金沢市勤労協、塚本敏司さん 県議会議員、山根靖則さん 県平和運動センター事務局、中村照夫さん 全国一般、二木敦嗣さん 全農林 全日通、島田宗典さん 県教組、西田育代さん 北鉄労組、半田宏志さん
原水禁世界大会・広島大会 参加報告
金沢市勤労者協議会連合会
事務局長 塚本 敏司
8月4日(木) 午前9時30分集合。 JR金沢駅改札口前にて金沢からの参加者7名にて結団式」を行い、
サンダー・バードに乗車、途中、小松駅にて2名の方と合流し、新大阪にて新幹線「のぞみ」に乗り換えて一路広島へと向かい、到着後荷物をホテルに預け、総会会場である「県立体育館」にて「総会」に参加をし、「原爆」の悲惨さや「核廃絶」への思いを新たに強めました。
その後、夕食会場では「連合石川」の参加者も交えて食事。
8月5日(金) 午前8時に平和公園内の「平和資料館」に集合し、「大久野島フィールド・ワーク」参加者80数名と合流し、約1時間30分ほどバスに揺られてフェリー乗船場へ。15分程の乗船で「大久野島」に上陸。現地にて「毒ガス工場」跡地等の説明講義を約1時間聴き、昼食を終えたのち「フィールド・ワーク」として約3時間程度をかけ、「大久野島毒ガス資料館」や「旧陸軍保管庫跡地」などをめぐりました。当日、気温は36度、汗をかきながら着ていたポロシャツもベタベタにしながら約4キロの島内を説明を聞きながら周ってきました。
途中には「防空壕」を使用した「毒ガス貯蔵庫」(入口はコンクリートで閉鎖されている)や「毒ガス保管庫」などの跡地が多数あり、旧陸軍の所業が思い浮かべられた。(写真添付)
写真は旧陸軍の毒ガス保管庫跡地の内部の様子。
いずれの保管庫内への立入りは「禁止」されているが「自己責任」にて立ち入ることは可能であり、この写真も「柵」を乗り越えて立ち入り、撮影をしました。
8月6日(土) 午前7時45分 「平和公園」にて「第66回原爆死没者慰霊祭」に参加。
9時30分に「まとめ集会」に参加後、帰路へ。
昭和20年8月6日午前8時16分にB29「エノラゲィ号」にて投下された「新型爆弾」は 多くの広島市民を犠牲にした。今も残っている「原爆ドーム」はその象徴であり、この3月11日に発生した「福島第1原発」の事故と同様に「原子力」と「ひと」は共存できないことは「立証」されたと思う。何故?原子力推進などが出来ようか。その悲惨さやあとの「処理」などを考えると原発はすべて「廃炉」にし、「原爆」や「水爆」も無くさなければならない。その気持ちがより一層強くなった。
(写真は原爆ドームの遠景と平和記念資料館前での参加者の集合写真です。)
66原水禁(広島)大会に参加して
○ 66年前のヒロシマ、ナガサキに続いて、フクシマでも核によって人類が否定された。今年の66原水禁大会では何度も1975年の30周年記念大会での森滝市郎氏の基調講演が取り上げられた。「核と人類は共存できない、人類が核を否定するか、核が人類を否定するかよりほかない。」
○ しかし日本はとうとう今日まで「核と人類は共存できない」という「核の本質」を見ないできてしまった。福島原発事故を見せつけられてもまだ本質から目をそむけその幻影を見ている人たちもいる。「原発」は原爆と発音が似ているからと「原電」と言い換える推進派や「国の政策だから」と目をそらす人達である。松井広島市長は平和宣言のなかでそれらの人々に気をつかい、「脱原発と言えな かった」(8.7の北国新聞記事)ことを悔やんだ。
○ そんななか、私は確かな希望を見た。式典前日の8月5日、私は上関原発に反対運動を続けている瀬戸内の小さな島「祝島」への現地ツアーに参加した。そこで私は島の人々の30年来続けてきた反対運動の中に、「核と共存できない人類の本質」を見た。それは「先祖たちが今日まで自然とともに生きてきた生活を守りたい」と言って、10億円をこす漁業補償金には目もくれず、「自然じゃ食えないというけれど、この島では千年来自然でメシを食ってきた。」と、自分たちの漁場である海面埋め立てを阻止し続けている人達がいたことである。
