NO.3 2002年9月発行
〒920-0024石川県金沢市西念3-3-5
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「大東亜聖戦大碑」の撤去を求め、戦争の美化を許さない会
撤去を求めて、「第2回全国集会」を開催!
聖戦大碑撤去の会は8月4日、金沢市の教育会館で「『大東亜聖戦大碑』の撤去を求める第2回全国集会」を開催し、大碑の撤去に向けて粘り強く行動していくことを確認した。
集会には一般市民も含め、約150人が参加。はじめに鶴園裕共同代表が、「今年で2回目となる全国集会だが、どうもこれからは広島や長崎のように、毎年8月のはじめに集会を開かねばならないようだ。戦争のできる国づくりというこの間の動きによって、『時代錯誤』としか言いようのない大東亜聖戦大碑が、今や『時代の象徴』になってしまった感もあるが、社会の先行きに対する危機感をお互いにしっかりと持ちながら、これからも声をあげ続けていこう」と挨拶。続いて、戦後補償問題などに取り組む各地の運動体から取り組み報告が行なわれるとともに、元長崎市長の本島等さんが「歴史と向き合って生きるということ」と題して記念講演し、「戦争を止めることができなかった国民にも責任がある。私は贖罪として戦争の歴史を語り伝えていきたい」などと述べ、戦争の歴史を語り継ぐ大切さを訴えた。
*それぞれの内容については次頁以降をご参照下さい。
撤去の会公式ホームページ
http://www.ishikawa-heiwa-center.gr.jp/
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「歴史と向き合って生きるということ」
本島 等(元長崎市長)
「昭和天皇の戦争責任」
昭和天皇は自分の戦争責任について、自分なりの考えを持っていただろうと私は考えています。
ある人が、明治憲法下では国民は奴隷であったが、新しい憲法の下では主権者になったということを言っていますが、私もまさにその通りだと思います。
1995年の3月15日、つまり戦争が終わって50年目の年ですが、私は外国特派員協会の講演で、ドイツのホロコーストと原爆投下は世界の二大犯罪だと訴えました。翌16日にはアメリカの多くの新聞が私の発言を批判する記事を一斉に掲せ、ワシントンポストなんかは私を顔写真入りで掲載し、「長崎市長が大変なことを言った」「これでアメリカと日本の間に大変な緊張状態が生じるであろう」と書いたわけです。
その発言から5~6年たった頃、今度は逆に「原爆投下は仕方がなかった」と発言したら、実に30を超える国内の新聞がその発言を取り上げました。まぁ、どちらが正しいかということをこれから申し上げるわけですが、確かにアメリカにおいて、ホロコーストと原爆投下が同じだということになれば、それこそヒットラーとトルーマンが同じという結論になってしまうわけで、それは確かに言い過ぎではないかという考え方もあります。
ところで、戦争が終わってアメリカ軍が日本から撤退した時に、昭和天皇が新聞記者に対して「広島と長崎に原爆が投下されたが、戦争中だから仕方がなかった」と発言し、その後には「国民の付和雷同性が戦争の防止を妨げた」とも発言しています。
いわゆる国民が騒いだから戦争が起こってしまったのだという責任転嫁の論理ですが、私がかつて昭和天皇に戦争責任があると言ったのは、例えば、なだしおという潜水艦が事故を起こした責任をとって、時の防衛庁長官が辞任したという出来事がありましたが、まさにそれこそが責任のとり方というものである以上、やはり当時の状況からして昭和天皇の戦争責任は大いにあったと今も考えているわけです。
「犬死は日本人全体の責任」
アジア太平洋戦争では実に310万人の日本人が亡くなりました。その310万人
のうち、80万人が内地で亡くなり、残りの230万人は外地で亡くなったといわれていますが、私が残念に思うのは内地の80万人というのはいずれも何の罪もない一
般人、つまり東京大空襲や沖縄戦、そして広島・長崎の原爆投下による被害者であったと いう事実です。
また、外地で亡くなった230万人のうち、120万人程度は餓死か栄養失調が原因で亡くなったと私は考えておりますが、この件に関しては最近、一橋大学の藤原先生がその数は150万人にのぼるということを著書に書いておられます。230万のうちの150万、つまり過半数を大きく上回る人々が餓死か栄養失調というわけです。
皆さんもご承知のとおり、戦争の終盤においては現地調達が基本でした。現地調達というと聞こえがいいわけですが、要するに略奪であります。そういう状況の中で、結果として餓死者が続発することになったということです。
