原水禁世界大会・長崎大会の報告

原水禁世界大会・長崎大会の報告

時兼秀充さんの報告 中澤毅さんの報告 小原正義さんの報告
杉浦直人さんの報告 新村郁さんの報告 森 一敏さんの報告


66原水禁世界大会(長崎大会)に参加して

県教組 時兼 秀充

「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅(おび)えることになってしまったのでしょうか。

自然への畏(おそ)れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか…、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。

(中略)原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です(長崎平和宣言)。

長崎市の平和宣言が「脱原発」に踏み込んだように,今年の被爆66周年原水禁世界大会は「脱原発」が大きな焦点となった。全体会では,主催である3つの団体の合意がなされていない状態で,脱原発に関しては曖昧な表現が多かったが,核の「軍事利用」で放射線被害にあった「ヒロシマ」「ナガサキ」と,核の「商業利用」で同じく放射線被害にあった「フクシマ」から,あらためて「核と人類は共存できない」ことを参加者全員で確認することができた。分科会(脱原発2)では,原発は,廃炉になろうとしているのに技術が進んでいない古い技術である。産業革命時代は,日本は資源がない国であったが,これからは,自然大国である日本は自然エネルギー大国となる。など,脱原発にむけたエネルギー政策について学習することができた。今回,原水禁に参加して,珠洲原発問題で市を二分して戦った時代が終え,何となく今の現状に満足してしまっている自分に気づかされた。そして,核廃絶にむけてとりくんでいる高校生平和大使の「私たちは微力ですが,無力ではない」という言葉に,2020年までに核兵器廃絶をめざす「2020年ビジョン」実現に向けてとりくんでいく元気をもらった。


原水禁66長崎に参加して

県教組 中澤 毅

参加者集合写真

はじめて原水爆禁止長崎大会に参加することができました。広島大会には何度か参加しましたが、今回、長崎大会ならではの平和運動の可能性を感じることができ、有意義な3日間でした。特に高校生をはじめとした若い世代が平和運動に関わっている姿が印象に残りました。

2日目わたしは、西尾漠さんと藤井石根さんが講師となった「温暖化と脱原発にむけたエネルギー政策」という分科会に参加しました。そこでは、日本のエネルギーは投入されるうちの3分の2弱が利用されずに「損失」されており、コージェネレーションや新技術の導入でまだまだ省エネは可能であるとの話しを聞いた。また、再生可能エネルギーは可能性がきわめて大きいことや、利用方法による弱点の克服などでむしろ「頼もしい」存在になりえるとの指摘は新鮮であった。原発に頼る必要は全くないと強く確信することができました。原発推進政策の中、わたしたちには自然エネルギーのマイナス面ばかりが刷り込まれてきたのではないでしょうか。産業革命時の尺度(地下資源)でみれば日本は資源小国かもしれませんが、現代の基準(自然エネルギー)でいえば、むしろエネルギー大国ともいえ、これを有効に活用しない手はありません。

一本鳥居

フィールドワークでは、浦上天主堂や長崎医大、城山小学校等の被曝遺跡をめぐりました。中でも一本足で立つ山王神社の鳥居は衝撃を受けました。ただ広島同様、原爆の恐ろしさ物語る貴重な遺物が次々と姿を消したり、高層ビルや住宅に埋没している現状に「むなしさ」を感じました。唯二の被爆都市であり、ここにしか存在しないものがあるにも関わらず、それらを残すことができないとは…。

同様の「違和感」は初日の集会と最終日のまとめ集会でも感じました。福島第一原発事故をうけての大会だけに、来賓や主催者あいさつが注目されました。しかし、明確に「脱原発」に言及するものには、最後までめぐりあえませんでした。また公民館で、被爆者から直に体験を聞く機会もありましたが、その方でさえ「さまざまな立場の方もおいででしょうから、脱原発云々については…」と言及を避けておいでました(前後の話しのニュアンスからは、原発は無用との思いは感じとれましたが…)。

3・11後、福島では今現在もヒバクシャが生まれ続けています。放射線被害によって、ゆたかな自然が失われ、多くの人々がふるさとや仕事を追われました。子どもの健康に日々悩む母親がいます。このような厳しい現実があるにも関わらず、なぜ「脱原発」と声高に叫べないのでしょう。なぜ被曝当事者が、遠慮した発言をせざるをえないのでしょう。この壁をぶち破っていかなければ、原発はおろか核兵器も戦争もない平和な世の中の実現はありえないと思いました。


原水禁世界大会・長崎大会に参加して

県教組能登珠洲支部 小原正義

8年ぶりに長崎の地を訪れることになって、私自身期待していたことがありました。東日本大震災・福島原発の事故を受けて日本中が脱原発に向けて勢いを増し、大きな運動が展開されていくきっかけになる大会であると。ところが、いざ大会が始まりプログラムが進んで行っても、何のアピールもなく、宣言文、基調にもなく何か物足りなさを感じてしまいました。その中で、ひとつ心に残った言葉が高校生平和大使の代表のあいさつにあった、「私たちの活動は微力だけれど、無力ではない。」何か元気づけられる言葉でした。初日の晩は、懇親会を兼ねて中華街でお食事、紹興酒を片手に自己紹介をしながら長崎の夜は更けていきました。夜食に長崎ちゃんぽんは欠かせませんね。

2日目午前中は分科会②脱原子力2-交流・討論編「-温暖化と脱原発に向けたエネルギー政策-」に参加してきました。

私自身が脱原発といいながら、「実際今の日本から原発がなくなると電気不足になってしまう。」と言われると、何も言い返せない自分がいました。ところがこの分科会の講師である西尾漠氏(原子力資料情報室共同代表)や藤井石根氏(明治大学名誉教授)の話を聞いていると、勉強不足のため誤解していることが、たくさんあることがわかりました。まず、日本のエネルギー消費は90年代後半から伸びておらず、今では減少傾向にあること。日本のエネルギー構造を見ると、発電量の1.5倍のエネルギーが「損失」になっているそうです。そのことからも原発の開発より蓄電技術の向上や給配電網の整備そして、エネルギーの地産地消をすすめていくことが大事であることがわかりました。要は自然エネルギーに転換できることを、改めて確認できたことが何よりの収穫でした。

