口頭弁論 能登半島地震のすごさ、まさか志賀原発が放射能漏れ?という恐怖感

 2025年2月10日午後2時から金沢地裁205号法廷で行われた「志賀原発を廃炉に!」訴訟第44回口頭弁論は、七尾市田鶴浜町に在住し、数々の「志賀原発建設」に反対する運動(特に「なまこの会」を設立して署名運動などを展開し、当時で12万筆を達成した。)を実践されてきました。そんな彼女を、2024年元日、能登半島地震が直撃し、その後避難先を転々とされ、現在、七尾市の仮設住宅で避難生活をされている笹川榮子さんが、「原発震災」の怖さを陳述されました。

地震のすごさ、志賀原発への心配、放射能漏れを起こしていないかという恐怖感など、真実の重さがあります。以下、全文を掲載いたします。

意 見 陳 述 書

  私は志賀原発から15キロ圏内の七尾市田鶴浜町に住んでいます。

1967年、北陸電力が志賀町に原子力発電所建設計画を公表した時、とんでもないものが家の近くに建設されることに、私は大きな不安を感じました。その後、スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故と大きな原発事故が起き、これは「ただ不安を感じているだけでは駄目だ。声を挙げなくちゃ」と強く思い、七尾市近辺に住む友人たちと「なまこの会」を結成し、北陸電力と石川県に建設中止の署名を提出する計画を立てました。署名が集まる前に第二次公開ヒアリングが強行され、本格着工へと向かう動きが強まったため、まず北陸電力と石川県知事に建設中止の申し入れをしました。1988年2月、37年前のことです。そしてこの年の10月26日には、集まった約12万筆の署名を北陸電力の谷正雄社長と石川県の中西陽一知事に提出しました。

しかし、そのわずか1か月後の12月1日に1号機は本格着工され、5年後の1993年には運転を開始しました。

この3月11日で福島原発事故から14年、4月26日が来るとチェルノブイリ原発事故から39年になります。元日に起きた能登半島地震では、福島やチェルノブイリの惨状が生々しく蘇りました。もし志賀原発を運転していたらと思うと恐怖でしかありません。

昨年の元日、地震が起きた16時10分は、どの家庭でもおせち料理を並べて子供や孫たちの帰省を楽しみに待つ時間帯でした。拙宅でも特上すき焼き肉を持参した長男家族が「ただい ま」と、玄関から茶の間へ上がろうとした瞬間でした。見上げた茶の間の天井が直ぐにでも崩れ落ちそうに感じて、私は台所に置いた携帯電話を持つ余裕もなく外へ飛び出ました。次の日、携帯を取りに戻ったら、どこに転げ落ちたのか、どれだけ探しても見つけることができませんでした。テーブルに並べたおせち料理も特上肉も、茶の間一杯に散乱していました。新しく手にした携帯のメールをチェックしたら、親戚、友人、知人たちから「あなたにどれだけ電話を入れても出ないから、万が一のことも想像して心配している」という着信履歴が何本も残っていました。

地震発生時、七尾市の防災無線第一報は津波警報でした。東日本大震災の大津波を思い起こし、私は死に物狂いで高台にある近くの田鶴浜高校への坂道を駆け上がりました。高校の体育館で段 ボールを敷き、8日間寝起きしました。お手洗いは、予備室で段ボールに袋を掛けて用を足しました。水が出ないので、避難している男性は毎朝ポリタンクに水を汲みに行くのが日課でした。思い返せば、市役所が仕事始めの昨年1月5日朝、罹災証明の申請のために国道249号線を通ると、道路は至る所亀裂・陥没続きで、通常15分で行ける距離なのに1時間以上かかりました。市役所の入り口は被災した市民が長蛇の列をなし、帰宅したのは昼をかなり回っていました。

拙宅も半壊の被害を受けて住める状態ではなかったので、昨年1月9日から2月一杯は富山市のホテルへ避難、3月一杯は友人の空き家にお世話になりと、住まいを二転三転せざるをえませんでした。雪景色の立山連峰を眺めるのが唯一の慰めでした。3月末に自宅に近い七尾市の仮設住宅に入居でき、現在に至っています。