いわゆる「犬死」という言葉がありますが、まさにその言葉どおりだろうと私は考えています。私も軍隊経験がありますが、軍人たちはそれこそ親も兄弟も誰も知らないうちに九州のどこかから船に乗って、五島沖や台湾沖で撃沈されるわけです。何の手柄もたてないうちに死んでしまうわけですから、犬死といえば確かに犬死です。私はこうした人たちを含めて、やはり日本人全体として外に向かっては戦争責任があったと思うところでして、例えば家永三郎さんが書いた戦争責任に関する著書を読んでも、「すべての国民に責任があった」、「戦争協力、つまり戦争を止めることができなかったという意味で責任がある」と書いています。
ご承知のとおり、長崎は原爆の被害を被ったわけですが、実は大橋という所に兵器工場があり、そこでは日本で作られる魚雷の実に8割を生産していました。そして、その工場で作られた魚雷が実際に真珠湾攻撃などで使用されたわけですから、やはり外に向かって戦争責任があり、日本人全体でその責任を負う必要があると私は考えています。
「靖国神社の虚構性」
そもそも、先の戦争を表現する時、やはり「侵略」という言葉以外に事実を描写できる言葉は見当たりません。先ほども申し上げたように、内地においては本当に悲惨な状況、例えば親子が離れ離れになる中で自分の肉親なんかが次々と死んでいったわけですが、こうした事に対する当時の権力者の責任は非常に大きいと思います。
話は変わりますが、例えば空襲で亡くなった方々の死は、原爆で亡くなった方々の死ほど残酷なものではないというようなことを言う方がおいでます。しかし、残酷の究極さという点からすれば、原爆による死だけが特別な死であるということにはならないと私は考えています。
先の戦争では、「決して降伏してはならない」という厳しい戒めのもとで、それこそ数万人単位にのぼる軍人が玉砕しましたが、やはり私たちは何らかの方法でこうした人々を癒す必要があると思います。そういう意味では、敵、見方の区別なく一緒に名前を刻んだ沖縄の平和の礎なんかが一つの参考になると思いますが、同時にこうして亡くなられた人たちが、そう簡単に、その心が靖国神社に馴染むとは到底考えられないわけです。完全に見殺しにされた人々、犬死して何十年もほったらかしにされた人たちが、単に靖国神社に祭ってやるよと言われただけで本当に納得するのでしょうか。
もちろん、お参りすることも大切ですが、今の靖国神社というのはそうした人たちを見殺しにする格好になっているのではないかと感じています。
「歴史と向き合うことの大切さ」
近頃、先の戦争は日本が正しかったのかアメリカが正しかったのかよくわからないというような事を言う人がいますが、誰が何と言おうと日本が悪かったんですよ。日清戦争と日露戦争、そして太平洋戦争の違いを見ればわかることですが、端的に言って、日清・日露戦争ではあくまでも国際法の枠内で戦うことがその前提となっていましたが、太平洋戦争ではその枠を取っ払った形で様々な事が行なわれたわけです。そして、誰もそのことを否定できない現実においては、日本が悪かったのだと言わざるを得ません。
もう一つ、韓国、朝鮮の問題について最後にお話したいと思います。日本は韓国や朝鮮に良いことをしてやったのだと言われる方がいますが、それは全くの間違いです。歴史をひもといてみれば一目瞭然ですが、強制的に土地を没収する、朝鮮神宮を作ってこれを拝ませる、また、創始改名ということで名前を変えさせ、学校では朝鮮語の禁止。そしてあげくの果てには従軍慰安婦の問題等々です。
私はすでに80歳を超えましたが、私の時代に十分な贖罪をすることができなかったという反省に立って、多少無責任かも知
れないが、これからの皆さんに是非ともお願いしておかなくてはならない。今の私にできることは、せめてそうした歴史の事実を一人でも多くの人に伝えることくらいしかないわけです。
今の世の中というのは、なんとなくそうした過去の歴史というものを忘れがちですが、やはりそうした歴史としっかりと向き合いながら、自分の子や孫に語り伝えることが最も大切であるということを申し上げ私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。
本島さんの略歴
1922年 長崎県五島に生まれる
49年 京都大学工学部卒業
高校教員、短大教員を経て、
長崎県議会議員を5期20年、長崎市長を4期16年務める。
88年 12月、天皇にも戦争責任があると発言し、右翼に銃撃される。
その後も信念を曲げず、「被爆地ナガサキ・ヒロシマよおごるなかれ」と、