午後からは時間ができたので、一本鳥居や山王神社のヒバククスノキを見学してきました。

一本鳥居 山王神社のヒバククスノキ

改めて原爆のすさまじさをかんじさせられました。

最終日は、朝早くから被爆体験者の貴重な体験談を聞くことができました。自分の横で遊んでいた幼なじみが、気がつくと爆風で吹き飛ばされて亡くなった。私が今生きているのは、運が良かったからではなく、偶然なんだとおっしゃっていたのが印象に残りました。

そのあと、まとめ集会・平和行進に参加し、爆心地公園で黙祷をして解散となりました。最後に世話役をしていただいた県教組の中澤さんキップを間違えてご迷惑をおかけしました。どうもすいませんでした。


 

運輸労連 杉浦直人

原水禁長崎大会に参加して…2009~10年と原水禁広島大会で勉強させていただき、今年は長崎大会へと3年連続原水禁世界大会への参加となりました。私事で恐縮ですが、長崎県と言えば私の母方の祖父母が五島列島出身で、昭和8年までは長崎市内に在住しており、原爆が投下され破壊された三菱造船所に勤務していた事を、最近母親から聞かされてなんとも言いようの無い気持ちになったものです。もしも昭和20年8月9日まで祖父母が三菱造船所で働き暮らしていたならば、間違いなく被爆者になっており私自身もこの世に存在していない可能性が非常に大きいと思われ、人としての運命に感謝すると共に、不幸にも原爆に被爆した方々への悲運を悲しまずにはいられません。アメリカは広島・長崎に原爆を投下する必要が、本当にあったのでしょうか?

昭和20年8月といえば日本は戦争を継続する国力は無かった…いろんな事情はあるにせよ当時の政府の判断力・決断力の欠如には怒りさえ感じます。

今年の原水禁は、3月11日の東日本大震災において福島第一原発事故が起こり、改めて『核と人類は共存できない』との思いを確認する大会でもありました。毎年、日本は8月に戦争や非人道的核兵器の原子爆弾への反省や批判を繰り返し述べているが、新たに3月11日が脱原発運動への起点になることで、1人でも多くの国民が脱原発を共通認識し将来(早急に)原発のない日本へ向けて運動を本格化させる事が喫緊の課題だと思いました。

8月8日のフィールドワークでは第4分科会に参加し東日本大震災直後、米軍の友だちともだち作戦の検証や新防衛計画大網・米軍再編計画と震災出勤との関係について講演を拝聴しました。北朝鮮が韓国の延坪島へ砲撃したことや尖閣諸島問題にも触れ、北東アジアの平和なくして非核兵器地帯実現への道は程遠い事だと思いますし、いまだ核兵器をチラつかせ平和維持への抑止力だと核兵器を正当化しようとする思想は多くの国が持っているのかもしれません。

私は、3年連続で原水禁へ参加し戦争・核兵器・原発と安心して日本で暮らしていくために捨てなくてはならないものが確実にあることがわかりました。そのことを組合員や家族に伝えていくことが、これからの私の使命の一つだと思って頑張っていきます。又、機会があれば積極的に原水禁に参加したいと思います。


被爆66周年原水爆禁止世界大会・長崎大会に参加して

金沢市公営企業労働組合 新村 郁

これまで広島や長崎への原爆投下に関しては、学校での授業やマスコミなどの情報である程度知っていましたが、今回、初めて大会に参加させていただいたことで、より深く理解することができました。
特に大会初日での「被爆者の訴え」や分科会での被爆者の証言(山川剛氏による)、さらに慰霊碑墓参の時にも、直接、被爆者の方のお話を聞かせていただく機会があったことは、初めてのことでもあり、被爆地・ナガサキの実情に触れることができた貴重な経験となりました。

さらにフィールドワーク「被爆遺構めぐり」で、原爆投下中心地(爆心地公園)からスタートして、浦上天主堂(落下鐘楼)、被爆者手帳友の会平和記念会館、長崎大学医学部(医大門柱)を徒歩で回り、見学させていただきましたが、吹き飛ばされた鐘楼や爆風で傾いた門柱などの被爆の爪跡を見て、原子爆弾の威力のすさまじさを改めて実感させられました。被爆者手帳友の会平和記念会館では、被爆者の方々が描いた絵を見せていただき、原爆によってもたらされた当時の悲惨な状況や人々の苦痛、現在まで続く苦悩がとても伝わってきました。

また、東日本大震災によって福島県で起こった原発事故に関しても、分科会で放射能というものをわかりやすく説明していただき、原子力発電所の事故がいかに危険で恐ろしいものであるのかが確認できました。

今回の大会を通じて、自分自身が感じたことは、「核と人類は共存できない」とより強く実感できたことと、日本が経験した原爆投下という事実を多くの人々、特に若い世代にキチンと伝えていかなければならないとのことです。被爆者の高齢化などで貴重なお話が聞けなくなってきている中で、より多くの若い世代の人達がこのような大会に参加し、理解を深め、行動することが核のない世の中を作っていくことに繋がるのではないでしょうか。

そのためにも私が実際に見て・聞いて・触れたことを多くの人に伝えていかなければいけないと思いました。


ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ そしてノーモアフクシマ

金沢市議会議員 森 一敏

「2011年8月、被爆66年の原水禁世界大会には、特別な意義がある。」私は長崎大会に参加する代表団にこうあいさつした。3.11福島第1原子力発電所の過酷事故をくい止められず、新たな被曝者を生み出してしまった私たちの社会を、働く者と市民総ぐるみで変えていく決意を固め合う最大の機会だからだ。正に世界が注視している。