地震が起きた時、不幸中の幸いで志賀原発1、2号機は運転していなかったものの、燃料プールには使用済み核燃料がありました。志賀原発の敷地内は震度5強、399ガルと北陸電力の想定する揺れを下回ったものの、変圧器は故障して外部電源が一時途絶え、現在も1系統2回線が使えない状態です。1号機燃料プールの冷却ポンプは一時停止しました。1、2号機共に燃料プールの水が飛散しています。もし冷却されなかったら、福島第一原発事故と同じメルトダウンもあり得たことを想像すると、背筋が凍りつく思いです。

七尾市は、国の原子力災害対策指針を踏まえ、原子力災害発生時の避難計画を策定しています。志賀原発から5~30キロ圏内のUPZに該当する拙宅は、志賀原発が重大事故を起こし全面緊急事態になったら、屋内退避の指示が出ることになっています。今回は津波警報もあり 私は高校の体育館へと避難しましたが、仮に自宅で屋内退避を開始したとしても、停電・断水が続く中、どれだけ屋内退避を続けられたでしょうか。エアコンは使えず、ファンヒーターも灯油が切れても買いに行くことができません。食料もまもなく尽きるでしょう。半壊の自宅に閉じこもり放射能を浴び続けるということは、”座して死を待つ”ということです。

高校の体育館にも放射線防護機能はありませんから、外部被ばく、内部被ばくを防ぐ機能はありません。放射能の恐怖の中で避難生活を続けることになります。

屋内退避の指示を無視して、我先にと避難する人も当然いるでしょう。だけど到底スムーズに避難出来たとは思えません。志賀原発から北側に位置する七尾市中島町や穴水町の住民は能登町や珠洲市方面へ避難することになっていますが、避難所は地域の住民や帰省客でいっぱいで、とても地域外からの住民を受け入れられる状態ではありませんでした。道路の通行止めも多く、たどり着くこともできません。志賀原発に近づくことになりますが、金沢方向へ避難しようとする人も多くいたでしょう。だけど里山海道は通れません。南へ向かい、拙宅の近くを走る国道249号線は道路状態も悪い中、金沢方面へ逃げようとする車両で大渋滞ではないでしょうか。果たして無事避難できるのか、途中で後ろから放射能が流れてくるのではないかという恐怖の中、渋滞の車列の中でハンドルを握り続けていたかもしれません。

避難計画は私たちを守れません。毎年行われてきた原子力防災訓練も役に立たないことがはっきりしました。昨年の地震直後の経験、そして周囲の被災状況を見て私は確信します。

志賀原発の情報が全く入らなかったことも、かえって疑心暗鬼を募らせました。今回も先ほど述べたように様々なトラブルが発生しましたが、それを知ったのは避難生活が落ち着いた頃でした。事故直後は停電でテレビも見られず、スマホも手元に無く、もしあっても電波が途絶えた地区も多かったと聞きます。北陸電力からの情報提供はなく、自治体からの情報も届きません。原子力災害が起こっていたら、屋内退避や避難指示すら届いていたか不安になります。

昨年8月3日付の北陸中日新聞朝刊で、能登半島北岸には潜在的に大きな地震を起こす断層がたくさんあるという記事を読みました。金沢大学の平松良浩教授は周辺の活断層が動きやすくなっているリスクを指摘し、「輪島市門前町や羽咋市の西側にある断層が影響を受け、地震発生の可能性が以前より高まったことには注意が必要。正しく認識し、普段から備えが必要」と述べられています。つい10日ほど前の先月29日にも穴水町を中心に最大震度3を記録する地震が起きたところです。

地震への備えは一にも二にも、三にも志賀原子力発電所を運転させないことではないでしょうか。

脳裏に刻まれている昨年1月5日の国道249号線の有様を思い起こし、こともあろうに活断層に囲まれ、事故時には確実な避難も不可能な志賀原発の再稼働は撤回する以外の選択肢はないことをと強く訴え、私の意見陳述とさせていただきます。

カテゴリー: PEACE石川(機関紙), トピックス, 人権, 住民の暮らしに直結する課題, 全国・中央・北信越, 友誼団体, 反戦・平和, 反核・脱原発, 志賀原発, 環境(原水禁、核燃、放射能・食品汚染), 脱原発・核燃 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です