(泊・横浜事件関連年表)治安維持法関係

治安維持法  (泊・横浜事件関連年表)

1899年(明治32年) 軍機保護法

1909年(明治42年) 新聞紙法

1914年(大正3年)  第一次世界大戦勃発

1917年(大正6年)  ロシア革命

1918年(大正7年)  米騒動、第一次世界大戦終結

1921年(大正10年) 過激社会運動取締法案廃案

1922年(大正11年) 日本共産党 非合法に結成

1923年(大正12年) 関東大震災 戒厳令、朝鮮人の大量虐殺

1925年(大正14年) 治安維持法

1928年(昭和3年)  治安維持法改正(緊急勅令)

1931年(昭和6年)  満州事変  (戦争へ)

1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、日中は全面戦争へ

1940年(昭和15年) となりぐみ義務化  「部落会町内会等整備要綱」

1941年(昭和16年) 治安維持法全面改正

国防保安法

同年12月 太平洋戦争(真珠湾奇襲攻撃)

言論・出版・集会・結社等臨時取締法交付

1942年(昭和17年)7月 細川嘉六氏が出版記念会を泊町で開催
同月 細川嘉六氏「世界史の動向と日本」を『改造』に連載

9月 細川嘉六氏を治安維持法違反容疑で横浜特高警察が検挙

川田夫妻、治安維持法違反容疑で横浜特高警察が検挙

 

<大政翼賛会>

1940年 10月

第2次近衛文麿内閣によって,新体制運動を推進するために創立された組織。これは近衛が中心になって進めてきた新体制樹立運動の結実であり,総力戦争を遂行するために一国一党制を実現させようとしていた軍に対し,国民各層の有力な分子を結集して軍に対抗できる強力な国民組織をつくろうとしたものであった。しかし,その成立とともに一国一党の形態はとられたにもかかわらず,近衛のおもわくをはずれて,政府に指導される公事結社として,道府県支部長は地方長官の兼任となり,行政補助機関のようなものとなった。東条英機内閣では国民統制組織としての色彩を強め,42年4月には翼賛選挙に協力し,6月にはそれまで各省の監督下にあった産業報国会大日本婦人会などの諸国民組織運動を傘下に統合した。 45年6月に,鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い,解体,吸収された。

となりぐみ

町内会の下位組織。組、班または隣保班とも称される。第二次世界大戦中は、隣組と町内会はほぼ同様に使用されており、したがって隣組とは町内会自体のことをさす向きも生まれた。制度的には、隣組は、1940年(昭和15)の「部落会町内会等整備要綱」によって結成することが義務づけられていた。隣組は、上意下達的な情報の伝達、食糧その他生活必需品の配給、防空防火、資源回収、国民貯蓄、体位向上・厚生、そのほか戦時体制下に伴うさまざまの国民統制の末端を担っていた。
とくに隣組には「常会」の制度が設けられ、10戸前後の小集団単位ごとに話し合いなどによる相互の融和と援助が強調されていた。「和の精神」「和合原理」のイデオロギー強化の側面ともいえる。常会の小集団単位のまとまりを介して、町内会活動の実質化が図られていた。戦時体制下に結成された官民共同の勤労者統制組織。 1938年結成された産業報国連盟を中心に自主的運動をたてまえに全国的に始った産業報国運動戦時体制の強化とともに次第に官製化するにいたり,40年 11月4日閣議は勤労新体制確立要綱を決定,これに基づいて産業報国連盟は解散し,同年 11月 23日大日本産業報国会が設立された。会長平尾釟三郎,理事長湯沢三千男。大日本産業報国会は,産業報国精神の高揚,職場規律の確立,生産力増強達成などを目指す一方,労務管理,特配物資配給機関として勤労者統制に大きな力をふるった。敗戦後の 45年9月 30日,GHQ指令で解散した。
労働者を戦争協力に動員することを目的として設けられた産業報国会の中央組織。日中全面戦争下の1938年(昭和13)7月30日、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づき、大日本産業報国会の前身である産業報国連盟が発足した。しかし、地方組織をもたず、単位産業報国会の加盟も任意であったため、連盟は「労資一体」「産業報国」の理念を普及する役割を果たすにとどまり、産業報国運動の実際の指導は官憲が担うことになった。すなわち、1939年4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示し、また警察の指導のもとに単位産業報国会が続々と結成され、同年中には会員数が299万人(組織率は43%)、翌40年には482万人(66%)、41年には547万人(70%)に達した。単位産業報国会は、職員層をも含む全従業員組織として事業所単位に組織され、会長には社長が就任し、各役員にはおおむね職制が任命された。
1940年11月23日、第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は、産報運動を新体制運動の一環に組み込むため、産業報国連盟を廃止して新たに大日本産業報国会を発足させ、その総裁には厚生大臣金光庸夫(かねみつつねお)、会長には平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)、理事長には湯沢三千男がそれぞれ就任した。これによって、総務、錬成、労務、厚生の四局構成の事務局をもった中央機関、道府県連合会を改組した道府県産業報国会、警察署管轄地域単位の道府県産報会支部、事業所ごとの単位産業報国会、というピラミッド型の組織に再編成されたのである。大日本産業報国会は、1941年9月の勤労秩序確立運動、同年10月からの勤労総動員運動、翌年1月からの生産力増強運動を指導するなど、全力をあげて労働者の動員に努めたが、福利厚生の分野での取り組みはまったく不十分であった。また、41年11月に理事長に就任した小畑忠良(おばたただよし)のもとで、数度にわたって本部機構の改革、簡素化が図られ、財界人の発言力が強められていった。
一方、各事業所ごとの単位産業報国会は、戦争経済の悪化とともに、懇談会を通しての下意上達という側面がしだいに後退し、戦意高揚の掛け声のもとに職場規律と勤勉を一方的に押し付けるものとなり、労働者は離反していった。敗戦が近づくにつれて、労働者の勤労意欲が減退し、欠勤やサボタージュ、「オシャカ」(不良品)などが頻発するが、産業報国会はほとんどそれに対処しえなかった。1945年(昭和20)9月30日解散。機関紙誌に『産業報国新聞』『産報』『職場の光』『ちから』があった。
新体制運動
しんたいせいうんどう

1940年(昭和15)に近衛文麿(このえふみまろ)を中心に起こされたファッショ的政治体制樹立のための政治運動。1937年7月の日中戦争開始以来、国家総力戦体制を樹立するため、強力な権力集中と国民総動員とを実現することが支配層にとって緊急な課題となった。政界再編成が問題となり、37年末以降、政党人を中心とする新党運動が政界の表裏でたびたび企てられた。いずれの新党運動も近衛を総裁とする一大政党の実現という点では一致していたが、近衛が出馬を表明しないため日の目をみなかった。しかし日中戦争の長期化に伴い、1939年後半からインフレ、物資不足、労農争議の増加、「国民精神の弛緩(しかん)」などの危機的な状況が現れた。こうした事態を乗り切るため、近衛と彼の側近である有馬頼寧(ありまよりやす)、風見章(かざみあきら)、後藤隆之助(ごとうりゅうのすけ)らは、1940年3月から近衛新党とそれに立脚する強力な近衛内閣を組織し、軍部を抑制して日中戦争を解決しようと企てた。彼らの新党構想は、ナチス流の国民再組織論を背景に在野で新党運動を推進し、既成政党中の自由主義分子を排除して近衛新党をつくり、そのうえに近衛内閣を組織するというものであり、新党が政党の離合集散であるという既成観念を打破するため、その運動を「新体制運動」とよんだ。
1940年4月以後のヨーロッパ西部戦線におけるドイツ軍の大勝利を契機に、新体制運動の機運が高まってきたが、これに対する各勢力の要求はさまざまであった。陸軍と革新右翼はナチス流のファッショ的一国一党を主張し、観念右翼は国民精神総動員運動方式を強調し、町内会と部落会を握る内務官僚は、観念右翼に同調しつつ新体制を行政補助機関化しようと画策した。また既成政党は解党して新体制のなかで指導権を確保しようとねらい、財界は新体制に期待しつつも、革新官僚の立案した経済新体制案には反対するというありさまであった。
1940年6月24日近衛が枢密院(すうみついん)議長を辞任して新体制運動への挺身(ていしん)を表明すると、運動は一挙に盛り上がった。しかし各勢力間の調整に苦しんだ近衛は、「新体制は近衛幕府の再現である」という観念右翼の批判に屈して新党構想を放棄し、全政治勢力を無原則のまま丸抱えにするという新体制構想に移行した。その間、陸軍と革新右翼は、現状維持的な米内光政(よないみつまさ)内閣打倒と近衛内閣成立に狂奔し、7月22日第二次近衛内閣が成立した。これを契機に全政党が解散し、明治以来初めて無政党時代が出現した。同時に自主的な労農団体などは解散を余儀なくされ、各種の官製国民運動団体へ吸収されていった。またこの過程で、町内会、部落会、隣組が内務官僚と警察の指導のもとに一段と整備された。10月12日新体制運動の総決算として近衛首相を総裁とする大政翼賛会が結成され、ファシズム体制が成立した。それは独伊ファシズムのように下からの国民運動の力によらず、上からの天皇制官僚支配の強化として実現され、国民は町内会などの地方自治組織と官製国民運動団体という二本立てのルート(両者は1942年に大政翼賛会の下部組織に編入)を通じ、画一的なファシズム支配下に置かれることとなった。