○ 「祝島」は海を隔てた4キロメートル先に上関原発予定地を見る人口500人弱の島。2010年に「ミツバチの羽音と地球の回転」の映画の舞台になった。高齢化は同様に進んでおり、「住民が動かなくなったら(阻止は)危ない」と「自然エネルギー100%プロジェクト」を立ち上げている。
○ 「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表は、「ワーッと盛り上がってスーッと潮が引いたら危ない。原発をつぶしても、自分たちの故郷も生活もつぶれたということになったらあまりにも悔しい。」と、原発(の金)に頼らない町おこしを提起したのである。私はこの「祝島」の人たちに元気づけられた。
放射能禍は、広島、長崎、そして福島
<脱原発、語られず>
二回目の広島大会参加となります。
2011年の原水禁世界大会は特別な年にしなければならない、と「気負って」参加しました。それは、3.11福島原発事故を契機に「まとも」な原水禁運動にしなければならないと思ったからです。
日本の(軍部と政府による)侵略戦争の結果、広島、長崎の民衆は「核惨事」を被りました。21世紀のいま、政府と電力資本によって、3.11福島原発事故はひき起こされ、民衆は三度(みたび)「核惨事」を被らされることになりました。「脱」原発運動を取り組んできた者として悔しさいっぱいです。
<国策としての「安全神話」>
福島原発事故は誰がなんと言おうと、国策として推進してきた原発の事故であり、「絶対安全」を語る政府・電力資本、そしてその意を酌んだ労組の支えにより推進されてきました。その「安全神話」の現実的破綻が今回の原発事故です。
当初、民主党は原発に「慎重姿勢」を示していましたが、資本・労組の圧力に屈したのです。それゆえ、民主党政権(経済産業省、原子力安全保安院)によって引き起こされた事故なのです。
<眼前の現実を見よ!>
世界史上に残る過酷事故であるにもかかわらず、原水禁世界大会の開会式で連合南雲事務局長は、「原発の信頼を失墜させた」と他人事のように表層しか述べませんでした。まさに逃げているとしか言いようがありません。予想されたとは言え残念です。「眼前の現実を見よ!」「核と人類は共存できない」と会場で言いたかった。
(長崎大会では古賀連合会長挨拶に対して「原発はどうするんだ」という野次が飛んだそうです)
<緩慢な死を強要>
最終日の原水禁(平和フォーラム主催)まとめ集会で、福島県平和センター50名の代表発言が印象的でした。「政府・東電は、私たちに緩慢な死を強要している」と。私は大きく「そうだ」と声を上げました。ホウレンソウに始まりお茶、コウナゴ、そしてセシウム牛と放射能汚染は確実に日本全国の労働者・民衆(特に子どもたち)を長期にわたり蝕んでいきます。
チェルノブイリでは800キロ圏内の人々が同量の「内部被ばく」をしてしまっています。それは食物汚染(流通)により「平準化」されたものです。800キロ圏というと日本の東日本はすべて入ってしまいます。
放射能障害は晩発性であり、そして確実に「遺伝子」を傷つけます。この被曝を「放置」し、「線量計」も渡さず、被災民を放射能漬けにしている政府・東電に腹の底から憤りを覚えます。
<9年間、50ミリSvで白血病>
9年余りの原発労働で50ミリシーベルトの被曝をしたある労働者は白血病になり労災認定を受けました。いま、20ミリシーベルト圏内には150万人が住むといいます。深刻な事態だと思います。
そしていまも、240億ベクレル/日(以上)もの放射能を放出しているにもかかわらず、菅政権は「収束に向けて確実に進んでいる」と語り、原発再稼働のための地ならしを進めています。嘘と偽りの政治、政権延命のため「脱原発依存」を語ることは許されません。
<生涯に渡る医療・健康補償を!>
これだけの放射能被害をもたらしておきながら、政府・東京電力はいまだに「生涯に渡る補償」を口にしません。急性放射能障害についても「問題は出ていない」として語りません。青天井の医療・健康補償制度をつくる必要があります。原子力関連予算や軍事費を大幅にカットして。