しかし、全体集会の連合、原水禁国民会議、核禁会議三団体共同開催の積極的意義は、この最も重要な機会に発揮できなかったばかりか、核事故という今日的脅威に瀕して尚も足並みをそろえられないという非力を世界に露呈する結果となった。福島の被災住民の失望は計り知れない。脱原発を求める大半の民意と乖離する労働、平和運動は、世論から早晩見捨てられ、無力化させられるだろう。原発の根っこにある米日核戦略と核の商業利用を隠蔽する「核の平和利用」神話から平和運動自身が脱せなくして、人類に貢献することはできない。川野浩一原水禁議長が、脱原発エネルギー転換への足並みにむけて、二団体に働きかけたいと締めくくったことは、三団体共催の限界への挑戦と受け止めておきたい。

さて、9日は、断続的に大粒の雨が降る日となった。早朝、私たちは京都の参加団とともに、爆心地から1.5㎞にある家野町公民館を訪れ、住民被曝者の佐々木さんから被爆体験を伺った。74歳のる佐々木さんは、文字通り九死に一生を得た方だ。政治的な発言は控えたいといいながら、原発はもう終わりにしなければと言われた。被爆者としてやむにやまれぬ思いがそうさせるのだ。慰霊碑に献花し閉会集会場へと移動した。

雨中の平和行進の後、原爆投下時刻11時2分には、慰霊碑に向かって死者に黙祷を捧げた。全日程が終了して、私は、ナガサキの平和記念公園に立った。この下に眠る、三菱により強制労働を強いられ、監獄に置かれた中国、韓国・朝鮮被爆者たちに思いをはせて。


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原水禁世界大会・広島大会の報告

金沢市勤労協、塚本敏司さん 県議会議員、山根靖則さん 県平和運動センター事務局、中村照夫さん 全国一般、二木敦嗣さん 全農林 全日通、島田宗典さん 県教組、西田育代さん 北鉄労組、半田宏志さん


 

原水禁世界大会・広島大会 参加報告

金沢市勤労者協議会連合会
事務局長  塚本 敏司

8月4日(木) 午前9時30分集合。 JR金沢駅改札口前にて金沢からの参加者7名にて結団式」を行い、
サンダー・バードに乗車、途中、小松駅にて2名の方と合流し、新大阪にて新幹線「のぞみ」に乗り換えて一路広島へと向かい、到着後荷物をホテルに預け、総会会場である「県立体育館」にて「総会」に参加をし、「原爆」の悲惨さや「核廃絶」への思いを新たに強めました。
その後、夕食会場では「連合石川」の参加者も交えて食事。
8月5日(金) 午前8時に平和公園内の「平和資料館」に集合し、「大久野島フィールド・ワーク」参加者80数名と合流し、約1時間30分ほどバスに揺られてフェリー乗船場へ。15分程の乗船で「大久野島」に上陸。現地にて「毒ガス工場」跡地等の説明講義を約1時間聴き、昼食を終えたのち「フィールド・ワーク」として約3時間程度をかけ、「大久野島毒ガス資料館」や「旧陸軍保管庫跡地」などをめぐりました。当日、気温は36度、汗をかきながら着ていたポロシャツもベタベタにしながら約4キロの島内を説明を聞きながら周ってきました。
毒ガス貯蔵庫

途中には「防空壕」を使用した「毒ガス貯蔵庫」(入口はコンクリートで閉鎖されている)や「毒ガス保管庫」などの跡地が多数あり、旧陸軍の所業が思い浮かべられた。(写真添付)
写真は旧陸軍の毒ガス保管庫跡地の内部の様子。
いずれの保管庫内への立入りは「禁止」されているが「自己責任」にて立ち入ることは可能であり、この写真も「柵」を乗り越えて立ち入り、撮影をしました。
8月6日(土) 午前7時45分 「平和公園」にて「第66回原爆死没者慰霊祭」に参加。
9時30分に「まとめ集会」に参加後、帰路へ。
昭和20年8月6日午前8時16分にB29「エノラゲィ号」にて投下された「新型爆弾」は 多くの広島市民を犠牲にした。今も残っている「原爆ドーム」はその象徴であり、この3月11日に発生した「福島第1原発」の事故と同様に「原子力」と「ひと」は共存できないことは「立証」されたと思う。何故?原子力推進などが出来ようか。その悲惨さやあとの「処理」などを考えると原発はすべて「廃炉」にし、「原爆」や「水爆」も無くさなければならない。その気持ちがより一層強くなった。

原爆ドーム 集合写真
(写真は原爆ドームの遠景と平和記念資料館前での参加者の集合写真です。)