大原社会研究所
倉敷紡績社長大原孫三郎によって,1919年(大正8)大阪に設立された民間学術研究所。第1次大戦後米騒動勃発にみられる社会問題の深刻化のなかで,社会を科学的に調査研究するための機関として設立された。大原は初代所長高野岩三郎を信頼して,20年にわたって私財を投じつづけた。高野のもとに,櫛田民蔵,大内兵衛,森戸辰男,久留間鮫造細川嘉六笠信太郎らが所員となり,研究嘱託の長谷川如是閑ほか多くの研究者が参加し,日本の社会科学研究・社会調査に大きな貢献をした。

 

じんみんせんせんじけん【人民戦線事件】

日中戦争開始後の,反ファシズム人民戦線運動を推進した日本無産党,日本労働組合全国評議会(全評)などに対する弾圧事件。共産主義者の組織的な反戦・反ファッショ運動が弾圧で壊滅したのちも,日本無産党(委員長加藤勘十),全評などいわゆる合法左翼団体の反ファッショ人民戦線を目ざす運動が続けられた。しかし当局は1937年12月15日と翌年2月1日,日本無産党,全評の幹部およびその理論的指導者と目された労農派の学者・評論家などを全国いっせいに検挙し,12月22日日本無産党,全評を結社禁止処分にした。日中戦争開始後、日本無産党、日本労働組合全国評議会(全評)、労農派の関係者に対し治安維持法を適用した弾圧事件。1937年(昭和12)12月15日446名(第一次検挙)、翌年2月1日38名(第二次検挙)、計484名が検挙された。また、1937年12月22日には、日本無産党と全評が治安警察法により結社禁止となった。被検挙者の内訳は日本無産党関係265名、全評関係174名、労農派グループ34名、労農派教授グループ11名で、おもな者は加藤勘十(かんじゅう)、鈴木茂三郎(もさぶろう)、高野実、島上善五郎、黒田寿男(ひさお)、岡田宗司(そうじ)、山川均(ひとし)、荒畑寒村(あらはたかんそん)、猪俣津南雄(いのまたつなお)、向坂逸郎(さきさかいつろう)、大森義太郎(よしたろう)(以上第一次)、江田三郎、佐々木更三(こうぞう)、大内兵衛(ひょうえ)、有沢広巳(ひろみ)、美濃部亮吉(みのべりょうきち)、宇野弘蔵(こうぞう)(第二次)らである。検挙理由は、労農派が日本共産党から出生した双生児であり、また日本無産党と全評がコミンテルン第7回大会の方針に呼応して人民戦線の結成を企てたというものであった。この事件は、日中戦争開始後、共産主義者に続いて、これまでは合法的存在であった労農派、社会民主主義者にまで治安維持法の弾圧対象が拡大し、反戦・反ファッショ活動を合法的に展開することはもはや不可能となったことを示していた。裁判では、教授グループについては検察側が犯罪事実を立証できず、多くは第二審で無罪が確定。加藤・鈴木・山川らは第一審、第二審とも有罪であったが、敗戦後治安維持法が廃止されたので、1945年(昭和20)11月免訴となった。
治安警察法
ちあんけいさつほう

明治 33年法律 36号。政治的集会および結社,言論活動などを取締るために 1900年に制定された治安立法。日本の治安立法は 1875年6月に制定された讒謗律 (ざんぼうりつ) ,新聞紙条例に始り,集会条例 (1880) ,保安条例 (87) ,集会及政社法 (90) ,予戒令 (92) などにいたるが,第2次山県内閣はこれら治安立法を集大成し,あわせて日清戦争後,産業経済の急激な発展に伴って台頭してきた労働運動に対処するため治安警察法を制定した。そのおもな内容としては政治に関する結社および政治的集会の届け出義務,軍人,警官,女子,教員,生徒,未成年者などの政治結社への加入禁止,「安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル場合」における警察官による屋外集会の制限,禁止,解散,内務大臣による結社の禁止,政治的集会への警察官の臨監など多くの規制が盛られている。なかでも労働争議の抑圧を目的とした 17条の新設が重要であった。しかしこの条項はストライキ権団体交渉権を制限していたため内外の批判が多く,1926年の第 51議会で削除され,「争議の自由」が確立された。第2次世界大戦後の 45年 11月廃止された。労働者が団結してみずからの経済的,社会的な地位の安定,向上を確保するために行う運動。労働運動は当初イギリスラッダイト運動のように自然発生的な性格をもっていた。こうした労働運動は労働組合などの労働者の団結となって使用者と対立するようになり,各国政府はきびしい弾圧を加えてきた。しかし現在では各国とも労働者の団結権とそれに基づく団体交渉権,争議権を認めるようになっている。現実には資本家階級労働者階級の利害は基本的に対立しているとして労働運動を政治運動の一つとみなし,プロレタリアート革命を目指す立場と,労働組合主義といわれる経済的闘争こそ労働運動の目的であるとする立場を両極として,さまざまな運動形態がある。日本における労働運動は 1880年代後半鉄工 (鉄工組合) と印刷工 (活版工組合) によって始められたが,97年の労働組合期成会の結成によって初めて本格化した。しかし治安警察法治安維持法などの制定によって労働運動は弾圧され続けた。第2次世界大戦後は法的整備もあって組合組織率は大きく上昇し,労働運動も活発となったが,高度成長期以降組合組織率は低下してきている。中央組織としては日本労働組合総評議会 (総評) ,全日本労働総同盟 (同盟) を二大主流としていたが,1987年全日本民間労働組合連合会 (旧連合) が結成され,89年にはさらに日本労働組合総連合(連合) に拡大,労働運動は新たな段階を迎えている。

 

労働運動の意義と領域目次を見る

労働運動の発生

労働運動は資本主義社会の必然的産物である。封建制度の社会が解体して資本主義制度の社会が成立し始めるに伴って、新しく発生してきた労働者階級は労働運動をおこした。さらに産業革命を経過して資本主義が確立し、高度化するに伴って、その矛盾も広がったから、労働運動は社会主義思想を受け入れ、資本主義制度そのものを廃止し、階級対立のない社会主義制度を実現することを目標とするようになった。
労働運動は数世紀にわたる歴史的発展を経て、今日では世界に労働者階級を中心とする勢力が政治権力を握る十数か国の社会主義国が出現し、人類史の動向に大きな影響を与える段階に到達した。また、これまで長年の間、発達した資本主義国の帝国主義的支配を受けていたアジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地・従属国における民族解放闘争の発展のなかで、労働者階級が指導的役割を果たす傾向が強まった。さらに資本主義諸国の内部でも、労働運動の力が強大になり、独占資本の支配に介入し、政治、経済、社会の動向に大きな影響力をもつようになってきた。[塩田庄兵衛]
労働運動の諸部面

