道徳が「教科」になったことに対抗する

上杉 聰さん(日本の戦争責任資料センター前事務局長)に聞く

うえすぎ さとし さん プロフィール
1947年岡山県生まれ。上智大学文学部哲学科卒。元大阪市立大学特任教授。『日本会議とは何か-「憲法改正」に突き進むカルト集団』、『天皇制と部落差別―権力と穢れ』など著書多数。

─今年からの道徳の「教科」化について、どのように考えていますか。
私は歴史を専門として、部落史に取り組んできましたが、2000年頃から非常に右翼的な歴史・公民教科書が育鵬社などから出され、市民団体と協力して封じ込める闘いをやってきました。
日本で「道徳」といわれるのは、他国なら宗教の占める分野です。キリスト教、イスラム教、儒教などが世界には大きな影響力を持っていて、近代的な国家から独立して存在してきたわけです。各国は、その領域は宗教にまかせ、政府が近代的な教育を行う、というのが、この200年ぐらいの国際的な動きだったと思います。しかし日本の場合、そういう宗教がなく、仏教さえも、信長以来、権力に屈服させられてきたわけです。国から独立した宗教が存在していなかったのです。
そのため、欧米と対峙しつつ近代国家を作らなければいけないというとき、諸外国の宗教に対抗しつつ、それに匹敵するものを必要とするようになった。それが天皇を神とした「国家神道」ですが、それはモラルも何もないものですから、補うものとして「修身」が作られてきた歴史があると思います。
戦後、それが否定され、「道徳」は正規の教科になってこなかったのです。その背景には復古的な勢力とリベラルな平和勢力とのせめぎあいがあり、そのまま蘇ることはなかったわけです。ところが安倍晋三首相-下村博文文科相という体制ができた時、道徳を教科とする流れが具体化し、かなり悪いほうへと進んできました。
ただ、今の行政と政治の中には、まだリベラルな存在があり、すぐさま昔へ戻るということにはならないと思います。そうした状況をふまえ、私たちの立ち位置を決め、運動をやっていくことになります。そのとき大きな目で見れば、国家から独立して存在するモラルを形成することが日本社会に求められています。これは普遍的な課題です。悪い方向に行かないためには、そうした視点から「道徳」にタガをはめていくことが必要と思います。
高校では倫理社会というのがあります。道徳とは、本来「倫理」にはいるわけです。それは哲学であったり、人間や社会に対する深い洞察であったり、何が正解であるか簡単に言えないものです。本来「道徳」は、その小中学校版で構わないわけです。長期的には小中の道徳を、高校の倫理と同じにように位置付け直すと考えてもいいと思います。ただ文科省は、すでに逆の方向から、つまり「倫理」を、これまでの修身的な道徳へと格下げする方向で進めていることには警戒が必要です。

―倫理、道徳は必要ということですが、学校現場でどのように取り扱われるべきと考えていますか。
日本社会が倫理観を持っているのか、が問われています。今のような行政(例えば森友・加計・防衛省問題など)が成り立ってしまう民度の低さの問題を、モラルの問題ととらえてもおかしくないでしょう。どんな社会でもモラルのない社会はあり得ません。そういう領域が社会の中に、あるいは個人の中に存在している。「こんなこと、僕はようしない」「それはやるべきではない」、あるいは「人間としてこれをやりたい」ということが道徳であるととらえるなら、そういう領域を否定すれば、これは世の中も人間も根本が成り立たないと思います。
本来、倫理・道徳というのは、いつも暫定的で、結論を持たないものです。悩み続けること、評価など絶対にできない人間的な側面、それを豊かに育んでいくことです。文科省が道徳教育をやり、人間の生き方としてはこうすべきです、ということを言い始めたとき、人々の生き方を削ぎ、人間を悩まないロボットにしていきます。
「手品師」という道徳の教材があります。いい仕事が入った貧しい手品師が、その公演予定日に、ある子どもに自分の手品を見せてあげようと約束をしていた。子どもを取るのか、自分の出世のチャンスを取るのか選択させる教材です。子どもたちに教科書を途中まで読ませて意見を聞くと、7割ぐらいが「対立させることはないのでは」「子どもを晴れ舞台に招待すればいい、それで楽しんでもらえば何の問題もない」と答えるそうです。ところが道徳教科書は最後に、子どもとの約束を大切にし、仕事を蹴ると結論づけます。すると、意見の比率が逆転するそうです。教師の持っている力、大人社会の圧力で、子どもたちの考え悩む領域をどんどん減らしていき、こういうものにはこういう回答をするべきという、期待する人間像を学び込んでいくとき、多くのロボットができるでしょう。とても恐ろしいことだし、人間の思想とか生き方について考える力、悩む力は貧弱になっていきます。人間の劣化の始まりを意味すると思います。そういう意味で道徳の教科化は非常に恐ろしい事と思います。
学校現場では、こうした方向への傾斜を防ぐ努力が重要な課題になると思います。