66原水禁(広島)大会に参加して

○ 66年前のヒロシマ、ナガサキに続いて、フクシマでも核によって人類が否定された。今年の66原水禁大会では何度も1975年の30周年記念大会での森滝市郎氏の基調講演が取り上げられた。「核と人類は共存できない、人類が核を否定するか、核が人類を否定するかよりほかない。」
○ しかし日本はとうとう今日まで「核と人類は共存できない」という「核の本質」を見ないできてしまった。福島原発事故を見せつけられてもまだ本質から目をそむけその幻影を見ている人たちもいる。「原発」は原爆と発音が似ているからと「原電」と言い換える推進派や「国の政策だから」と目をそらす人達である。松井広島市長は平和宣言のなかでそれらの人々に気をつかい、「脱原発と言えな かった」(8.7の北国新聞記事)ことを悔やんだ。
○ そんななか、私は確かな希望を見た。式典前日の8月5日、私は上関原発に反対運動を続けている瀬戸内の小さな島「祝島」への現地ツアーに参加した。そこで私は島の人々の30年来続けてきた反対運動の中に、「核と共存できない人類の本質」を見た。それは「先祖たちが今日まで自然とともに生きてきた生活を守りたい」と言って、10億円をこす漁業補償金には目もくれず、「自然じゃ食えないというけれど、この島では千年来自然でメシを食ってきた。」と、自分たちの漁場である海面埋め立てを阻止し続けている人達がいたことである。
○ 「祝島」は海を隔てた4キロメートル先に上関原発予定地を見る人口500人弱の島。2010年に「ミツバチの羽音と地球の回転」の映画の舞台になった。高齢化は同様に進んでおり、「住民が動かなくなったら(阻止は)危ない」と「自然エネルギー100%プロジェクト」を立ち上げている。
○ 「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表は、「ワーッと盛り上がってスーッと潮が引いたら危ない。原発をつぶしても、自分たちの故郷も生活もつぶれたということになったらあまりにも悔しい。」と、原発(の金)に頼らない町おこしを提起したのである。私はこの「祝島」の人たちに元気づけられた。

山根靖則県会議員

 


放射能禍は、広島、長崎、そして福島

<脱原発、語られず>
二回目の広島大会参加となります。
2011年の原水禁世界大会は特別な年にしなければならない、と「気負って」参加しました。それは、3.11福島原発事故を契機に「まとも」な原水禁運動にしなければならないと思ったからです。
日本の(軍部と政府による)侵略戦争の結果、広島、長崎の民衆は「核惨事」を被りました。21世紀のいま、政府と電力資本によって、3.11福島原発事故はひき起こされ、民衆は三度(みたび)「核惨事」を被らされることになりました。「脱」原発運動を取り組んできた者として悔しさいっぱいです。

<国策としての「安全神話」>
福島原発事故は誰がなんと言おうと、国策として推進してきた原発の事故であり、「絶対安全」を語る政府・電力資本、そしてその意を酌んだ労組の支えにより推進されてきました。その「安全神話」の現実的破綻が今回の原発事故です。
当初、民主党は原発に「慎重姿勢」を示していましたが、資本・労組の圧力に屈したのです。それゆえ、民主党政権(経済産業省、原子力安全保安院)によって引き起こされた事故なのです。

<眼前の現実を見よ!>
世界史上に残る過酷事故であるにもかかわらず、原水禁世界大会の開会式で連合南雲事務局長は、「原発の信頼を失墜させた」と他人事のように表層しか述べませんでした。まさに逃げているとしか言いようがありません。予想されたとは言え残念です。「眼前の現実を見よ!」「核と人類は共存できない」と会場で言いたかった。
(長崎大会では古賀連合会長挨拶に対して「原発はどうするんだ」という野次が飛んだそうです)

<緩慢な死を強要>
最終日の原水禁(平和フォーラム主催)まとめ集会で、福島県平和センター50名の代表発言が印象的でした。「政府・東電は、私たちに緩慢な死を強要している」と。私は大きく「そうだ」と声を上げました。ホウレンソウに始まりお茶、コウナゴ、そしてセシウム牛と放射能汚染は確実に日本全国の労働者・民衆(特に子どもたち)を長期にわたり蝕んでいきます。
チェルノブイリでは800キロ圏内の人々が同量の「内部被ばく」をしてしまっています。それは食物汚染(流通)により「平準化」されたものです。800キロ圏というと日本の東日本はすべて入ってしまいます。
放射能障害は晩発性であり、そして確実に「遺伝子」を傷つけます。この被曝を「放置」し、「線量計」も渡さず、被災民を放射能漬けにしている政府・東電に腹の底から憤りを覚えます。

<9年間、50ミリSvで白血病>
9年余りの原発労働で50ミリシーベルトの被曝をしたある労働者は白血病になり労災認定を受けました。いま、20ミリシーベルト圏内には150万人が住むといいます。深刻な事態だと思います。
そしていまも、240億ベクレル/日(以上)もの放射能を放出しているにもかかわらず、菅政権は「収束に向けて確実に進んでいる」と語り、原発再稼働のための地ならしを進めています。嘘と偽りの政治、政権延命のため「脱原発依存」を語ることは許されません。

<生涯に渡る医療・健康補償を!>
これだけの放射能被害をもたらしておきながら、政府・東京電力はいまだに「生涯に渡る補償」を口にしません。急性放射能障害についても「問題は出ていない」として語りません。青天井の医療・健康補償制度をつくる必要があります。原子力関連予算や軍事費を大幅にカットして。

<ノーモア・ヒバクシャ!>
原水禁大会に参加して本当によかったと思います。今後も「脱原発」運動を自分自身の心棒とし、核兵器廃絶、ノーモア・ヒバクシャ、ノーモア・フクシマをめざしてがんばる決意です。
一緒に参加した県教組、自治労・全国一般、北鉄労組、運輸労連、全農林、勤労協、社民党議員たちとのふれあいを大切にし、ご迷惑をかけたことをお詫びしながら報告といたします。