労働運動は、初めは個々の資本家の圧制と搾取に反抗する労働者の孤立・分散した抵抗として開始されたが、資本主義の確立・発展とともに労働者階級の数が増え、生産活動のなかで集団的規律を身につける訓練を受け、互いの立場の基本的共通性を意識して連帯を強めるようになった。さらに計画的、組織的な活動を展開するようになり、ストライキその他の闘争方法を発展させ、また持続性のある自主的組織に団結するようになった。労働者が最初につくった組織には、労働組合、協同組合、共済組合などがあるが、さらに階級的自覚の高まりとともに、社会主義思想を受け入れて、資本主義社会の変革を目ざす革命闘争を指導するための政治組織、すなわち社会主義政党あるいは労働者政党を結成して活動するようになった。この労働者階級の団結は、1企業から産業部門全体へ、さらに1地域、1国から国際的規模へと拡大してきた。そしてその活動分野も、経済闘争、政治闘争、思想闘争の三つの側面をもつようになった。
これらの諸組織部面、諸闘争形態は相互に関連しあっており、促進しあって発展するが、その具体的現れ方には、歴史のそれぞれの時期によって、またそれぞれの国の事情によって特殊性がみられる。一般的に労働者は、初めは主として生活防衛のための相互扶助組織である共済組合や協同組合に団結するが、やがて労働組合をよりどころに持続的、大衆的な闘いを運動の中心とするようになり、さらにその基礎のうえに社会主義政党を先頭に押し立てて闘うようになったといえよう。そのなかで、たとえば協同組合運動は、イギリスや北ヨーロッパ諸国で伝統的に活発であり、アメリカ合衆国では、労働組合運動はかなり強力であるが、有力な社会主義政党がなく、労働者階級の独自の政治闘争は低調である、といった特徴がみられる。労働運動には経済闘争、政治闘争、思想闘争の三つの側面があると述べたが、資本家階級が労働者階級を経済的に搾取し、政治的に支配し、また経済的搾取と政治的支配とを維持するために思想的支配を図るのに対抗するためには、この三つの側面をそれぞれ独自の運動として展開し、それとともに互いに結び付きを図ることが必然的となるのである。[塩田庄兵衛]

 

経済闘争

経済闘争は、歴史的にみて労働運動の最初の形態であるが、いまでも労働者が生きていくためには避けることのできない闘いであり、資本家階級による搾取に反対し、それを弱めることを目的とする。それは、労働力の販売のより有利な条件を獲得するために、労働条件と生活状態の改善のために、労働者が雇主に対して行う賃金引上げ、労働時間短縮、資本家的「合理化」反対、首切り反対などを目的とする闘争である。労働組合が組織されたのも、もともと経済闘争の必要からであった。[塩田庄兵衛]
政治闘争

労・資の階級対立は経済的利害の対立を根本にしているが、それは政治に集中的に反映する。政治とは、国家権力による階級支配のさまざまな形であるが、資本主義社会では資本家階級の支配のために権力が行使される。政治闘争は、資本家階級の政治的支配を弱め、労働者階級と勤労人民の政治的地位を改善するための闘争から、さらに労働者階級を中心とする人民が政治権力を獲得するための闘争を含む。[塩田庄兵衛]
思想闘争

資本主義社会では、支配階級である資本家階級のものの考え方や、農民や都市の小市民などのプチ・ブルジョア的(小所有者的)なものの考え方が労働者階級のなかに持ち込まれ、影響力をもつ。思想闘争は、これらを克服して、労働者階級の独自の立場にたつものの考え方を確立し、広げていくための闘争であって、政治闘争を発展させ、経済闘争と政治闘争を結び付けていくうえで欠くことのできない闘いである。[塩田庄兵衛]
国際労働運動の成立と展開目次を見る

産業革命と労働運動の高揚

封建社会が解体して資本主義社会が成立し始めるに伴って、農民や手工業者が土地や仕事場などの生産手段から切り離されてプロレタリア(無産者)に転落し、賃金労働者となった。この変動に投げ込まれた人々の不満は、多くの騒擾(そうじょう)や暴動を引き起こした。産業革命によって機械制工場生産が行われることに反対する職人的労働者を中心とする機械うちこわし運動(ラダイト運動)が、イギリスで19世紀初めに広がったが、やがて歴史の発展に取り残されて消滅した。一方、賃金労働者は相互扶助のための共済組合や協同組合をつくるとともに、労働組合に団結して、賃金、労働時間その他の労働条件の改善を目ざす組織的運動を始めた。これに対してイギリスの議会は、1799年と1800年に団結禁止法を制定して弾圧を加えた。しかし、この法律は労働者の抵抗と資本主義の状況変化によって意味を失い、1824年と25年に撤廃されるに至った。
18世紀末から19世紀なかばにかけてイギリスを先頭に西ヨーロッパ諸国に産業革命が進行し、資本主義が確立するに伴って労働運動が本格的に発展し始めた。大陸では、1831年、34年のフランス・リヨンの絹織物工の蜂起(ほうき)、44年のドイツ・シュレージエン織工一揆(いっき)などがその先駆けとなった。労働者階級独自の政治闘争も始まり、イギリスでは1830年代後半以降、労働者の政治的権利確立の「人民憲章」の制定を求めるチャーティスト運動が展開され、大陸では1848年の二月革命、三月革命のなかで、労働者階級は資本家階級とは別に独自に封建勢力と闘い始めた。[塩田庄兵衛]
科学的社会主義の成立

産業革命の進行に伴って資本主義の弊害が表面化したことに対して、人道主義の情熱に燃える知識人のなかから社会主義の主張が現れた。イギリスのロバート・オーエン、フランスのシャルル・フーリエ、サン・シモンらがその代表である。しかし彼らは、労働者階級が未成熟であった歴史的条件に制約されて、資本主義から社会主義への変革の必然性を根拠づけることができなかったので「空想的社会主義者」とよばれている。画期的な意味をもったのは、1847年に革命運動の小さな国際組織として結成された共産主義者同盟の綱領として、マルクスとエンゲルスが48年に『共産党宣言』を発表したことであった。これによって労働者階級が変革の担い手となって、資本主義から社会主義への移行が行われる必然性が理論的に根拠づけられ、科学的社会主義(=マルクス主義)が成立して、労働運動に大きな影響力をもつことになった。
マルクス、エンゲルスが指導的役割を演じて、1864年にロンドンで国際労働者協会(第一インターナショナル)が結成された。さまざまな社会主義の潮流や労働運動団体がヨーロッパ中心に寄り集まった混成部隊であったが、労働運動の国際的結集を実現したという歴史的意義をもった。協会は72年以降活動停止状態となり、76年に解散した。しかしその間、ヨーロッパ各国に社会主義政党の結成が進んだ。先頭を切ったドイツでは、1863年にフェルディナンド・ラッサールの指導のもとに普通選挙法獲得を目ざす全ドイツ労働者協会が結成された。69年にはマルクス主義の影響のもとに、ベーベル、リープクネヒトを指導者にドイツ社会民主労働者党が結成された。そして両派は75年のゴータ大会で合同してドイツ社会主義労働者党(のちにドイツ社会民主党と改称)と名のり、77年の総選挙で9%以上の投票を獲得して政治勢力として進出した。これに対しビスマルク宰相は78年に社会主義者鎮圧法を制定して弾圧を加えたが、地下活動と国外での運動で力を充実させた社会主義勢力は、ビスマルクを失脚に追い込んで合法政党となり、社会民主党と名のるようになり、91年のエルフルト大会でマルクス主義の立場をとる新綱領を採択した。この時期、1870年オランダに、71年デンマークに、72年ボヘミアに、76年アメリカ合衆国に、79年フランスとスペインに、98年ロシアにと、次々に社会主義政党が結成された。社会主義とは縁遠いと考えられたイギリスにも、1883年マルクス主義的な社会民主連盟が結成された。
資本主義の最先進国として「世界の工場」といわれたイギリスでは、19世紀なかば以来、労働運動が穏健化し、経済闘争中心を特色とした。その主力部隊は熟練労働者の職業別労働組合であった。1868年にはその全国的結集体としてイギリス労働組合会議(TUC)が組織された。しかし資本主義の拡大・発展に伴って、未熟練労働者を組織する一般労働組合general unionが登場するようになった。さらに、独占資本主義の時代である20世紀に入ると、職種を問わず同一産業に従事するすべての労働者を一括組織することを原則とする産業別労働組合が基本的な組織形態になり、労働組合の大衆的・階級的性格が強まった。
1889年にパリで社会主義政党の国際組織が結成された(第二インターナショナル)。マルクス主義的な社会主義政党と労働者諸組織の緩い連合体で、8時間労働制の実現、労働者の選挙権の拡大、労働者保護立法の制定と拡充など、おもに改良主義的な要求を課題に運動した。エンゲルスの提唱を受けて、1890年には「万国の労働者団結せよ!」のスローガンを掲げて国際的メーデーを開始した。この時期に労働組合の国際組織も成立した。90年以降、各種の国際産業別書記局(ITS。現グローバル労連。GUF)が設立され、1903年には各国労働組合センター国際書記局がつくられた。これはのちに国際労働組合連盟(IFTU)と名のるようになった。[塩田庄兵衛]
第一次世界大戦とロシア革命

