竹内浩三は23歳で、1945年4月9日にフィリピン島バギオ北方1052高地で戦死したと三重県の公報は伝えています。浩三は呉服店に生まれ、映画監督を志し、姉からの仕送りで友と遊び歩き、失恋に涙を流すユーモアたっぷりの青年でした。.
その詩の中から、まず「ぼくもいくさに征くのだけれど」を紹介しましょう。
街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし 勝ったはなし
三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている
ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな
だれもかれもおとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど
なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら
そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた
底本:「竹内浩三全作品集 日本が見えない 全1巻」藤原書店
なんと、せつない詩でしようか。戦争などしたくはなかったという浩三の思いがあふれた詩ですね。この詩を読むと、私の父はどんな思いで、学業の途中で出征したのだろうかと想像します。
こんな詩も遺されていました。
詩をやめはしない
たとえ、巨きな手が
おれを、戦場をつれていっても、
たまがおれを殺しにきても
おれを、詩(うた)をやめはしない
飯盒に、そこ(底)にでも
爪でもって、詩をかきつけよう
「おれを」「戦場を」は誤記ではありません。それだけ、思いつめた悲愴な詩なのです。甘えん坊でいたずらにマンガばかりを描いていた竹内にとって、詩こそは戦争の狂気の中で、正気を保つための唯一の途だったのでしょう。(海渡雄一FBより無断転載)