日本の侵略戦争について様々な場で論及を続け、
反戦平和運動に生涯をかけて今日に至る。
関係著書 「私たちは戦争が好きだった」(朝日文庫)、
「長崎市長への7300通の手紙」(径書房)他
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「大東亜聖戦大碑」は芸術的価値の全くない巨大な看板
~本島さんの「手記」を護持会と護国神社に送付~
本島さんは金沢滞在中に、自分の思いを訴える手記を執筆。全国集会参加者に配布したほか、
集会アピールとして採択した「撤去申し入れ書」とともに、大東亜聖戦大碑護持会ならびに
石川護国神社宛に送付したが、今のところ双方からの具体的な反応はない。
皆さんの言われているのは、戦争への道ひた走りの印象を受けますが、ロシアのトルストイとならぶノーベル賞作家ソルジェニーツィンの「収容所」の一説を読んで下さい。
「祝福に値するのは戦争における勝利ではなく、敗北なのである。勝利は政府にとって必要なものだが、敗北は国民にとって必要なのである。勝利のあとにはまた勝利が欲しくなるが、敗北のあとには自由が欲しくなる。そして一般的にそれは獲得されるものである。
敗北は国民の内面生活を深めて、精神的に向上させるからである。ポルタワの戦い(ロシアとスウェーデンの戦い)における勝利は、ロシアにとって不幸であった。その勝利は200年にわたる大きな緊張と破壊と不自由さをもたらし、多数の新しい戦争の原因となった。一方、ポルタワの戦いにおける敗北は、スウェーデンにとって救いとなった。戦争をする意欲を失ったスウェーデン人たちは、ヨーロッパで最も繁栄した最も自由な国民となった。」
われわれは、古里を市民みんなで楽園にしたいと思っています。
われわれにとって、あの碑は全く迷惑です。あの碑を見ると体がふるえます。あの碑を建てた人たちと私たちは、日本の将来についての考え方が全く違うんです。
私たちは、旅行したり、出張したりして留守にすることはありますが、一年のうち、そんな日は50日もありません。一年365日のうち、ほとんどの日数は古里に住み、そして死んでゆくのです。
われわれは、公園を作ったり、下水道を作ったりしますが、一番大切なことは古里における人間関係です。心静かに、おだやかに、ゆずりあって生活するのが人生最大の幸せです。
他人に迷惑をかけて生きてゆくことは正常なことではありません。自分を主張して、他人の主張を聞かないのは自我独尊で、慎まなければなりません。あの碑は私どもにとって迷惑なものです。
皆さんにお尋ねしたい。戦争のあった昔に帰ることを望みますか。望まなければ、碑をとりはずして下さい。
あの碑はお年寄りの下手な字で書いた、芸術的価値の全くない巨大な看板みたいなもので、観光にも役立ちません。こどもの教育にはマイナスです。あの碑を見て愛国心がわくことはありません。他所の市や町にもこんな大がかりなものはありません。よその人たちは「時代遅れ」だと笑っているでしょう。
よく考えて、市民が迷惑がっている看板ははずして下さい。
本島 等
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今こそ全国連帯の構築を!
各地・各運動体からの取り組み報告
菱木 政晴さん(小泉首相靖国公式参拝違憲アジア訴訟団事務局長)
私たちの訴訟は政教分離裁判だが、本質は国家と靖国神社との癒着を追及するものだ。何のために癒着するのかといえば、国のために死ぬことを、そして国のために殺し、殺されることを国民に納得させるためである。
戦没者に敬意と感謝を捧げるために靖国に行くのだと小泉は言うが、死んだ人に「ありがとうございました」というのは、そのあとに「今後ともよろしく」という言葉が隠されている。「私があなたを殺さないのは、あなたに殺されたくないからです」という関係である限り、戦争は起きない。戦争とは社会的に殺すこと、殺されることを納得させるシステムのことだ。
小泉は、「宗教に関係しない、みんなが納得する国立の施設をつくる」と言ったが、その新しい施設の前で「今日の繁栄は戦没者のおかげであり、感謝を捧げる」と言えば、それこそ靖国と何も変わらないことになる。これを止めることが、戦争美化を許さない皆さんと私たち訴訟団の共通の願いだと思っている。
横見 幸憲さん(岡山県日中友好協会青年委員会)
私は96年から南京大虐殺の幸存者を日本に呼ぶ運動を始めた。この碑に関する建立募金も96年にはじまったと聞いているが、実はこの年の岡山県議会に、従軍慰安婦等の記述を削除せよという意見書が提出され、県を二分する論争が起きた。