独占資本主義の段階に入ると帝国主義戦争が繰り返されるようになった。労働者階級は巨大な数に増大し、社会的役割が大きくなった。労働運動の課題は多面化し、その影響力が強まると同時に複雑な経過をたどることになった。第一次世界大戦(1914~18)とロシア社会主義革命(1917)によって資本主義世界は激動した。労働運動の内部には、革命化・戦闘化する潮流と、労資(使)協調主義・改良主義の立場をとる潮流との左右両派への分化がくっきりし、その対立が激化した。
第一次世界大戦が始まると、これまで帝国主義戦争反対を唱えていた各国の社会主義政党は、ほとんどが「祖国防衛」の名目で戦争協力の立場に転換し、第二インターナショナルは崩壊した。しかしロシアでは、1917年11月(ロシア暦では10月)ロシア社会主義労働党ボリシェビキ派の指導のもとに社会主義革命が成功し、労働運動の長年の夢であった労働者階級の政治権力が樹立された。ロシア革命の国際的影響は深刻で、労働運動に強い刺激を与えた。ヨーロッパ、アジアの各国で革命運動が高揚した。ロシア革命の指導者レーニンの呼びかけで、19年3月、革命運動の国際的統一指導部として共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、略称コミンテルン)がモスクワで結成された。ドイツをはじめとする各国に共産党が相次いで結成されて、コミンテルンの支部となった。さらに21年に、革命的労働組合運動の国際的連絡組織として赤色労働組合インターナショナル(略称プロフィンテルン)がモスクワに結成された。コミンテルンとプロフィンテルンは、第一次大戦を境に高揚し始めた植民地・従属国の労働運動を援助し、このころからヨーロッパ、北アメリカだけでなく、アジアその他の植民地・従属国の労働者も、国際労働運動の舞台に組織的に登場することになった。
他方、先進資本主義国では、独占資本の超過利潤の分け前にあずかる特権的労働者層が「労働貴族」として形成され、それを基盤に労働運動を労資(使)協調主義、改良主義、反共主義の路線で指導する「労働官僚」が支配力を振るった。これら右派勢力は1920年7月、ジュネーブで第二インターナショナルを復活させた。中央派が21年2月に国際社会党協議会を結成したが、23年にはこれは前者に合流して、本部をロンドンに置く社会主義労働者インターナショナルが成立した。労働組合戦線でも、1919年7月にアムステルダムでIFTUが復活して、反共・反ソの立場を明確にした。[塩田庄兵衛]
軍国主義の台頭と侵略戦争

1929年秋アメリカから始まった大恐慌は、資本主義の矛盾を激化させ、アジアの日本とヨーロッパの各国で軍国主義が台頭し、侵略戦争が開始された。これと連動してファシズムが台頭し、民主主義と平和に対する脅威が深刻になった。その典型は、先に1922年にイタリアでムッソリーニがファシズム政権を樹立したのに続いて、33年1月、ドイツでヒトラーのナチスが独裁政権を樹立したことであった。各国で労働者階級を中心に反ファシズム運動が展開されたが、画期的であったのは、35年夏モスクワで開かれたコミンテルン第7回大会が、反ファシズム統一戦線運動(人民戦線)の方針を樹立したことであった。すなわち、反戦・反ファシズムを課題に、労働戦線を統一し、共産党・社会党が提携して広範な人民の統一戦線を形成しようというのである。
1936年にはフランス、スペインで人民戦線派が総選挙で勝利し、革新連合政府=人民戦線政府を樹立した。やがてスペインでは、ドイツ、イタリアのファシズム権力に支援されたフランコ将軍の反革命武力反乱によって人民戦線政府は倒され、フランスの人民戦線政府も長く維持することはできなかったが、各国に広がった統一戦線運動は、第二次世界大戦中のレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)の基礎となり、さらに戦後、労働者階級を中心とする統一戦線運動、社・共の共同戦線運動のなかに受け継がれた。中国、ベトナム、インドネシアなどアジア地域でも、民族解放を目ざす統一戦線運動が展開された。この状況のなかで、プロフィンテルンは37年に、コミンテルンは43年にその役割を終えたとして解散した。[塩田庄兵衛]
第二次世界大戦後の国際労働運動目次を見る

世界労連の結成と分裂

第二次世界大戦は1945年に終わったが、東ヨーロッパに人民民主主義革命を経て社会主義建設に向かう国々が相次いで現れ、さらに朝鮮、ベトナム、中国でも革命が起こり、社会主義世界は拡大し、資本主義との「二つの世界」の対立が人類史の基本条件となる時代に入った。労働運動はこの条件に規定されて展開することになった。
第二次世界大戦末期から、イギリス、フランス、ソ連などの労働組合間で戦後を展望した交流が進んでいたが、1945年10月、パリで世界労働組合連盟(WFTU)が結成された。資本主義国、社会主義国、植民地の労働者を、社会体制、思想・信条、皮膚の色の違いを超えて結集した初めての全地球的な国際労働組合組織の成立であった。これに加盟を拒否した主要組織は、アメリカ労働総同盟(AFL)だけであった。世界労連は、ファシズムの絶滅、戦争の根源である独占資本との闘争と恒久平和の樹立、賃金・生活水準の改善を目標に掲げた。ヨーロッパ各国に社・共両党が連合する革新政権が樹立された。
しかし1947年以降、早くも二つの世界の「冷たい戦争」が表面化した。アメリカ陣営から反ソ・反共を目的とする分裂攻撃が加えられ、産業別組合会議(CIO)、イギリス労働組合会議(TUC)を先頭に資本主義国の有力組合が脱退して世界労連は分裂した。そして脱退派は49年12月、ロンドンで国際自由労連(ICFTU)を結成し、反共主義・労資(使)協調主義の立場を明らかにした。世界労連の組織勢力は120か国、1億3000万人(2000)、国際自由労連は150か国、1億5800万人(2002)といわれている。なおこのほかに国際労働組合連合(WCL)があり、116か国、2600万人(2001)といわれている。
労働運動の政治的側面でも、共産主義と社会民主主義の対立がふたたび激しくなった。1947年10月、ヨーロッパ9か国の共産主義政党はコミンフォルム(共産党および労働者党情報局)を結成した(56年に解散)。一方、同じ47年11月にコミスコ(国際社会主義者会議委員会)が組織され、これは51年に社会主義インターナショナルと名のり、反マルクス主義の民主社会主義の立場を明らかにした。[塩田庄兵衛]
現代の国際労働運動