事務局 中村 照夫


爆心地から考える日本の今

全国一般・大同テクノ分会
二 木 敦 嗣

今回初めて原水禁大会に参加させていただきました。
正直、私はこれまで、原子爆弾が広島、長崎に落とされた悲惨な歴史があるということは、中学校の修学旅行で学んだことがある程度で、その後、日々の生活の中で少しずつ原爆の記憶もうすれ、投下された日も忘れるぐらいでした。
私は、社会人となっても、なかなかニュースに興味を持つことがなかったのですが、年を重ねるごとに関心を持ち始めました。特に、3、4年前に組合に加盟させて頂いた時からです。
組合で、労働運動以外で反原発闘争にも参加するようになり、原子力の危うさを見聞きし、3.11の震災により起きてしまった東電の人災、原子力による放射能汚染、新たなる被爆者に対し、原水禁大会ではどのように扱われるのか関心を持ち参加しました。
広島に着き、十何年ぶりに原爆ドームや資料館を見学し、中学の時には感じられなかった、現実にその時自分がそこにいたらという想像をするとゾッとしました。広島平和公園の近くでは、核廃絶の署名を多くの中高生が行っており、被爆者の体験談を路上で聞けたりと、良い意味で気軽に戦争、核兵器の恐ろしさを日常の生活で味わえる場所でした。
しばらく公園内を見学し、“核兵器廃絶2011平和ヒロシマ大会”の集会に参加しました。そこでは、被爆者からの当時の状況を細かく話して下さり、原爆により受けた被害は死傷者だけでなく、当時、たまたま体の大きな友人が目の前にいたおかげで助かった。被爆者は「何故、私は助かってしまったのか、私は友人を殺して生き残ってしまった」と今も度々自責の念を感じると語りました。
今回の大会でよく聞かれたのが「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」です。来賓の方々も多く、この3つの言葉は多く出てきましたが、「ノーモア・フクシマ」を語るのは、悲しいことに外国の来賓の方のみでした。理由は言わずともわかるでしょう。
2日目は、瀬戸内海にある大久野島に行きました。そこでは、日本が国際法上使用禁止になっている致死性の毒ガスを製造しており、日中戦争で使用しました。もちろん毒ガスは非人道兵器であり、大量殺人兵器であり、原子爆弾同様使用をしてはいけないものです。ですが、日本はそれを使用し、敗戦した時には毒ガスを隠蔽するために戦場で埋めたり、海に投げ込みました。結果、現在中国では、開発のために土地を掘り返すと毒ガスが噴出し被害が出ています。もちろん中国だけでなく、日本各地で捨てられた証言もあり、現在だけでなく未来にまで被害を出し続けるといった、日本の加害の歴史が残された島でした。
最終日、8月6日原爆が落とされた8時15分黙祷を捧げました。セミの声がとてもうるさく、66年前の悲惨な出来事を虫も訴えているように聞こえました。
昔の毒ガスに対する日本の隠蔽も、今の原発に対する隠蔽も、何も成長していないのではないか。原発に限らず、会社や普段の生活の中でも隠蔽があり、その裏では何の罪もない人々が傷ついています。原爆はもちろんですが毒ガスや原発、労働に関してもより大きな抑止力になるよう運動を強くすすめていくべきだと感じました。


被爆66周年原水爆禁止世界大会に参加して

広島には何度か訪れていましたが、原爆投下日の8月6日を含むこの時期に訪れたのは初めてで、これまで訪れていた、いつもの広島とは雰囲気が違う感覚でした。
本大会にも初めて参加で、広島市内全域の各ホテルや会議室において本大会の分科会等が開催されること、参加者の多いことに驚くとともに本大会においては、とても多くの体験をさせていただきました。
初日に原爆資料館に入館し、子供の時以来の入館で、その頃は、原爆について具体的な理解も少なく、ただ何となく怖いものだと思っていました。
今回、約20年ぶりに改めて当時の写真を見て、原爆投下後の生活等について説明を聞くことで、原爆がどれだけ非人道的な兵器であったかを再確認し、たった66年前にこんなにも恐ろしい日常があったのかと改めて思い知らされました。
そして、分科会においては被爆者の体験を聞くことが出来ました。
それまでのいつもの日常が、たった1発の原爆で多くの人の命を奪ってしまったこと、多くの人の人生を変えてしまったことについて、その他、被爆2世、3世問題についても当事者の方々から話を聞きしました。
実体験を聞くことで、原爆の恐ろしさを知り、どんな理由があろうと2度と使われてはいけない兵器であると感じました。
また、被爆2世、3世であることで差別を受け続けなければならない現実があり、さらに健康問題が常につきまとうことなど非常に根の深い問題がありました。
8月6日には、初めて平和記念式典に出席しました。
これまでテレビで見ていたものとは違い、式典に参加することで関係者の多くの思いが直接感じられるような気がしました。
本大会に参加することで、原爆とは何かということを改めて考える機会になり、知っているつもりでも、現地で聞くこと、見ることにより自分がまだ知らないことの多さを痛感し、自分の理解を深める上でも本当に貴重な経験になりました。

全農林


被爆66周年原水爆禁止世界大会(広島大会)に参加して

全日通労働組合 島田 宗典

2011年8月4日~6日の日程で「被爆66周年原水爆禁止世界大会」の広島大会に参加してきた。これまでに広島に行く機会がなく、生まれて初めての訪問である。

初日の「核兵器廃絶2011平和ヒロシマ大会」が始まるまで多少の時間があり、「広島平和記念資料館」を見学することにした。ホテルから徒歩で現地に向かう途中、原爆ドームよりも元安橋からの川の眺めの方に気をとられた。現在は観光遊覧船が行き交うのどかな光景であるが、66年前の8月6日には、原爆の熱さから水を求めて川に入り、そのまま亡くなった人々で川面が埋め尽くされたという話が脳裏に甦り、胸が締め付けられる思いがした。
その後「広島平和記念資料館」に入館したが、展示物、写真など、自分の知識や想像を遥かに超える内容に圧倒されるばかりだった。広島が投下目標都市となった経緯、日本各地で行われた模擬爆弾による投下訓練、非戦闘員への事前警告なしでの使用決定、など非常に興味深く見学した。また、原爆投下直後の市街地の模型があり、建物が爆風によりほとんど吹き飛ばされた状態は、今年3月の東日本大震災の津波被害後の街並みと酷似しており、戦慄を覚えた。
2日目の分科会では「脱原発」のものに参加。今大会のスローガンに「脱原発」や「福島」の記載がないことについて、不満が残るものとなった。福島県の参加者からは「ノーモア・フクシマと訴えないのが残念。原発は私たちの古里や希望を奪った。原爆の危険性を指摘しながら原発の放射能には構わない。それでいいのか」といった発言もあり、被災地の切実な状況がありありとわかった。

