした」

8月になると、オーストラリア軍は、日本軍陣地から、重砲の射程圏内となる15キロの地点まで進出してきた。そこを流れるミオ川が天然の濠になっているが、この線が破られれば、あと3、4日で敵軍がなだれ込んでくる。

ブーゲンビル島のオーストラリア軍侵攻図。終戦時、福山さんは、ミオ川をはさんで敵軍と対峙していた

「オーストラリア軍は、武器は米軍ほどではありませんが、戦法は同じです。飛行機で攻撃をかけてくるのと並行して、道路をつくりながら大砲を前進させ、その大砲で徹底的に叩いてから、歩兵が戦車と一緒に出てくるという戦い方でした」

 

4万3千名の犠牲者のうち戦死者は9千名

日本側は、砲弾も残りわずかである。福山隊では1門あたり70発の砲弾しか残っておらず、他の砲台でもこれは似たような状況だった。全滅を、誰もが覚悟した。そんな最終局面にあった8月16日、内地より一日遅れて、ブインの日本軍将兵にも終戦が伝えられたのだ。

第八十二警備隊本部から持ち場の砲台に戻った福山さんは、隊員を集め、台上から終戦になったことを告げ、

「皆も苦労の連続だったが、これで終わった。生きて還れるぞ!」

と結んだ。すると、誰からともなく突然、「ワッ」という喚声が上がり、全員が諸手を挙げ、なかには跳び上がって喜ぶ者さえいた。本国から見放されて2年近く、太平洋の捨て子部隊の、率直な感情の発露だった。

ブーゲンビル島ではいまも、旧日本軍が造った防空壕を現地の人が日常生活に使っている。画面左側、コンクリート製構造物が防空壕の入口(撮影:神立尚紀)

終戦時、ブーゲンビル島に生き残った日本軍は、軍人、軍属合わせて2万4千名あまり。昭和18年秋から終戦までに、4万3千名近くが犠牲になっていた。そのうち戦死者は約9千名にすぎず、残りは栄養失調や、マラリアなど風土病で死亡した者だった。なかには、せっかく終戦まで生き延びたのに、捕虜収容所に送られる前に病死した者も少なからずいた。

「私の隊は戦闘部隊ですから、戦死25名、戦病死も25名で、ブーゲンビル島の部隊のなかでは比較的、戦病死者が少ない方でした。敵機は毎日のように来襲するとはいえ、戦闘自体は数分間で、あとは農作業なわけですから、毎日、農作業にどれだけ人を割けるかが、生きるための鍵でしたね……」

福山さんはその後、ほかの隊員たちとともに、ブーゲンビル島の沖合にあるファウロ諸島の、マサマサ島やタウノ島に設けられた捕虜収容所に送られた。

 

「生き残った負い目を背負って生きている」

翌昭和21(1946)年2月、復員輸送に使われた空母「葛城(かつらぎ)」に乗って浦賀に上陸、ちょうど3年ぶりに祖国の土を踏んだ。冬なのにボロボロの防暑服を着て、骨と皮ばかりに痩せた異様な姿の復員者の群れを見て、道ゆく人は皆、顔をそむけた。福山さんの目には、町の人たちの顔がみんな、ふっくらと桜色に見えた。

東京に帰ってみると、見渡す限りの焼野原で、渋谷の自宅も焼失、育ててくれた祖父母や縁者も亡くなっていて、まさに「今浦島」の気分だった。自宅の焼け跡には、見覚えのある茶碗のかけらが落ちていたのみで、大切な本やアルバムはもちろん、福山さんのものは何も残っていなかった。がっかりしてその場に座り込むと、真白く雪を頂いた富士山の姿が、とても近くに見えた。かつて自宅から富士山は見えなかったのに、視界を遮る建物が一軒残らず焼失していたのだ。

福山さんは北海道の親戚宅に身を寄せて、栄養失調とマラリアで衰えた体を休ませたのち、大学卒業時に採用の決まっていた日鉄鉱業に復職。60歳まで会社勤めを全うし、その後はソロモン方面の戦没者慰霊に尽くした。

「戦争中の生死を賭けた3年間を思えば、あとのことは単なる付け足しです。あの期間は人生のなかの別物で、残りの人生とのつながりは全然ない。海軍時代の経験が、戦後の自分の仕事の役に立ったとも思えない。しかし、あの戦争で死んだ人たちのことはけっして忘れてはいません。第一線で戦って生き残った者は誰もが、死んだ仲間に対してすまないと、多かれ少なかれ負い目を背負って生きてると思うんですよ」

福山孝之さん。戦後は会社勤務を経て、戦没者慰霊に尽くした(撮影:神立尚紀)

だからこそ、いまも慰霊祭に、高齢でほんとうはもう歩けないような人たちまでもが、命がけで出てくる。「生き残った負い目」を償うすべが、そんな形でしか、彼ら当事者にはないのである。