1960年以降、国際共産主義運動の内部に中ソ論争を中心とする路線対立が表面化し、それは世界労連その他の左派系の労働運動にも反映した。そのなかから日本を含めて発達した資本主義国の共産党は、自主独立の立場からそれぞれ独自の革命路線の探求を試みるようになった。また、社会主義国でも共産党のイニシアティブによる改革への試みが進められることになった。
1970年代なかばから資本主義の矛盾が新たに激化し、生産の不振、貿易摩擦、財政危機、産業構造の転換、多国籍企業の広がりなどの条件のもとで、労働運動に対する資本の側からの攻撃が厳しくなり、失業が増大し、賃金引上げが困難になり、労働組合の地盤沈下がみられ、労働運動はその打開への挑戦を余儀なくされている。また1980年代から90年代初めにかけて、ソ連の崩壊、東欧の民主化などによって、国際労働運動は新しい局面を迎えている。[塩田庄兵衛]
第二次世界大戦前の日本の労働運動目次を見る

 

資本主義の形成と労働運動の台頭

明治維新によって幕藩体制が倒れ、資本主義的発展の道が切り開かれるに伴って、労働運動が発生し始めた。しかし、絶対主義的天皇制が権力を握り、専制的、非民主的な政治制度のもとで資本主義の育成が進められたので、労働運動は厳しい制約を受けた。資本主義の発展にとって必要な労働力は、土地を失った農民を主力に、ギルド的株仲間の解体に伴う手工業職人と封建的支配層としての地位を失った士族層のなかから生み出された。労働運動として最初に目だったのは鉱山労働者と職人層の反抗であった。それはしばしば暴動化した。1886年(明治19)山梨県甲府で雨宮(あめみや)製糸の女子労働者が労働条件の悪化に反対しておこしたストライキ(雨宮製糸争議)が、もっとも初期の工場労働者のストライキ闘争とされている。労働組合結成の試みも、印刷労働者や鉄工(金属・機械工業の中核としての熟練労働者)の間で始まった。
日清(にっしん)戦争(1894~95)は、日本資本主義確立の画期となったと同時に、労働運動発展の出発点ともなった。政府統計によると1897年の下半期だけで32件のストライキが記録されており、それまでと際だった対照をみせた。とくに98年2月におこった日本鉄道機関方の待遇改善要求と首切り反対のストライキ(日本鉄道争議)は、労働問題に対する社会の関心を刺激した。
労働組合の組織運動が始まった。アメリカ帰りの高野房太郎(ふさたろう)らは、職工義友会を設立して労働組合の結成を呼びかけ、労働組合期成会を組織(1897)して、それを母体に運動を進めた。片山潜(せん)を主筆に、わが国最初の労働組合運動の機関紙『労働世界』が発刊された。鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合などの職種別組合が相次いで結成された。この時期に生活協同組合の運動も始まった。しかし1900年(明治33)に制定された治安警察法は、労働運動の発展に致命的な障害となった。とくにその第17条は、労働組合や労働争議を禁止し、「労働組合死刑法」といわれた。未成熟であった労働組合運動は一時的に消滅した。[塩田庄兵衛]
独占資本主義の確立と社会主義運動

労働組合運動の誕生とほぼ時期を同じくして社会主義運動が始まった。1898年に社会主義研究会が結成され、知識人たちによる社会主義の集団的研究が始まった。1901年5月、わが国最初の社会主義政党である社会民主党が結成された。しかし治安警察法によってただちに解散させられたので、「宣言」を発表しただけで具体的に活動することはできなかった。
日露戦争(1904~05)に対して、社会主義者たちは公然と反対の声をあげた。幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)らは1903年に平民社を創立し、その機関紙として週刊『平民新聞』を発行し、「非戦論」を叫び続けた。また片山は、戦争さなかの04年8月、オランダのアムステルダムで開かれた万国社会党大会(第二インターナショナル第6回大会)に日本の社会主義者を代表して出席し、日本人民の平和と社会主義への熱意を表明し、「敵国」ロシアの代表プレハーノフと壇上で固い握手を交わして大きな国際的反響をよんだ。『平民新聞』はたびたび発売禁止を受け、執筆者、編集者が次々に罰金刑・投獄の弾圧を受け、ついに05年1月廃刊を余儀なくされた。後継紙として『直言』『光』『新紀元』などが刊行されたが、長くは続かなかった。
日露戦争の勝利を画期として日本は独占資本主義・帝国主義に向かって「前進」した。戦後の労働運動はストライキ件数の増加、その規模の拡大と激化などの特徴を示した。軍事工場や巨大工場にストライキが続発したが、1907年2月、足尾銅山争議は暴動化し、軍隊が出動して弾圧を加えた。11年末には東京市電6000人のストライキ(東京市電争議)が、片山ら社会主義者の指導・協力を受けて勝利した。
1906年、日本社会党が初めて合法的に成立し、07年日刊の機関紙『平民新聞』を発行して活動した。しかしやがて、議会政策派と直接行動派の対立がおこった。社会主義運動は、それまでドイツ社会民主党流の議会政策論の立場をとり、普通選挙権の獲得を通じて労働者・農民の代表が議会の多数派となることによって社会主義を実現する路線を追求していた。ところが、アメリカ旅行から帰国した幸徳は、無政府共産社会の一挙的実現を目ざす直接行動が世界革命運動の新しい潮流であると主張して、片山や田添鉄二(たぞえてつじ)らの議会政策派と対立した。直接行動派の「過激な」主張を理由として日本社会党は結社禁止(1907)を受けた。08年6月には赤旗(あかはた)事件の厳しい弾圧がおこされた。これは、出獄同志の歓迎会で直接行動派の青年が「無政府共産」「無政府」と記した赤旗を振り回して警官隊と衝突した小事件に、厳しい重刑が科せられた弾圧事件であった。続いて10年5月から大逆(たいぎゃく)事件の検挙が始まった。これは、少数の直接行動主義者の空想的なテロリズム計画を、幸徳を首謀者とする明治天皇暗殺の一大陰謀計画にでっち上げて、社会主義運動を一掃しようとする権力側の謀略事件であった。秘密裁判の結果、24名に死刑が宣告されたが(うち12名は天皇の名によって無期懲役に「減刑」)、その大多数はまったく無実の犠牲者であった。韓国併合と同じ年に起こされた大逆事件によって、社会主義運動は「冬の時代」とよばれる一時的窒息状態のなかに凍結された。[塩田庄兵衛]
総同盟の成立と発展