今回の参加は、原爆の恐ろしさとともに、福島第一原発の事故処理を含め、今後の被災地の復旧・復興についてあらためて考える機会となった。
「75年間草木も生えぬ」といわれた広島は、多くの人々の懸命の努力により、13年後の昭和33年に「広島復興大博覧会」を開催するなど、見事復興を遂げた。福島も同様に日本人の勤勉さ、たくましさにより、一日も早い復興を切に願うばかりだ。


原水禁世界大会 参加報告

石川県教組 西田育代

以前に仕事関係や個人的に広島を訪れることはありましたが、「8月6日の広島」を経験するは初めてでした。「8月6日」を経験することに大きな意味があると感じた3日間でした。広島全体が「8月6日」に対する深い、熱い思いでいっぱいでした。
初日到着して平和公園へと歩いて行くと、すぐにデモ行進に出会いました。全国から集まった人。たくさんの子どもたちも参加していました。原発事故があった今だからこそ、原水爆や原発反対に対する思いは強く感じられ、熱い長いデモ行進でした。平和公園に近づくにつれさまざまな場所で平和を訴えていました。地元の高校生が署名活動、また絵本の読み聞かせ、被爆ピアノの演奏、「原爆の子の像」の前では中高生の集会など。「原爆の許すまじ」、風化させないようにしっかり伝えていこうという様子が伝わってきました。
2日目は市内各地で行われている分科会に参加しました。何人もの被爆体験を聞きました。印象に残ったのは被爆2世の方と結婚された方のお話です。子、孫の世代まで健康被害があるという不安が常にあり、現実に健康被害があっても医者からは「被爆したことが直接の原因と言い切れない」と言われるなど、涙ながらに訴えていました。後世にまでこんな思いをさせてしまうなんて本当に許せない、伝えてかなければいけないと強く心に刻みました。
3日目の平和祈念式。8時15分、鐘の音が鳴り、黙祷。あの惨劇がたった66年前に自分の立っている場所で起こったかと思うと足が震えるくらいのこみ上げる思いがありました。
「8月6日の広島」を経験して、戦争を知らない世代が多くなる現代だからこそ、強く深く平和を学習し、伝えていかなければいけないと感じました。


 

66原水禁大会では何度原水禁世界大会 参加報告

北鉄労組 半田 宏志
初日は一六時三〇分から原水禁、連合、核禁会議の三団体共催「核兵器廃絶二〇一一平和ヒロシマ大会」が広島県立体育館大アリーナで約六千五百人が参加した。
開会として川野浩一原水禁議長の挨拶、続いて主催者を代表して南雲弘行連合事務局長、来賓挨拶として、湯崎英彦広島県知事、松井一美広島市長などから挨拶を受けた後、被爆者からの訴えで曽根薫前江田島市長から「自分が無傷でいられたのは、友達が自分の前に立っていたおかげであり彼を犠牲にして助かった。この史上最悪の戦争、惨事を二度と起こしてはならない」と訴えを受けた。
最後に、「原爆を許すまじ」の合唱で大会を終え、二日目は、七分科会と七つのひろば・フィールドワークが行われ、私は第六分科会の「見て、聞いて、学ぼう広島―入門編」に参加した。ビデオ「君はゲンバクを見たか」を見た後、被爆者の平井昭三氏の講演を受けた。
平井氏は、「一六才の時に被爆し、その時に父親と弟が即死した。母親はその後自殺した。自分はたまたま暑さを逃れて爆心地から離れた友達のところに行っていたためそんなに被害にあわなかった。家に戻ろうと向かったが、悲惨な状態だった。弟は跡形も無く、父親は首だけが白骨で残っていた。」と述べ、広島が日本有数の軍事都市であったこと、当時の戦況や、どのような情報が市民にもたらされていたかなどの説明を受け、「原爆と原子力発電は絶対に人類と共存できない!正しい戦争は絶対にない!悪い平和も絶対にない!」と訴え、分科会を終えた。
三日目は、午前八時から平和記念公園で広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式に参加した。投下時刻の八時一五分に平和の鐘の鳴り響く中、一分間の黙とうを捧げた。
その後、広島大会まとめ集会に参加し「核と人類は共存できない」ことを強く訴えるとする特別決議を採択し、最後に、「脱原発社会を目指し、『核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず』の非核三原則を明記した非核法を一日も早く制定し、東北アジアの非核地帯化を実現、核実験をなくし、被爆者救護法に国家補償を明記させ、世界の被爆者と連帯しよう」としたヒロシマアピールを確認し、大会を終えた。
この大会に参加して、戦争、核、放射能の恐ろしさを改めて痛感し、二度と戦争を起こしてはならない、ヒバクシャを生み出してはならないと感じた。福島での原発事故により新たにヒバクシャが生まれているということ、放射能被害が拡がっていることを国民全体で認識し、脱原発社会に向け頑張っていかなければならないと思う。

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「7・24 さよなら志賀原発」集会・パレードの報告。

「7・24 さよなら志賀原発」集会・パレード ●当日の報告●(7月24日 10:00~・金沢市中央公園) https://i-peace-ishikawa.com/dl/gougai1108.pdf

PEACE石川 No.38「7・24 さよなら志賀原発」集会・パレードの報告

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金沢地区平和センター総会

金沢地区平和センター総会

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三役・第4回運営委員会

三役・第4回運営委員会(5月11日13:00~・フレンドパーク石川)

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志賀町「志賀原発」申し入れ

志賀町「志賀原発」申し入れ (5月9日9:00~志賀町役場)


2011年5月9日
志賀町長 小泉 勝 様

      

