民間船「きいすぷれんだあ」号 ペルシャ湾でミサイル攻撃に晒された

日本政府が派遣した輸送船がイラクのミサイル攻撃に晒されていた「葬られた危機~イラク日報問題の原点~」                                                     2019.05.25 18:00

メ~テレ(名古屋テレビ放送)制作『葬られた危機~イラク日報問題の原点~』(平成30年日本民間放送連盟賞テレビ部門準グランプリ受賞作(1時間版))より

昨年4月、それまで「ない」とされていた自衛隊のイラクでの日報が公表され、派遣地域で戦闘が拡大しているなど、それまで明らかにされていなかった実態が浮き彫りになった。「自衛隊が活動するところが非戦闘地域だ」。当時の小泉総理はそう説明したが、行ってみれば、そこは戦場だったのだ。

そんな危機を体験したのは、自衛隊だけではない。29年前、湾岸戦争を前に日本政府が派遣した輸送船が、イラクのミサイル攻撃に晒されていたのだ。しかしその事実は、イラクの日報と同様、国民の目の届かぬ場所に葬られていた。

1990年8月、イラクがクウェートに侵攻。それから10日あまりが過ぎたころ、当時の海部俊樹総理の元に、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領から「助けてくれ」との電話が掛かってきたという。外務省を軸に対応の検討に入った政府。しかし、外務省の北米局長だった松浦晃一郎さんによると、当時の日本の法制度では、海上自衛隊を後方支援に出してほしいというアメリカの要求に答えることはできなかった。

そこで政府は、民間の輸送船「きいすぷれんだあ」を”中東貢献船”として派遣することを決定した。船長は橋本進さん、現在85歳。11歳で太平洋戦争の終戦を迎えた橋本さんは、憲法9条には一方ならぬ思いがあった。海外航路の船長として生きてきた橋本さんに中東貢献船の話が舞い込んだのは、ニュージーランドから木材を運搬した直後のことだった。「後方支援で武器弾薬を積まなければ憲法に違反することもないし、この程度なら対応しなければいけないかなと感じた。もちろん生活もあるし、もしここで断ったら後どうなるかというのもあった」と、悩んだ末に引き受けることを決心した。

国会ではこの中東貢献船の派遣を巡って議論が行われていた。造船会社の労組出身だった草川昭三・衆院議員が積み荷の内容などについて質問、松浦さんは「武器、弾薬、兵員は輸送の対象としないこと」「協力相手国の指揮命令下に入らないこと」「乗組員の安全のため、安全航行に関して緊密に協議すること」などについて、日米間での了解があると答弁。橋本さんの妻の恒子さんも、「行くのは心配だった。反対まではいかなかったね。国会でそういうことを決めて武器弾薬は積まない、危険なところに行かないということを頼りにオッケーしたんだね」と振り返った。

そして1990年10月12日、橋本船長以下、21人の日本人船員が乗り込む「きいすぷれんだあ」が東京湾を出港した。船員の一人で、3等航海士だった高山浩志さんは、大きい船に乗りたいという希望が叶い、喜んだと回想した。まず「きいすぷれんだあ」が向かったのはニューヨーク近郊の軍港だった。何を積むかでアメリカ軍と船側で意見が割れ、橋本さんたちは「憲法に従った貨物しか積めない」と主張。軍用トレーラーの荷台を積むことになった。

翌年1月8日、地中海からスエズ運河を抜けてオマーン沖に到着、しばらく待機することになった。そして9日後、湾岸戦争が勃発する。イラク軍はアメリカに協力する周辺国にスカッドミサイルを次々に打ち込んだ。

この時のことについて、恒子さんは「開戦と新聞に出たときは本当にあーどうしようと思った」、高山さんは「自分にもしものことがあったらということで家族に電話した。札幌のお袋はワンワン泣いていた」。日本政府は東経52度線から西を危険海域とし、タンカーなどを含む船の航行を自粛するよう求めた。しかし、アメリカ軍が求めた行先は、危険海域の中にある、サウジアラビア東部のダンマンだった。

