8/10
県庁前6:30発のフォーラムのバスで辺野古へ。数カ所に停車しながら、辺野古キャンプシュワブゲート前につく。
工事車両入口は高さ4メートルかつ前にはり出したフェンスのため、歩道は90センチしかなくなっていた。8/6から今月いっぱいは陸搬入がなく、日に三回の座り込みもなし。代わりにボートを出していただくことになり、第2テントに寄ってから第1テントへ。第1テントで説明を聞く。そして、船長、案内の方や自治労渋谷区職の方二人、私たち三人で小さなボートで海から工事を見る。K-4護岸をまわり、60センチのカヌーよけオイルフェンスに沿って進むと海上の警備会社から警告、海保が撮影してくる。常にそれらボートがついてくる。海ではコンクリートブロックが長く浅瀬を覆い、ジュゴンが食む藻は死んでしまい、ウミガメは産卵場所がなく、アジサシという鳥もかなり減ったという。ブロックは建設会社によって形が違う。風や波ですき間もできていた。土砂が入ると環境が戻せなくなる。ボートからはキャンプシュワブの全景もよく見える。大浦湾側は崖、軟弱地盤、活断層がある地形。不可能な工事に大量の税金投入。
10:30には潮が引き、陸に戻るときは船は砂地に着きテント前へ戻る。全国からのあいさつもあり私たちも自己紹介する。山城さんも全国からの、そして我々をねぎらってくれた。TBSのキャスターも来ていた。また、マイクでいろんな方が話したり、歌ったり、つらくならないように皆で励まし合うのが沖縄らしい。稲嶺前名護市長、元レバノン大使あまき氏もマイクをとる。あまき氏はイラク戦争に反対したため小泉政権から追いやられ、いまだに外務省の誰ともやりとりしていない。日本が独立国家でないと力説。
12:00からゲート前を往復するデモ。フェンス前は狭く歩きづらい。そこの警備は30人くらい。キャンプシュワブメインゲート前で止まり、シュプレヒコール。その後、台風対策でテント上のシートを皆で撤去。早めの13:30にバスが出て那覇に戻る。バス内でも自己紹介。県庁前に着き、6階の基地対策室で他国地位協定比較など資料を頂く。代表の名前、住所を書くだけでよい。県庁内に辺野古問題対策室などもあり、職員がさかれている。県政の負担は大きい。その後、14階展望室へ。県庁の歴史も紹介されており、米国が琉球を献呈という碑の写真も展示。喫茶店でTBSがインタビューしていた。県庁1階では故翁長知事への記帳の長い列。御通夜会場は私たちのホテル近くであるため、18:00すぎに会場の大典寺に並ぶが、人が多く断念。
徒歩で18:30から自治会館にてフォーラム主催の交流会に参加。参加は約30名。明日用の喪章をいただく。渋谷区職の方、山城さん、沖縄平和運動センターの事務の方、東京事務局ホリタさん、勝島さん、福山共同代表などいろいろな方と意見交換。北海道からは4名、香川や長崎の議員の方も参加。各県からの自己紹介もあり。栗山団長、私はネーネーズの歌、近藤さんもスピーチ。その後、私たち三人は20:00すぎに出て、再びお通夜会場に行く。すいていたためすぐにご焼香できた。沖縄ではご遺体の顔が見える。涙が出た。痩せて、病気と闘い、政府と闘ったお顔だった。奥にご遺族が畳の上に椅子を並べている。平服で来ている人が多少おり、ほっとした。
明日の台風で県民大会が心配だが、開催は来まっていた。コンビニでレインコート、国際通りでお土産を買い、ホテルに戻る。
8/11
台風は夜に接近する予想の中、県民集会に向かう。県庁前駅からの10時すぎのモノレールは満員。10:30集合に少し遅れる。ステージ近くで皆さんと合流。昨年の座り込みでお世話になった辺野古の宿のオーナー成田さんとも再会。車椅子でかけつける行動派。集会で印象的だったのは翁長さんの慰霊の日の肉声、次男による父の意思を受け継ぎたい、翁長さんが言っていたというウチナーンチュの力は強いという言葉。どのスピーチも心に響くもの。最初は主催者発表六万人で最後には七万人との発表に大拍手。12:05には稲嶺前名護市長の閉会の言葉で終了。ウチナー口が多く使われ、アイデンティティ、県民諦めずに子々孫々のため頑張ろうという気持ちが強い大会だった。
雨もかなり降る中、それに負けない迫力があった。参加出来て幸運。平和運動センターを支える方々に感謝。
参加者 Aさんより(文責、編集局)