97年に具体的な陳情合戦がはじまり、こちら側の陳情が採択されたということでホッ
としていたら、翌年には向こう側の陳情が採択され、結果としてこの流れが昨年の歴史教科書問題につながることとなった。
一つの運動を続けていくのは大変なことだが、一つの問題は決してそれだけではなくてあらゆる問題にリンクしているものである。そうである以上、これからも全国の仲間と連絡を取り合って、ともに闘いを進めていきたいと思う。
李 鎮哲さん(不二越強制連行訴訟呼びかけ人共同代表)
不二越は富山にあり、私は福井に住んでいる。私に声がかかったのは、これから訴訟をする韓国人と同じ韓国人(在日)だからであろう。
不二越は、敗戦までに男女合わせて約1,600名の韓国人を連れてきて強制労働させ、その賃金を支払わなかった。昨年、7名が和解したが、残りの人が第2次訴訟を起こそうとしている。
騙して連れてきて、賃金すら払わない。そしてそれを支払わせるのに裁判までしなければならないというのは、法律以前のそれこそ人間性の問題だ。どうしてこんな人間ができあがったかというと、すべて侵略に対する反省がいまだになされていないことに起因すると私は考えている。
嶋田千恵子さん(在日外国人の参政権を考える会)
国籍条項というものがあることを知っていますか。日本国籍がないと、地方公務員の採用試験が受けられないのです。
ある人が、「国籍条項は、全国の市町村にある聖戦大碑である」と私に言いました。在日コリアンは排除してしかるべきだ。外国人に同等の権利を与えないということは、私たちの心の中に大碑があるからだと。
現在、11の府県で国籍条項が撤廃されましたが、必ず「公権力の行使にたずさわらない範囲」等の文面、すなわち任用制限が付いています。私たちはこうした制限のない、国籍条項の完全撤廃を求めて、これからも運動を続けたいと考えています。
山内小夜子さん(東史郎さんの南京裁判を支える会)
東さんは、京都16師団の兵士として南京戦に参加した元日本兵です。87年に市民運動の要請によって自身の体験を証言され、日記を公開しましたが、その日記をもとに名誉毀損の裁判を起こされてしまいました。
9年間にわたって裁判を続け、残念ながら最高裁で敗訴となりましたが、これは歴史の真実を証言した人を、裁判を利用して口封じしようとしたものだと私たちは考えています。
戦争の事実を隠蔽しようとすることは、先の戦争は「聖戦」だったと言おうとしていることと同じです。歴史を語ることに対する妨害を許さず、歴史証言を大切に守っていきたいと思っています。
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「第2回大東亜聖戦祭」開かれる!
2回目となる「大東亜聖戦祭」が8月4日、石川護国神社・大東亜聖戦大碑前で開かれた。
昨年と違うことは、自民党の国会議員が堂々と出席したこと、小学生の太鼓グループが演奏したこと、そして大碑護持会会員の高齢化による危機が強く叫ばれたことである。
大碑建立委員会の委員長であった草地貞吾の死去をはじめとして、この間に300名の会員が亡くなったそうだ。
このままでは「聖戦祭」を永久に開催していくことが不可能となる。だから今のうちに若者を取り込む必要があり、そのために子供太鼓を演奏させ、若者に人気がある小林よしのりを呼んだのだそうだ。
ちなみに、それだけでは足りずに現在、「大東亜青年塾」の開塾に向けた準備が精力的に進められているということだが、以下はその趣意書に記載された内容である。
【参考資料】
大東亜青年塾へ!
是非御協力下さい。(青少年及国を憂へる方はどなたでも入塾出来ます)
大東亜聖戦大碑の建立は、戦後米占領軍による日本弱体化謀略により大きく歪められた歴史、即ち「我国は過去の一時期無謀な侵略行為により、アジア諸国に多大な迷惑と損害をあたえた」という終戦50年に於ける、村山以降歴代首相の歴史無知による大間違いの8月15日談話に集約される自虐歴史観への痛撃であり、真実と日本民族の誇りを取戻すためである。
しかし、建立しただけで放置されるならば国民の大多数を占める謀略に長く汚染された人々の非日亡国濁流に押し流され、聖戦祭は年毎に衰微し、大碑も又いつの日か過去の遺跡となり兼ねない。
これは大碑応募の多数をしめる高年者物故と共に加速すること必定である。
これを防ぎ祖国の正気発祥の拠点として未来永劫大碑を護持し次代を担う日本青少年を、真実の歴史認識へ覚醒せしめ子々孫々に至るまで吾が民族の正義人道使命と大道を伝へ、大碑護持及建立精神を伝承する誇りある青少年育成のため、この塾を開くものであり国の行く末と子孫を憂へる各位の深い御理解と御協力を心からお願ひする次第である。