停泊中の「きいすぷれんだあ」にはアメリカ軍の将校が度々乗り込み、指示をした。そして、ダンマンへ行くことを認めた日本の公文書は、外務省北米局長だった松浦晃一郎さん、運輸省海上技術安全局長だった戸田邦司さんの決裁を受けていた。松浦さんは「外務省の担当者課長から運輸省と海員組合と話をして、おそらくアメリカとも話したのでしょう、安全だということで」、戸田さんも「いちいちそれで船を止めたり、行き先を変えたりしたら、また面倒な話になる」と証言する。
21日、「きいすぷれんだあ」は東経52度線を越えダンマンに向かう。この頃、イラク軍のミサイルには化学兵器が使われているという情報が流れており、船員にはガスマスクが配られた。

翌日の午後、ダンマンに入港。そのとき、「きいすぷれんだあ」の上空にイラクのミサイルが飛んできた。「パッと見ているときに、雲の向こうからオレンジ色の光が見えた」(高山さん)、「パトリオットが迎え撃って、命中して、頭上でドーンとバーンと落ちた」(橋本さん)。政府の説明とは異なり、「きいすぷれんだあ」は、戦場の中にいたということになる。橋本さんは報告書を作り、船会社を通じ外務省に提出した。

「23時5分頃、又、大小の爆発音」
「安全地帯かどうかというよりも戦闘地域との感じがあります」
「本船入港当時は、戦場であった」しかし、この報告書の内容が国民に知らされることはなかった。今回、情報開示請求で入手した、「きいすぷれんだあ」に関する文書には、この報告書も含まれていたが、報告書は無期限の極秘とされていた。

「きいすぷれんだあ」は、91年3月に無事帰国する。政府からは感謝状が贈られたが、ミサイル攻撃について話題にする政府関係者はいなかった。恒子さんは「ひっそりと帰ってきた 隠すみたいに」「マスコミなど一切何もなかった」、高山さんも「報道がなく、なぜだろうと思った。一船員が行かないはずだった戦場に入ったからでしょう」と振り返る。

政府は「きいすぷれんだあ」を派遣している間も、自衛隊の派遣について検討を重ねていた。そして湾岸戦争の終結後、海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。その後、自衛隊の海外活動は防衛出動、災害派遣と並ぶ基本的な任務となった。イラク派遣以降、自衛隊の訓練は、海外での実戦を想定した内容になりつつある。政府によって派遣された中東貢献船「きいすぷれんだあ」が晒された危機。その事実が伏せられていたことを、関わった人々は今、どう評価するのか。

元外務省北米局長の松浦さんは「当時の私の国会答弁を見てくださいよ、予算委員会で連日やり、さらには外務委員会、大蔵委員会を全部やっているから、こういう個々の問題は、ほぼ徹夜の連続だから申し訳ないけど、下に全部授権していたから。文書は公表されるべきでないが攻撃の事実を公表すべきだったかは、自問自答して返事が出てこない」。草川元衆院議員は「戦闘地域だった…今の日報問題と同じ。国会の問題で改めてこういう事実があるじゃないかと議論しないといけない」と話した。また、元運輸省海上技術安全局の戸田さんは「国会で公開していいことなんて何もない。うるさいだけ。こんな中身まで国会で質問されて答えられる話ではない。余計な労力がかかるじゃないですか忙しいときに。国会に呼び出されて、野党が”お前らこんなこと隠している”なんて言われたら能力が3倍あっても4倍あっても足りない。だから知らせないで済むことは知らせない」。

戦闘はないと言われて、行ってみれば、そこは戦場。でも、戦場だったことは言わないまま。派遣当時の外務大臣だった中山太郎氏は「船を派遣したということ自体、戦争に加わったということ。いろんな経験を国民がして脱皮していく。そういう意味では日本は成功した」と振り返る。

「後方支援も問題がある。やっぱりしないで済めば、しないほうがいいですね。戦争にある意味、加担したわけですからね。もう戦争には二度と手を触れたくないというか、染めたくないというか、(少し触れたという思いは)ありますね」と橋本さん。第二次世界大戦では、6万643人の日本の船員が犠牲となった。5月、戦没した船員を弔う式典の会場に橋本さんの姿があった。憲法を大切にしてきたはずの自分が、なぜ湾岸戦争に手を貸すことになったのか。その理由を橋本さんは問い続けている。

( 『葬られた危機~イラク日報問題の原点~』より)

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