第一次世界大戦と1917年のロシア革命は日本の労働運動にも大きな刺激を与えた。大戦を利用した高度経済成長を通じて、日本資本主義は独占資本主義の段階に達した。これまでの若年女子労働者が圧倒的多数を占める繊維産業中心の産業構造から、成年男子労働者を主力とする重化学工業中心へと比重が移行し始め、労働運動発展の条件が成熟してきた。18年(大正7)夏、米(こめ)騒動が起こった。物価とくに米価暴騰に反対する大衆運動が暴動化して全国に広がり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣を総辞職させた自然発生的な運動であったが、この経験が土台になって人民各階層の組織化が始まった。
これより先1912年8月、友愛会が結成された。東京帝国大学出身の法学士鈴木文治(ぶんじ)の指導のもとに15人の労働者が集まった共済・親睦(しんぼく)団体であったが、時代の潮流にのって急速に発展し、21年には日本労働総同盟(総同盟)と名のる労働組合の全国中央組織(ナショナル・センター)に成長した。
社会主義運動も「冬の時代」から脱出して新しい発展を開始した。まず1912年10月に、アナルコ・サンジカリズム(革命的労働組合主義)派の大杉栄(さかえ)・荒畑寒村(あらはたかんそん)らが『近代思想』誌を発行して再生の声をあげた。続いて堺利彦らがマルクス主義的な立場から15年9月に『新社会』誌を発刊した。
米騒動の年1918年には107を数えるにすぎなかった労働組合が、その後、急テンポで増大した。20年に第1回メーデーが東京・上野公園で催された。1890年に始まった国際的メーデーに遅れること30年であるが、日本の労働運動の発展を象徴するできごとであった。
1920年3月、戦後恐慌がおこった。第一次世界大戦を通じて経済が急膨張したことへの反動であった。首切りと賃下げの資本攻勢が労働者を襲った。困難な抵抗闘争のなかで、アナルコ・サンジカリズムが労働者の戦闘的分子の間に影響力を広げた。争議は長期化し、しばしば暴力化した。さらには労働組合そのものを否認する傾向も現れた。しかし、大衆的な団結を軽視する少数者の先鋭な闘争が有効でないことが、運動の経験を通じて確かめられていった。基幹産業の巨大工場でも争議が続発した。20年2月に、わが国最大の工場である八幡(やはた)製鉄所で1万3000人の労働者が立ち上がり、溶鉱炉の火を消した(八幡製鉄所罷業)。21年には、神戸の川崎・三菱(みつびし)両造船所の労働者は3万人の争議団を形成して1か月にわたって闘い続け、警官隊・軍隊と衝突した(川崎・三菱造船所争議)。これは第二次世界大戦前最大規模のストライキ闘争であった。
1920年12月、各派の社会主義的傾向の団体が合同して、日本社会主義同盟を結成した。やがてマルクス主義派(当時の呼び方でボリシェビキ派)とアナキスト(無政府主義者)のアナ・ボル論争が表面化し始めた。同盟そのものもまもなく結社禁止された。
1922年7月15日、日本共産党が結成された。非公然の秘密結社であり、コミンテルン日本支部として位置づけられた。科学的社会主義(マルクス主義)を指導原理とする革命運動の司令部が成立し、今日まで一貫して運動を続けてきた。しかし、その歩みは波瀾(はらん)に満ちている。まず23年6月に共産党に対する一斉検挙が行われた(第一次共産党事件)。その後まもなく24年3月には解党決議が行われ、改めて再組織を目ざすことになった。[塩田庄兵衛]
労働運動の分裂

1923年9月1日に関東大震災が起こった。その混乱のなかで、支配階級の手による人民の虐殺事件(白色テロル)が起こされた。在日朝鮮人虐殺、戦闘的労働運動家を軍隊が虐殺した亀戸(かめいど)事件、アナルコ・サンジカリズム運動の指導者大杉栄夫妻の憲兵隊での扼殺(やくさつ)事件がそれである。この時期から、労働運動における革命的・戦闘的潮流と改良主義的・労資協調主義的潮流との分化がはっきりし始め、左右の対立が激化するようになった。当時もっとも有名なナショナル・センターであった総同盟(当時の組合員約3万人)の内部で、右派の社会民主主義者と左派の共産主義者との対立が激しくなり、25年5月に分裂して、左派は日本労働組合評議会(評議会)を結成した。このできごとは、容共か反共かをめぐって運動団体が分裂するモデルとなった。評議会は日本共産党の指導を受ける左翼労働組合として戦闘的潮流を代表し、東京の共同印刷争議や浜松の日本楽器争議などの大争議を指導した。
1925年の議会で男子普通選挙法と治安維持法とが抱き合わせで制定された。すなわち、無産者に政治参加の機会を拡大する民主主義的譲歩と同時に、主権在民と資本主義変革を目ざす革命運動には徹底的弾圧を加える「あめとむち」の政策であった。治安維持法を実施する部隊として特高(とっこう)警察(特別高等警察とよばれる政治的秘密警察)の網が張り巡らされ、共産主義運動を徹底的に弾圧したばかりでなく、やがて社会民主主義者、自由主義者、宗教家へと弾圧の対象は拡大され、1945年(昭和20)の敗戦によって廃止されるまでの20年間に、治安維持法によって逮捕された者は数十万人、送検された者は7万5000人以上、獄死ないし虐殺された者も多数に上った。
一方、選挙権が拡大したことによって合法無産政党に活動の道が開かれた。1925年12月、農民労働党が結成された。しかし、背後に共産党の影があることを理由に、結党3時間後に禁止された。改めて26年3月、労働農民党(労農党)が結成された。しかし、同党が出発後、左派に門戸を開放して戦闘化の傾向をみせ始めると、たちまち分裂がおこった。同年12月に右派は社会民衆党(社民党)を結成し、総同盟を支持基盤とし、反共主義の立場を明らかにした。中間派は日本労農党(日労党)を結成し、総同盟を分裂させた日本労働組合同盟を支持基盤とした。このほかに農民運動家の平野力三(りきぞう)は10月に日本農民党を結成した。このように、合法無産政党は思想潮流ごとに分立した。[塩田庄兵衛]
恐慌下の「合理化」反対闘争

1927年(昭和2)に始まった金融恐慌、29年秋アメリカから始まった世界大恐慌に息つくひまなく襲われて、日本資本主義は深刻な危機を迎えた。失業者は250万人といわれた。「産業合理化」の掛け声のもとで賃下げと首切りが労働者を襲った。大企業は経済界への支配力を強め、国家権力と癒着して国家独占資本主義の体制を固めていった。この時期に、日本軍部の中国侵略が開始された。27年5月、中国革命の進展を妨害する目的で山東半島への出兵が強行された。これに反対して「対支非干渉」を主張する反帝国主義・反戦・平和擁護の統一行動が展開された。
1926年12月、日本共産党は非公然の第3回大会を開いて再建した。翌27年、正式に採択した最初の綱領的文書として「日本問題に関する決議」(二七年テーゼ)を決定した。二七年テーゼは、日本の革命はブルジョア民主主義革命から社会主義革命に急速に転化する見通しをもっていると規定した。そして28年2月1日に中央委員会機関紙『赤旗』(当時は「せっき」と読んだ)を秘密出版物として創刊した。これに対して、日本の革命は直接に社会主義革命を目ざすと主張するグループは1927年12月、雑誌『労農』に結集した。日本共産党と労農派との間に、革命の戦略をめぐる論争が展開された。
1928年2月に第1回普通選挙が行われ、無産政党議員が初めて議会に進出した。その直後、治安維持法が発動されて、全国で約1600人の共産党員やその支持者が検挙された(三・一五事件)。そして労農党、評議会、無産青年同盟の左翼3団体は4月10日に結社を禁止された。さらに翌29年、約1000人が治安維持法によって検挙されて共産党は甚大な打撃を受けた(四・一六事件)。戦闘的な合法無産政党としての労農党の再建運動は難航を重ね、29年に結成されたいわゆる新労農党(正式名称は労農党)も発展することができず、やがて31年7月、合法無産政党の合同体である全国労農大衆党のなかに右派の社会民衆党の一部および中間派の全国大衆党とともに解消していった。評議会禁止後の左翼労働組合として、1928年12月、日本労働組合全国協議会(全協)が組織された。全協はプロフィンテルンに加盟して国際連帯の強化を図ったが、事実上、非合法状態を余儀なくされ、34年ごろ消滅状態に陥った。
昭和大恐慌下の「合理化」反対闘争は長期・激烈なものとなった。長野県岡谷(おかや)市の山一林組(やまいちはやしぐみ)製糸工場、千葉県野田市の野田醤油(しょうゆ)、鐘淵(かねがふち)紡績会社の京阪神を中心とする各工場、東洋モスリン(洋モス)亀戸工場、川崎市の富士紡績工場の「煙突男」、東京の芝浦製作所、東京市電その他に次々と賃下げや解雇に反対する争議が起こったが、資本の壁を突破することは困難であった。[塩田庄兵衛]
十五年戦争と労働運動