―道徳でいじめに取り組むと文科省は言いますが。
たしかにいじめの問題もモラルの問題です。日本社会には中世以来、部落差別をはじめ、よそ者を排除して良いし、それこそが「正しい」という悪しき倫理があります。では、それを禁止すれば、それで子どもたちは道徳的になるでしょうか。実は、なんでいじめるのかと聞くと、多くの子どもたちがどこかで、自ら惨めな思いをしています。そのはけ口として、いじめがあるのです。いくら「やってはいけない」と言っても、惨めに思っていたら、人をいじめて満足と優越感を得たいのです。ほとんどのいじめっ子は、心が傷ついています。
これについて考える素材は「水平社宣言」の中に出てきます。そこに「私たちは、人を尊敬することによって、自らを解放せんとする」と書いています。ようするに「差別する」の反対語は「平等」でなくて、人を「尊敬する」なのです。しかし、人を尊敬する習慣が私たちの中に存在しないのです。「人を尊敬するモラルを、もっと作りましょう。それで私たちは人間として解放されます」と道徳の中に出てくるなら、力になってくると思います。しかし今、これは人権教育の中にしかないのです。道徳の教科化は、そこで行われてきた人権教育を反対に押さえつけています。これでは解決になりません。

―道徳の教科化の中で、学校現場でできることは何でしょうか。
人権教育の側面を、どの程度教科化の中で実現できるか、という課題があります。しかし、まず授業をやらなければいけない、自分で授業研究する時間もない中で、つい教科書に従い、そのまま教えてしまうのが多くの先生方の現状だと思います。それを変えていくだけの運動を私たちが作れるか、大切な課題と思います。
道徳の目標が、考え悩むことだとするならば、悩み方を教えるのが一番いい方法かもしれません。たとえば、手品師の話では、子どもとの約束を取るか、自分の仕事を取るかという二者択一にせず、両方を満足できる方法はないかと考え悩む、そして約束した子どもを晴れ舞台に呼び、むしろどんな手品で子どもたち全体の心を温めて喜ばせるか、そんなところで考え悩む、どちらを取るかではなく、もっと大きなところで悩もう、と。
世の中には解決できない課題が一杯あるのだよ、だから先生も大人も政治家も学者も、悩みをいっぱい抱えている。みんな迷って生きている。そんなとき大人は、こういう風に悩み考えて生きていく、と先生方が見せることができたら、子どもたちは感動すると思います。その先生に従わなくてもいい。でもそれは、ものすごく勉強になるのではないでしょうか。

―現場で教える教員と一緒にウェブサイトで指導案を提示するということですが、どのようなものですか。
「人権を大切にする道徳教育研究会」、わずか十数人で作っているものですが、その悩み方の素材を作ろうということです。道徳は、倫理、哲学を含む領域なので、それに応じて考え方を深めていかないと、悪質な道徳教育に根本的には勝てないと思います。まず与えられた教材を批判しつつ利用する指導案を提示する形にしています。開設時期は6月です。 https://www.doutoku.info

―2018年夏に中学校道徳教科書採択が全国で行われますが、どのような状況でしょうか。
昨年の小学校の道徳では、「教育出版」が右翼的な牽引役を果たしました。今年の中学校の場合は「日本教科書株式会社」がその役割を中心で果たそうとしています。この教科書会社は、日本会議の八木秀次を中心にしたグループが、名前と形を変えて作りました。この教科書会社が文科省から認められるについては、非常に不明瞭なところがあります。教科書を出版する会社を文科省が認定する場合、出版の経歴を全部出させて認めてきたのです。ところがこの日本教科書株式会社は、実際には「晋遊舎」という、ヘイト本だとか児童ポルノマンガを出してきたところの子会社です。経営者の経歴を見たら認められることはないはずですが、八木秀次氏のお友達である安倍首相が背後から応援し、その関係がなければ教科書会社として認められるはずのない会社です。ぜひ国会で、マスコミで、なぜこんな教科書会社から「道徳」の教科書を出させたのか、安倍首相の責任を問う運動を作るべきと思います。この会社だけは採択しないよう芽のうちに摘んでおく必要があると思います。そして、こういう悪いところを叩くと同時に、良い教科書、教材を高く評価していく動きも作っていきたいと思います。

インタビューを終えて
他国では、宗教が道徳を担ってきた。しかし、日本にはそれがない。そのため、戦前においては、国家的宗教として「修身」がつくられ、帝国主義社会において「修身」が力を発揮した。小・中学校において授業で「道徳」を扱う時、この事実は決して忘れてはならない。そのうえで、戦後73年がたち、「教科道徳」が始まった今、この失敗をどういかしていくのか。小・中学校の先生は教材研究に悩む日々を送っていることだと思う。「道徳とは…、生きていくうえでの悩み方を教える」ことだと上杉さんは言われた。先生たちが豊かに考え、悩み…、子どもたちにそのことが伝わることが「道徳」なのではないだろうか。ぜひとも、先生たちには、使命感・責任感を持って、「道徳」教育に取り組んでいただきたい。
(北村智之)

カテゴリー: PEACE石川(機関紙), トピックス, 人権, 住民の暮らしに直結する課題, 全国・中央・北信越, 反戦・平和, 教育・歴史, 護憲・憲法改悪反対・教育・歴史, 護憲・憲法改悪反対 パーマリンク

コメントは停止中です。