申 入 書

 私たちがかねてより警鐘を鳴らしてきた原発震災が、3月11日に発生したマグニチュード9.0の巨大地震により、福島第一原発において現実のものとなってしまいました。巨大地震と大津波によって複数の原発で過酷事故が起きるという世界に前例のない危機的な事態は、発生からほぼ二ヵ月たった今もなお収束の兆しは全く見えません。大気中へも海へも大量の放射能が放出され続け、すでに北半球の各地で放射能が検出されFUKUSHIMAの名は全世界に知られるところとなりました。チェルノブイリ事故に匹敵する「レベル7」の過酷事故ということになっていますが、予断を許さない状況が継続していることに加え、日本の人口密度の高さを考慮すれば、放射能災害の規模とその影響はより深刻なものになるのではないかと危惧されます。福島で今なお進行中の原発震災は、北陸で暮らす私たちにとっても決して他所事、他人事ではありません。
 北陸電力は福島原発事故を踏まえて、「防潮堤の構築」や「非常用電源の確保」等の対策を発表していますが、いずれの対策も津波や電源喪失事故に対応するだけです。中越沖地震の際は柏崎刈羽原発で火災が発生して消防対策が見直され、今回の地震ではもっぱら津波と電源喪失対策がクローズアップされていますが、このような現実に起きたことの後追いだけでは、想定外の事態にはとても対応できません。
 3月11日、福島第一原発では大地震で鉄塔が倒壊し外部電源が失われ、観測された最大加速度は、4月1日になってようやく公表された暫定値によれば、2号機、3号機、5号機で新耐震設計指針のバックチェックで想定した揺れを上回っています。さらに、その後の余震では国も東京電力も「活断層ではない」として評価の対象にしなかった活断層が動いたことが報告されています。しかも、地震発生の翌日3月12日に水素爆発が起きた1号機においては、津波や電源喪失以前に地震で配管が破損し冷却材喪失事故が起きた可能性が指摘されています。観測された揺れが想定の範囲内に辛うじて収まっていた1号機において配管が破損したのであれば、耐震設計の基準地震動の想定が過小だったことになります。
 また、再循環ポンプ系配管やマークⅠ型格納容器など、かねてより耐震脆弱性が指摘されている配管や機器が相当な損傷を被ったのではないかと懸念されているにもかかわらず、その状況は明らかになっておらず、地震による被災状況の情報公開と検証が不可欠です。耐震安全性の根拠が崩れてしまった現実を、まずしっかりと認識するべきであり、小手先の「津波対策」で済ませることは許されません。
 北陸電力の耐震安全性についての立証が不十分であるとして「志賀原発2号機の運転差止め」を命じた金沢地裁判決が指摘していたようなことが、いま福島で現実に起きているのです。原発からの距離が約1kmの福浦断層が安全審査で評価対象になっていないことや、沖合いにある活断層の評価をめぐって議論があることを考慮すると、志賀原発の運転再開はとても認めることはできません。 
 百歩譲って、もし仮に耐震安全性は確保されているとしても、北陸電力が発表した計画によれば、「津波等への安全対策」がすべて講じられるまでには今後2年程度はかかる予定です。ところが北陸電力は、すでに対応した対策だけで、原子炉を再起動するための技術的課題はクリアされたとして、早期の再稼動を目論み、4月14日に開催された石川県原子力環境安全管理協議会で資料として提出された「2号機、第3回定期検査工程」にも、“6月上旬に原子炉起動試験、中旬に発電開始”と明記されています。
 しかし、全ての電源が断たれた場合に備える追加電源が設置されるのは約2年後で、現状では電源喪失時に原子炉を安定した停止状態にするには容量不足です。このままの状態で運転再開を強行することは、とうてい容認できません。
 志賀原発では、定検の際の人為ミスが原因とされる事故・トラブルが頻発しており、「北陸電力には原発を安全に運転管理する能力が、はたして十分に備わっているのか」、「これでは、たとえ地震や津波がなくても、いつどんな事故を起こすか分からない」と、地域住民だけでなく北陸電力管内の消費者らは不安を抱いてきました。現在、福島第一原発で高レベルの放射線量下における過酷な作業が長期化するに伴い全国各地から福島へ作業員の応援派遣が相次ぐ中で、被曝線量の上限を撤廃する方針が打ち出される事態になっています。福島以外の原発の保守や定期検査にあたる作業員を確保するための“当面の間の措置”という、いわば泥縄式の対応です。このように作業員の不足が心配され、とくに専門的知識をもつ技術者の確保が困難な状況下で原発の運転を強行すれば、今後はさらに人為ミスによる事故・トラブルが頻繁に発生するのではないか、ささいな事故が大事故に発展してしまうのではないかと、本当に不安です。
 原発震災が現実のものとなってしまった今でも、北陸電力の「安全性よりも経済性優先」という企業体質は、少しも変わっていません。「安全最優先」を口にしながら、実際には「早期の運転再開のためには安全対策など後回し」という北陸電力の対応は、今まで事故・トラブルが発生するたびに何度となく繰り返されてきたものです。このような北陸電力に、これ以上、原発の運転を任せてはおくのは、原発の潜在的な危険性の大きさを考えると、あまりにも危険です。
 志賀町民および周辺住民らの安全・安心を確保するため、そして、福島で起きてしまった原発震災を北陸で繰り返さぬために、下記の事項を申し入れます。 

1)志賀原発1号機、2号機ともに運転再開を認めず、廃炉にするよう北陸電力に申し入れること。 
 とくに、福島第一原発1号機~4号機と格納容器が同じマークⅠ型の1号機は、すみやかに廃炉にす
 るための措置をとるように、北陸電力に申し入れること。
2)津波などへの対策に使う予定の150億円は、省エネルギーや再生可能エネルギー利用促進のため 
 に活用するよう、北陸電力に申し入れること。
                 