1931年9月に始まった満州事変から、37年7月に始まった日中戦争、41年12月に始まった太平洋戦争を経て、45年8月の敗戦に至る十五年戦争の拡大に反比例して労働運動は衰退し、やがて一時的消滅状態に陥った。日本の支配層は恐慌の打撃を侵略戦争によって解消することを図り、ドイツ、イタリアのファシズム権力と軍事同盟を結んで第二次世界大戦を起こしたのであった。経済の軍事化に伴って軽工業中心から重化学工業中心への産業構造の転換が推進され、景気は一時的に刺激された。1938年の国家総動員法は、すべての物的・人的資源を戦争目的に動員する権限を政府に与えたが、それには労働力の強制的徴集や労働争議禁止の権限も含まれていた。労働時間の延長、実質賃金の低下が押し付けられた。1936年以来敗戦後までの10年間、メーデーは禁止された。当時の労働組合の組織状況は、組織人員42万人(1936)、組織率7.9%(1931)が最高記録であった。
満州事変が始まると、労働運動の右傾化が進んだ。右派幹部は「現実主義」を唱え、「争議最少化」の方針をとって闘争を抑えた。1932年9月には、労働戦線の右翼的再編成を実現して日本労働組合会議が結成された。社会民衆党は戦争協力の立場をとり、32年1月に「反ファシズム、反共産主義、反資本主義」を唱え、反共産主義に焦点をあわせた「三反綱領」を採択した。中間派の全国労農大衆党は、戦争反対を唱えはしたが、反共産主義を強調した。そして両党は32年7月に合同して社会大衆党となり、軍部支持、戦争協力の情勢追随の政策をとり続けた。
共産党は反戦闘争に全力をあげ、軍隊内にも組織をつくって活動した。1932年5月、先の二七年テーゼを発展させて「日本の情勢と日本共産党の任務に関する方針書(テーゼ)」(三二年テーゼ)を作成した。これは、天皇制の性格についての分析を深めて、その打倒を中心課題とし、日本革命の性質を社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命と規定した。このような判断と同じ立場にたつ理論家と労農派との間で、日本資本主義の特質をめぐる論争が活発に展開された。しかし弾圧の強化によって33年以降は「転向」者が続出する時期に陥った。35年3月には共産党中央委員会は破壊され、以後敗戦までの10年間、統一的な全国的活動は不可能になった。
コミンテルン第7回大会(1935)で打ち出された人民戦線運動の方針を日本で具体化することを目ざして、1936年2月、モスクワにいた野坂参三・山本懸蔵(けんぞう)は連名で「日本の共産主義者への手紙」を発表し、天皇制軍部ファシスト反対の人民戦線結成を呼びかけた。しかし運動は弾圧によって次々に押しつぶされた。37年12月には人民戦線事件の検挙によってとどめが刺された。
日中戦争が始まると、社会大衆党は「日本民族の聖戦を支持する」立場を表明し、総同盟は「事変中のストライキ絶滅」を宣言して、積極的な戦争協力の姿勢を示した。しかし1940年には社会大衆党も総同盟も情勢の圧力に屈して、自発的解散を遂げて組織を解体した。これにかわって産業報国会(産報)の運動が発展した。1938年7月「労資一体、事業一家」を唱える産業報国連盟が結成され、至る所の事業所に天下りで産業報国会の組織がつくられ、40年11月に大日本産業報国会の結成大会が開かれた。産報は最盛時には580万人の大組織に広がったが、労働者の自主的運動体ではない戦争協力機構であった。こうして敗戦までの5年間、労働運動はほとんど空白のまま「暗い谷間」に閉じ込められた。[塩田庄兵衛]
第二次世界大戦後の日本の労働運動目次を見る

占領下の民主主義運動

1945年(昭和20)8月15日、天皇制軍国主義はポツダム宣言を無条件受諾して降伏した。アメリカ軍の占領下で戦後の「民主化」が進められた。治安警察法、治安維持法などの弾圧法規は撤廃され、特高(とっこう)警察は解体され、政治犯として獄中に捕らえられていた労働運動家は釈放された。日本共産党が初めて合法化し、戦前の無産政党各派も合流して日本社会党を結成した。荒れ果てた国土のうえで労働者は、賃金引上げ、首切り反対、職場民主化を要求して闘いに立ち上がった。産業報国会は解散され、かわって労働組合の結成が急テンポで進んだ。敗戦時にゼロであった労働組合は、45年12月には509組合、38万人を数え、46年6月には1万2000組合、368万人、組織率39.5%に上った。45年12月に制定(46年3月施行)された労働組合法が、その傾向を促進した。やがて46年11月に制定され、47年5月に施行された新憲法(日本国憲法)はその第28条で、労働者の団結権、団体交渉権、ストライキ権の基本的三権を保障することを規定した。
第二次世界大戦後の労働組合は企業別に組織されることを原則としたが、それらを産業別に、さらに全国中央組織(ナショナル・センター)に統一することが図られた。しかし戦前以来の対立が根深く、ナショナル・センターは1946年8月、右派の日本労働組合総同盟(総同盟)と左派の全日本産業別労働組合会議(産別会議)とに分立した。総同盟は85万人を結集し、日本社会党支持の立場をとった。産別会議は156万人を結集し、「政党支持の自由」の原則を唱えたが、日本共産党の強い影響を受けた。
1946年前半は、民主人民戦線運動、幣原(しではら)内閣打倒人民大会、11年ぶりの第17回メーデー(東京で50万人、全国で200万人が参加)、食糧メーデー(25万人)など労働者階級を中心とする大衆的政治闘争も高揚した。労働組合が生産の主導権を握る生産管理闘争も続発し、資本家は「経営権の危機」を叫んだ。同年夏、国鉄・海員の大量首切り計画をストライキ闘争で撤回させたのち、産別会議の主導で賃上げ・権利保障要求を中心に10月闘争が展開され、「闘う産別会議」の権威が確立した。続いて官公労働者が賃上げ統一闘争を組織し、民間産業労働組合と共同して、この経済闘争は吉田内閣打倒、社・共両党を中心とする民主人民政府樹立を目ざす450万労働者の政治闘争に発展した。47年2月1日のゼネスト突入直前、マッカーサー連合国軍最高司令官はストライキ禁止を命令した。一方、この二・一スト闘争を通じて労働戦線統一が各産業部門で進み、3月には全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成されて、産別会議、総同盟を含む446万人、組織労働者の84%を傘下に収めた。
しかし、1947年春以降、二つの世界の「冷たい戦争」が表面化するに伴って、アメリカ占領軍の反共政策が露骨になり、戦闘的労働運動への弾圧が強められ、労働組合の内部にも民主化同盟(民同)と名のる反共運動が組織され、勢力を伸ばした。おりから社会党は、共産党を排除して保守政党と連立内閣をつくった。この状況のもとで共産党の呼びかけで民主主義擁護同盟がつくられ、約1000万人を傘下に収める民主主義擁護と民族独立を唱える統一戦線運動を、48年から50年にかけて展開した。[塩田庄兵衛]
ドッジ・ラインと朝鮮戦争