戦後74年が経とうとするいま、ガダルカナル島以外のソロモン諸島の戦いについてはあまり語られることがない。だが、国から遺棄されてなお、生きるために戦い、戦場に斃れた幾万の将兵がいたことも、記憶にとどめておきたい。

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5.29北信越キャラバン「沖縄連帯」集会 -沖縄から平和を考える-山城博治さん

沖縄・辺野古と連帯するため、そして、「戦争する国」づくり・憲法改悪を阻止するため、今年も、北信越キャラバン「沖縄連帯集会」を開催しました。本年は、主な構成組織の書記局を日中に訪問し、役員間の濃い交流を行なったあと、集会を開催しました。橘 広行県平和センター共同代表、社民党県連副代表森一敏さんの挨拶を受けた後、メインスピーカー沖縄平和運動セン ター議長山城博治さんから熱い講演を受けました。

沖縄と連帯し、全国の反戦・平和の闘いと連帯し、世界の平和勢力と連帯するため、昨年と同規模の120名が集い、成功させてきました。ここで培った連帯を、安倍政権の野望!「辺野古新基地建設」「戦争する国」づくり「憲法改悪」を阻止する力にしましょう。

http://www.peace-forum.com/okinawa-branch/okinawa_No87.pdf (5/27沖縄だより 平和フォーラムより)

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山口、秋田とも「適地」 イージス・アショアの配備

イージス・アショア、配備候補2県に「適地」伝達 防衛省

政治 2019/5/28 19:00
防衛省は28日、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」を配備する候補地である秋田、山口両県への説明を終えた。原田憲治防衛副大臣が27~28日に両県を訪れて知事らと面会した。周辺環境や人体に与える影響を調査した結果、問題は見つからなかったと説明し、配備にあたって「適地」だとの判断を伝えた。両県は回答を保留している。

防衛省はイージス・アショア2基を国内に配備し、ミサイル防衛体制を強化する計画だ。候補地は陸上自衛隊新屋演習場(秋田市)と陸自むつみ演習場(山口県萩市、阿武町)の2カ所だ。

防衛省は地元が懸念するイージス・アショアが発する電波について「人体に影響がなく安全」との調査結果を報告した。テロの攻撃目標になるとの不安には警備体制を増強することで応える。

秋田県は「すぐに結果を出せない」との立場を防衛省に伝えた。山口県では阿武町が配備に反対している。

イージス・アショアの稼働は搭載するレーダーの開発に時間がかかるため2024年度以降になるとみられ、地元との調整が難航すればさらにずれこむ可能性がある。

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天皇メッセージと憲法  沖縄より

http://www.peace-forum.com/okinawa-branch/okinawa_No86.pdf

 

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改元を利用するな!

改元を利用するな!

2019年5月 9日

 「元号」を良しとはしない。改元にあたって免許証は西暦が記載されることとなった。外務省では西暦を使っている。グローバル社会に、元号は不便極まりない。元号法の下で、卒業証書に西暦を記載させるのに相当な闘いがあったことを思い出す。1989年1月7日、昭和天皇の崩御とともに小渕恵三官房長官が「新しい元号は、平成であります」と発表した。そして竹下登首相に換わって首相談話も発表した。天皇崩御の自粛ムードへの批判もあったが、平成天皇は、即位後朝見の儀において「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」と述べている。粛々と昭和から平成へ移っていったように感じられた。

今回の改元は、天皇の政治利用とも言える安倍晋三首相の記者会見、自らがその意義や内容を説明し「政治ショー」を演出した。国家主義者は「令和」の出典が国書である万葉集とことさらに強調し「、悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へ引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることのできる、そうした日本でありたい、との願いを込め『、令和』に決定しました」と述べた。白々しい、いけ図々しい、鉄面皮。この談話の内容ほど、今の日本に、安倍政権にふさわしくないものはない。子どもの7人に1人は貧困で一人親の子どもは半数以上、労働者の約38%が非正規雇用、奴隷労働と批判される外国人技能実習生、ヘイトにさらされる在日コリアン。そんな社会をほったらかしにして安倍首相は「新しい時代を、国民の皆さまと切りひらいていく」と述べた。へそで茶を沸かす!笑止千万!これほど人を馬鹿にした談話もあるまい。

 「令和」は「「初春令月気淑風和」からとって、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味らしいが、安倍政権の中では、国の命令を聞いていれば平和に治まると聞こえる。「令和」の世が私たちに優しい時代となるのは、私たちの手に委ねられている。
(藤本泰成)

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5.22原水禁石川定期総会 -記念講演-「多発する小児甲状腺ガン」~しきい値無し直線を標準モデルに~

原水禁石川県民会議の2019年度代表委員、常任執行委員を決め、県下6会場で「反核・平和」行進をスタートさせることを決定。崎山比早子さん(3.11甲状腺がん子ども基金代表理事)の記念講演では、「小児甲状腺ガンの多発」には、放置、過ち、ごまかし、隠蔽、過小評価など不正が詰まっていると、安倍政権・環境省の犯罪を告発しました。

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