<ノーモア・ヒバクシャ!>
原水禁大会に参加して本当によかったと思います。今後も「脱原発」運動を自分自身の心棒とし、核兵器廃絶、ノーモア・ヒバクシャ、ノーモア・フクシマをめざしてがんばる決意です。
一緒に参加した県教組、自治労・全国一般、北鉄労組、運輸労連、全農林、勤労協、社民党議員たちとのふれあいを大切にし、ご迷惑をかけたことをお詫びしながら報告といたします。
事務局 中村 照夫
爆心地から考える日本の今
全国一般・大同テクノ分会
二 木 敦 嗣
今回初めて原水禁大会に参加させていただきました。
正直、私はこれまで、原子爆弾が広島、長崎に落とされた悲惨な歴史があるということは、中学校の修学旅行で学んだことがある程度で、その後、日々の生活の中で少しずつ原爆の記憶もうすれ、投下された日も忘れるぐらいでした。
私は、社会人となっても、なかなかニュースに興味を持つことがなかったのですが、年を重ねるごとに関心を持ち始めました。特に、3、4年前に組合に加盟させて頂いた時からです。
組合で、労働運動以外で反原発闘争にも参加するようになり、原子力の危うさを見聞きし、3.11の震災により起きてしまった東電の人災、原子力による放射能汚染、新たなる被爆者に対し、原水禁大会ではどのように扱われるのか関心を持ち参加しました。
広島に着き、十何年ぶりに原爆ドームや資料館を見学し、中学の時には感じられなかった、現実にその時自分がそこにいたらという想像をするとゾッとしました。広島平和公園の近くでは、核廃絶の署名を多くの中高生が行っており、被爆者の体験談を路上で聞けたりと、良い意味で気軽に戦争、核兵器の恐ろしさを日常の生活で味わえる場所でした。
しばらく公園内を見学し、“核兵器廃絶2011平和ヒロシマ大会”の集会に参加しました。そこでは、被爆者からの当時の状況を細かく話して下さり、原爆により受けた被害は死傷者だけでなく、当時、たまたま体の大きな友人が目の前にいたおかげで助かった。被爆者は「何故、私は助かってしまったのか、私は友人を殺して生き残ってしまった」と今も度々自責の念を感じると語りました。
今回の大会でよく聞かれたのが「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」です。来賓の方々も多く、この3つの言葉は多く出てきましたが、「ノーモア・フクシマ」を語るのは、悲しいことに外国の来賓の方のみでした。理由は言わずともわかるでしょう。
2日目は、瀬戸内海にある大久野島に行きました。そこでは、日本が国際法上使用禁止になっている致死性の毒ガスを製造しており、日中戦争で使用しました。もちろん毒ガスは非人道兵器であり、大量殺人兵器であり、原子爆弾同様使用をしてはいけないものです。ですが、日本はそれを使用し、敗戦した時には毒ガスを隠蔽するために戦場で埋めたり、海に投げ込みました。結果、現在中国では、開発のために土地を掘り返すと毒ガスが噴出し被害が出ています。もちろん中国だけでなく、日本各地で捨てられた証言もあり、現在だけでなく未来にまで被害を出し続けるといった、日本の加害の歴史が残された島でした。
最終日、8月6日原爆が落とされた8時15分黙祷を捧げました。セミの声がとてもうるさく、66年前の悲惨な出来事を虫も訴えているように聞こえました。
昔の毒ガスに対する日本の隠蔽も、今の原発に対する隠蔽も、何も成長していないのではないか。原発に限らず、会社や普段の生活の中でも隠蔽があり、その裏では何の罪もない人々が傷ついています。原爆はもちろんですが毒ガスや原発、労働に関してもより大きな抑止力になるよう運動を強くすすめていくべきだと感じました。
被爆66周年原水爆禁止世界大会に参加して
広島には何度か訪れていましたが、原爆投下日の8月6日を含むこの時期に訪れたのは初めてで、これまで訪れていた、いつもの広島とは雰囲気が違う感覚でした。
本大会にも初めて参加で、広島市内全域の各ホテルや会議室において本大会の分科会等が開催されること、参加者の多いことに驚くとともに本大会においては、とても多くの体験をさせていただきました。
