「新しい生活様式」という名前は、衝撃的だ。独裁国家のように、イデオロギーで市民生活を変えるイメージも感じられよう。ただし、現代日本では、ほどほどに付き合えるものだと思う。
ぱっと思いつくだけでも、1930年代の中国には「新生活運動」、70年代の韓国には「セマウル(新しい村)」運動など、「新」と銘打った国民統制的な運動があった。戦前戦中の日本も、「ぜいたくは敵だ!」で知られる「国民精神総動員」運動などで、国民の生活や意識を上から変えようとした。
あるいは、戦時中の傍聴(スパイ防止)標語に、スパイをバイ菌に例えたものがあった。「スパイはどこにいるか分からない」「政策に不満な人、不平を言う人につけいる」というわけだ。どこか、スパイを新型コロナウイルスに置き換えても話が通じそうだ。
今の日本では、国家が警察や憲兵を使って国民に道徳を強いることはできない。むしろ、「自粛警察」のように「下」から押しつけが起きている。それに、行政もいわば便乗する構図だろうか。パチンコ店だって、3密を避けた営業は不可能ではないと思うが、是が非でも休業させようとする。飲食店の営業時間を縛るのも、夜飲み歩くのが不健全という感覚が影響していないか。こうした、漠とした観念に基づく道徳の押しつけには、注意しなければならない。(※下線は筆者)
関連して、最近報じられる、医療や福祉の現場などでの「美談」が、私には、戦時中に戦死者を「軍神」とまつりあげた「軍国美談」に重なって見える。現場が全力でウイルス禍に立ち向かっているのは事実だろうし、現場に感謝すべきだとも思う。ただし、軍国美談の場合、「この戦争の目的は何だったっけ?」「この作戦は無謀だったのでは?」といった疑問を封じ、「銃後の私たちは生活が苦しくとも我慢しなければ」といった道徳を説く効果を持った。同様に、医療美談も、医療制度や予算などに問題がなかったのかを隠したり、「自粛警察」を後押ししたりするものになっていないか。
いずれにせよ、「非常時」には「平時」の感覚がなくなり、人々は不満や違和感を「仕方がない」と抑え込む。「新しい生活様式」は、「非常時」的に定着するか、「平時」のものとして受け入れられるかが焦点ではないか。
行政のホームページを見れば、市民に対する生活指導は、以前から多数あったと分かる。交通安全で、「自転車は車道を走れ」とか「横並びで走るな」とか。新型インフルエンザでも、「流行したら繁華街への外出を避けるように」と呼びかけていた。私たちは、普段、そうした生活指導を自然にできる範囲でだけ、受け入れている。今回だって、「誰とどこで会ったかメモにする」「帰宅したらできるだけすぐシャワーを浴びる」と事細かに指示されても、完璧にはできるわけもないだろう。
「『新しい生活様式』は8割減で実行」とまでは言わない。せめて、「非常時」ではなく「平時」の気持ちで生活様式を見なおすならば、誰にとっても適度な感染予防ができるのではないかと思っている。
辻田 真佐憲さん(近現代史研究者 作家 慶大卒)
戦争と大衆文化、メディアなどで執筆。著書に「日本の軍歌」「たのしいプロバガンダ」「大本営発表」「空気の検閲」「古関裕而の昭和史」などがある。(毎日新聞6/3朝刊より無断転載)