ストップ!プルサーマル・北陸ネットワーク
共同代表 盛本 芳久(石川県議会議員) 
田尻  繁(富山県議会議員)
柚木  光(石川県平和運動センター代表)
堂下 健一(命のネットワーク事務局)
中垣たか子(原発震災を案じる石川県民)

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社民党県連、原水爆禁止県民会議、県平和運動センターの三者で石川県へ申し入れ

社民党県連、原水爆禁止県民会議、県平和運動センターの三者で石川県へ申し入れ(4月6日)

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福島第一原発事故の経過(3/11~3/17)

2011年3月11日
14時46分 三陸沖で、マグニチュード9.0の地震が発生
1号機、2号機、3号機が自動停止
外部電源を失う。
13基の非常用ディーゼル発電機は大津波で1基のみ稼動
15時41分 非常用ディーゼル発電機  故障停止
東京電力    第1次緊急時態勢を発令
各関係機関に原子力災害対策特別措置法第10条に基づく通報
15時45分 オイルタンクが大津波によって流出
16時36分 1号機と2号機は非常用炉心冷却装置(ECCS)による注水が不可能になる
16時45分 東京電力は同法第15条に基づく通報を行った
19時03分 枝野幸男官房長官が原子力緊急事態宣言の発令を記者会見
20時50分 福島県対策本部から1号機の半径2kmの住民1,864人に避難指示
21時23分 菅直人内閣総理大臣 1号機の半径3km以内の住民に避難命令、
半径3kmから10km圏内の住民に対し屋内待機の指示
3月12日
14時ごろ 原子力安全・保安院は1号機周辺でセシウムが検出、核燃料の
一部が溶け出た可能性があると発表
内部の圧力が上がった1号の弁を人力で開放に成功
同作業員は吐き気やだるさを訴え病院に搬送される
15時36分 1号機で爆発が発生 東京電力と協力会社の社員が数人負傷
19時55分 1号機の海水注入について内閣総理大臣が指示
21時ごろ 枝野官房長官の記者会見で水素爆発と発表
20時20分 1号機への海水注入が開始
22時15分 発生した地震により一時中断
3月13日
01時23分 中断されていた海水の注入作業を再開
02時44分 3号機で冷却装置が停止
04時15分 3号機k燃料棒が露出し始める
05時10分 東京電力 原子力災害対策特別措置法15条に基づく通報
08時41分 3号機の格納容器内の弁を開けることに成功
08時56分 放射線量が再び上昇し、制限値の0.5ミリシーベルト/時を超える
東電 特別措置法に基づく「緊急事態」を国に通報
福島県が被曝者はあわせて計22人を確認と発表
記者会見 枝野官房長官は、1号機の圧力容器は海水で満たされていると
判断と発表
09時05分 3号機の安全弁を開きく。原子炉圧力容器内部の圧力が低下
09時08分 3号機に真水の注入を開始
09時20分 3号機の格納容器の排気を開始
12時55分 3号機の燃料棒の上部1.9メートルが冷却水から露出
13時12分 3号機の原子炉に海水の注入を始める
13時52分 周辺でこれまでで最も多い1.5575ミリシーベルト/時を観測
14時42分 0.1841ミリシーベルト/時に低下した
記者会見 「爆発的なことが万一生じても、避難している周辺の皆さんに
影響を及ぼす状況は生じない」と枝野官房長官が述べる
3月14日
11時01分 3号機の建屋が爆発
作業員および自衛隊員あわせて11人が負傷
記者会見 枝野官房長官は、原子炉格納容器の堅牢性は確保されており、
放射性物質が大量に飛散している可能性は低いと発言
13時25分 それまで安定していた2号機も冷却機能を消失
その後海水注入を開始
19時45分、2号機の冷却水が大幅に減少し、燃料棒がすべて露出
原因は気がつかなかったことによる燃料切れ
20時ごろ 再び海水注入を開始し、次第に水位は回復
21時37分 福島第一原発の正門付近で3.130ミリシーベルト/時を観測
22時07分 福島第一原発の10km南で、9.6マイクロシーベルト/時を観測
3月15日
06時10分 2号機の建屋が爆発
06時ごろ 4号機で爆発音
09時30分 4号機建屋の4階部分より出火
11時ごろ 自然鎮火、出火の原因は不明
厚生労働省は、福島第一原発に限り、緊急作業に従事
する労働者の放射線量の限度を引き上げた
11時59分 国土交通省は福島第一原発の半径30km以内の上空を高度に
関わらず飛行禁止とした。
放射線量は一度安定化したものの、夜になり再度強まった
3月16日
05時45分 福島第一原発4号機で再び出火
06時15分 火は見えなくなったが、鎮火したかどうかは不明
08時37分 3号機で白煙が上がり、水蒸気が出たと推測されている
10時以降 観測される放射線量が上昇
記者会見 原子力安全・保安院は「原因は圧力抑制室が破損した2号機の
可能性が高い」と説明
21時発表 福島県災害対策本部  大きく放射能が検出された地域はなかった
3月17日
09時48分 3号機に対し、自衛隊のヘリコプター2機が計4回30トンの放水
このあと、夜にかけて、消防車や放水車で「給水」を試みるも、上手くいかなかった。

こうしてみると、「次から次に」それも「突然」起こっているのがわかる。
「1号機が爆発した?大丈夫?」と思ってテレビを見ていると、3号機が「大爆発」。そのうち、安定していると言っていた2号機が爆発。点検中で燃料も入れていない4号機がこれまた爆発。そして火災も発生。

関心をもって報道を見ていた方は、「東電・政府」への不信が募ったことだろう。海外メディアも同じように感じているという。

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三役・第3回拡大運営委員会

三役・第3回拡大運営委員会(3月7日13:00~・フレンドパーク石川)

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平和フォーラム全国活動者会議

平和フォーラム全国活動者会議(3月1~2日・静岡)

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