初日に原爆資料館に入館し、子供の時以来の入館で、その頃は、原爆について具体的な理解も少なく、ただ何となく怖いものだと思っていました。
今回、約20年ぶりに改めて当時の写真を見て、原爆投下後の生活等について説明を聞くことで、原爆がどれだけ非人道的な兵器であったかを再確認し、たった66年前にこんなにも恐ろしい日常があったのかと改めて思い知らされました。
そして、分科会においては被爆者の体験を聞くことが出来ました。
それまでのいつもの日常が、たった1発の原爆で多くの人の命を奪ってしまったこと、多くの人の人生を変えてしまったことについて、その他、被爆2世、3世問題についても当事者の方々から話を聞きしました。
実体験を聞くことで、原爆の恐ろしさを知り、どんな理由があろうと2度と使われてはいけない兵器であると感じました。
また、被爆2世、3世であることで差別を受け続けなければならない現実があり、さらに健康問題が常につきまとうことなど非常に根の深い問題がありました。
8月6日には、初めて平和記念式典に出席しました。
これまでテレビで見ていたものとは違い、式典に参加することで関係者の多くの思いが直接感じられるような気がしました。
本大会に参加することで、原爆とは何かということを改めて考える機会になり、知っているつもりでも、現地で聞くこと、見ることにより自分がまだ知らないことの多さを痛感し、自分の理解を深める上でも本当に貴重な経験になりました。
全農林
被爆66周年原水爆禁止世界大会(広島大会)に参加して
全日通労働組合 島田 宗典
2011年8月4日~6日の日程で「被爆66周年原水爆禁止世界大会」の広島大会に参加してきた。これまでに広島に行く機会がなく、生まれて初めての訪問である。
初日の「核兵器廃絶2011平和ヒロシマ大会」が始まるまで多少の時間があり、「広島平和記念資料館」を見学することにした。ホテルから徒歩で現地に向かう途中、原爆ドームよりも元安橋からの川の眺めの方に気をとられた。現在は観光遊覧船が行き交うのどかな光景であるが、66年前の8月6日には、原爆の熱さから水を求めて川に入り、そのまま亡くなった人々で川面が埋め尽くされたという話が脳裏に甦り、胸が締め付けられる思いがした。
その後「広島平和記念資料館」に入館したが、展示物、写真など、自分の知識や想像を遥かに超える内容に圧倒されるばかりだった。広島が投下目標都市となった経緯、日本各地で行われた模擬爆弾による投下訓練、非戦闘員への事前警告なしでの使用決定、など非常に興味深く見学した。また、原爆投下直後の市街地の模型があり、建物が爆風によりほとんど吹き飛ばされた状態は、今年3月の東日本大震災の津波被害後の街並みと酷似しており、戦慄を覚えた。
2日目の分科会では「脱原発」のものに参加。今大会のスローガンに「脱原発」や「福島」の記載がないことについて、不満が残るものとなった。福島県の参加者からは「ノーモア・フクシマと訴えないのが残念。原発は私たちの古里や希望を奪った。原爆の危険性を指摘しながら原発の放射能には構わない。それでいいのか」といった発言もあり、被災地の切実な状況がありありとわかった。
今回の参加は、原爆の恐ろしさとともに、福島第一原発の事故処理を含め、今後の被災地の復旧・復興についてあらためて考える機会となった。
「75年間草木も生えぬ」といわれた広島は、多くの人々の懸命の努力により、13年後の昭和33年に「広島復興大博覧会」を開催するなど、見事復興を遂げた。福島も同様に日本人の勤勉さ、たくましさにより、一日も早い復興を切に願うばかりだ。
原水禁世界大会 参加報告
石川県教組 西田育代
以前に仕事関係や個人的に広島を訪れることはありましたが、「8月6日の広島」を経験するは初めてでした。「8月6日」を経験することに大きな意味があると感じた3日間でした。広島全体が「8月6日」に対する深い、熱い思いでいっぱいでした。
