たかまつまちかど交流館(3階 鶴彬資料館)

たかまつまちかど交流館3階(かほく市高松ツ-56-1)

展示中のものを撮影させてもらいました。相川欽也さん、小沢征爾さんのメッセージです。

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鶴彬公式サイトより

「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川柳を詠んだ鶴彬(つるあきら)は、石川県高松に生まれ、本名は喜多一二(きたかつじ)といいます。

「暴風と海の恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動の高まりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。

日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のゐないニュース映画で勇ましい」などの作品を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ年の享年29歳でした。出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建っており、『鶴彬を顕彰する会』もつくられています。

『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝さんはインタビューにこう語っています。「一番最後の句が胎内の動き知るころ骨がつきというものすごいことです。身ごもった赤ちゃんの胎動がわかって生まれてくる日を予告していたというのに、父親は戦死してその遺骨が届く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。日中戦争が激しくなった1938年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通して死んでいきました。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います。」

警察病院で燃え尽きた鶴彬の遺骨は、ふる里高松へ帰ることなく、兄孝雄さんの手により、岩手県盛岡市の光照寺で手厚く葬られました。

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