初日到着して平和公園へと歩いて行くと、すぐにデモ行進に出会いました。全国から集まった人。たくさんの子どもたちも参加していました。原発事故があった今だからこそ、原水爆や原発反対に対する思いは強く感じられ、熱い長いデモ行進でした。平和公園に近づくにつれさまざまな場所で平和を訴えていました。地元の高校生が署名活動、また絵本の読み聞かせ、被爆ピアノの演奏、「原爆の子の像」の前では中高生の集会など。「原爆の許すまじ」、風化させないようにしっかり伝えていこうという様子が伝わってきました。
2日目は市内各地で行われている分科会に参加しました。何人もの被爆体験を聞きました。印象に残ったのは被爆2世の方と結婚された方のお話です。子、孫の世代まで健康被害があるという不安が常にあり、現実に健康被害があっても医者からは「被爆したことが直接の原因と言い切れない」と言われるなど、涙ながらに訴えていました。後世にまでこんな思いをさせてしまうなんて本当に許せない、伝えてかなければいけないと強く心に刻みました。
3日目の平和祈念式。8時15分、鐘の音が鳴り、黙祷。あの惨劇がたった66年前に自分の立っている場所で起こったかと思うと足が震えるくらいのこみ上げる思いがありました。
「8月6日の広島」を経験して、戦争を知らない世代が多くなる現代だからこそ、強く深く平和を学習し、伝えていかなければいけないと感じました。
66原水禁大会では何度原水禁世界大会 参加報告
北鉄労組 半田 宏志
初日は一六時三〇分から原水禁、連合、核禁会議の三団体共催「核兵器廃絶二〇一一平和ヒロシマ大会」が広島県立体育館大アリーナで約六千五百人が参加した。
開会として川野浩一原水禁議長の挨拶、続いて主催者を代表して南雲弘行連合事務局長、来賓挨拶として、湯崎英彦広島県知事、松井一美広島市長などから挨拶を受けた後、被爆者からの訴えで曽根薫前江田島市長から「自分が無傷でいられたのは、友達が自分の前に立っていたおかげであり彼を犠牲にして助かった。この史上最悪の戦争、惨事を二度と起こしてはならない」と訴えを受けた。
最後に、「原爆を許すまじ」の合唱で大会を終え、二日目は、七分科会と七つのひろば・フィールドワークが行われ、私は第六分科会の「見て、聞いて、学ぼう広島―入門編」に参加した。ビデオ「君はゲンバクを見たか」を見た後、被爆者の平井昭三氏の講演を受けた。
平井氏は、「一六才の時に被爆し、その時に父親と弟が即死した。母親はその後自殺した。自分はたまたま暑さを逃れて爆心地から離れた友達のところに行っていたためそんなに被害にあわなかった。家に戻ろうと向かったが、悲惨な状態だった。弟は跡形も無く、父親は首だけが白骨で残っていた。」と述べ、広島が日本有数の軍事都市であったこと、当時の戦況や、どのような情報が市民にもたらされていたかなどの説明を受け、「原爆と原子力発電は絶対に人類と共存できない!正しい戦争は絶対にない!悪い平和も絶対にない!」と訴え、分科会を終えた。
三日目は、午前八時から平和記念公園で広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式に参加した。投下時刻の八時一五分に平和の鐘の鳴り響く中、一分間の黙とうを捧げた。
その後、広島大会まとめ集会に参加し「核と人類は共存できない」ことを強く訴えるとする特別決議を採択し、最後に、「脱原発社会を目指し、『核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず』の非核三原則を明記した非核法を一日も早く制定し、東北アジアの非核地帯化を実現、核実験をなくし、被爆者救護法に国家補償を明記させ、世界の被爆者と連帯しよう」としたヒロシマアピールを確認し、大会を終えた。
この大会に参加して、戦争、核、放射能の恐ろしさを改めて痛感し、二度と戦争を起こしてはならない、ヒバクシャを生み出してはならないと感じた。福島での原発事故により新たにヒバクシャが生まれているということ、放射能被害が拡がっていることを国民全体で認識し、脱原発社会に向け頑張っていかなければならないと思う。