1948年7月、マッカーサー司令官の指示に基づいて政令二〇一号が公布され、官公労働者からストライキ権、団体交渉権が剥奪(はくだつ)された。これに抗議する国鉄・全逓(ぜんてい)(全逓信労働組合)の職場放棄闘争は、結果的に戦闘的活動家の孤立化を招いた。それ以来、官公労働者のスト権回復が労働運動の課題となり、75年秋には国鉄の8日間連続のスト権回復を目ざすストライキ(スト権スト)が打たれたが、成果をあげることはできなかった。
1948年12月、アメリカ政府からマッカーサー司令官を通じて吉田内閣に伝達された経済安定九原則実施の指令は、49年にドッジ・ライン(またはドッジ・プラン)とよばれる大合理化計画として強行され、国家公務員の「行政整理」、民間産業の「企業整備」で100万人といわれる失業者がつくりだされた。焦点となった国鉄9万5000人の首切りをめぐって、7月から8月にかけて、下山(しもやま)事件、三鷹(みたか)事件、松川事件などの「謀略」を伴う弾圧事件が続発した。49年夏を境に左派は運動の指導権を失い、労働組合運動そのものが衰退した。48年12月の3万6000組合、671万人の組織勢力は、50年6月には2万9000組合、577万人、組織率46.2%へと一挙に後退した(なお、49年6月は3万5000組合、665万人で、その組織率55.8%は戦後の最高記録である)。産別会議の組織勢力は急速に減退し、のち58年2月に解散するに至った。49年12月には産別会議脱退派が集まって全国産業別労働組合連合(新産別)という新しいナショナル・センターを結成した。この年11月にロンドンで国際自由労連(世界労連から分裂した組織)が結成されたとき、5名の反共民同派幹部は占領軍当局者に付き添われて参加した。
1950年6月、朝鮮戦争が始まって、日本はアメリカ軍の前線基地として利用されたが、その前後、左翼勢力に対する強烈な弾圧が加えられた。6月6日、共産党中央委員会全員が追放され、開戦の翌日6月26日から機関紙『アカハタ』(現『赤旗(あかはた)』)は発行禁止処分を受け、共産党は半非合法状態に置かれた。すでに総同盟が脱退して、事実上、産別会議を中心とする左派労働組合の全国結集体となっていた全労連は8月に解散させられ、幹部は追放された。先に1949年秋から50年春にかけて全国で千数百人の学校教職員がレッド・パージ(赤追放)されたが、50年夏には1万2000人以上の労働者が思想・信条だけを理由に官公庁、民間の職場からレッド・パージされた。労働戦線の右翼的再編成の具体化として、50年7月、日本労働組合総評議会(総評)が377万人を集めて結成された。
この時期日本共産党は、コミンフォルム機関紙からアメリカ帝国主義との闘争を避ける右翼日和見(ひよりみ)主義であるとの批判を受けたことがきっかけで、内部の路線対立が激化し、やがて組織分裂にまで発展する「50年問題」の混乱に落ち込んだ。分裂した一方の側は、ソ連・中国の党の干渉を受けて極左冒険主義戦術の採用にまで逸脱した。
1951年秋、サンフランシスコで対日講和条約と日米安全保障条約とが締結され、52年4月28日に発効して、日本は名目上独立国となったが、アメリカ軍の駐留が続くという体制のもとに置かれた。この両条約に対する態度をめぐって日本社会党は左右両派に分裂した。労働組合運動の内部でも意見の対立があったが、1951年3月の総評第2回大会は、全面講和要求、中立堅持、軍事基地提供反対、再軍備反対の「平和四原則」を採択するとともに、国際自由労連に一括加盟の提案を否決した。総評は「ニワトリからアヒルへ」変身したと評された。民同派は左右に分裂し、左派が指導権を握った。講和条約発効後の治安体制確立を名目に、52年春国会に上程された破壊活動防止法(破防法)に反対して、総評は五次にわたるストライキ(参加者1000万人)を含む大規模な統一行動を組織した。この時期、「血のメーデー事件」をはじめ各地に騒擾(そうじょう)事件が続発して、体制再編成期の緊張した情勢を反映した。52年秋、総評傘下の電産(日本電気産業労働組合)、炭労(日本炭鉱労働組合)が長期ストを行った。[塩田庄兵衛]
高度成長と労働運動

1953年には日産自動車、三井鉱山、54年には尼崎(あまがさき)製鋼、日本製鋼室蘭(むろらん)製作所など産業再編成のための首切り「合理化」をめぐって総評傘下に長期の激烈な争議が起こり、また近江(おうみ)絹糸では106日間の人権争議が闘われるなど、労働組合運動の範囲が拡大した。一方、1953年の石川県内灘(うちなだ)、55~56年の東京都下砂川など基地反対闘争が高揚するなかで労働組合が積極的役割を演じた。高野実(たかのみのる)事務局長を中心とする総評指導部は、国民統一戦線的発想に基づく「ぐるみ闘争」に力を入れ、さらに平和経済プランに基づく運動の展開を図った。この運動路線に反対する全繊同盟(現ゼンセン同盟)、海員組合などは総評から脱退して、54年4月、全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、国際自由労連一括加盟を決定した。全労会議は62年4月、総同盟と合流して全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)となり、さらに64年11月、組織を整備して全日本労働総同盟(同盟)となり、右派路線のナショナル・センターとして勢力を拡大した。
1955年を画期に日本資本主義は高度経済成長の軌道にのり、重化学工業を中心とする高度の産業構造と巨大な生産力をもつ経済大国への道を驀進(ばくしん)し始めた。政界も保守合同によって自由民主党の単独安定政権が確立し、左右両派の社会党は再合同した。日本共産党も六全協(第6回全国協議会)を開いて、セクト主義・極左冒険主義を自己批判し、統一の基礎をつくった。総評を中心とする「春闘(しゅんとう)」とよばれる賃上げ要求を軸とする統一行動もこの年から始まり、その後の労働運動のなかに定着するようになった。[塩田庄兵衛]
安保闘争と三池争議

労働組合を中心とする統一戦線的な運動が発展し始めた。1958年には勤評(勤務評定)反対闘争が高揚し、警職法(警察官職務執行法)反対闘争は改正法案を廃案にさせる成果を収めた。前者は、教育への国家統制の強化に反対し、民主教育・平和教育を守ろうという運動であった。第二次世界大戦前の治安警察法の復活に反対しようと呼びかけた警職法反対闘争では、警職法改悪反対国民会議が結成され、全国に1000を超す共同闘争委員会が組織され、450万人が統一行動に参加した。
続いて1960年5~6月をクライマックスとする安保(あんぽ)闘争が展開された。安保改定阻止国民会議に社・共両党、総評など134(のち138)団体が結集(1959)し、全国に約2000の共闘組織がつくられ、1年半以上にわたって23回の統一行動が組織された。6月には三次にわたって数百万人の労働組合員が参加する抗議ストが打たれた。結局、安保条約の批准そのものは阻止できなかったが、岸信介(のぶすけ)内閣を総辞職に追い込み、アメリカのアイゼンハワー大統領の訪日を中止させるという打撃を支配層に与えて、統一戦線運動の力を示した。この闘争に反対する社会党内の右派は分裂して民主社会党を結成した。
安保闘争と並行し、相互に影響しあいながら1960年1~10月、三池(みいけ)炭鉱の人員整理反対闘争が展開された。石炭から石油へのエネルギー革命を唱えて1200人余が指名解雇されたなかに、約300人の労働組合活動家が含まれていた政治的攻撃であった。ストライキは282日間続けられ、戦後最大規模の争議となったが、第二組合がつくられ、激しい弾圧が加えられ、ついに組合側は敗北に追い込まれた。
1960年代に入ると高度経済成長が本格化し、日本はGNP資本主義世界第2位の経済大国になった。60年の国勢調査で、有業人口の50%以上が賃金労働者となったという階級構成の新しい配置も確かめられた。国民の90%が中流意識をもつに至ったといわれるなかで、公害の激化や都市問題など矛盾が噴出し、勤労国民は新しい型の貧困問題にさらされるようになった。
日本共産党は1961年に新しい綱領を採択した。それは、高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に従属している日本の現状を打開するためには、「独立・民主・平和・中立・生活向上を目ざす人民の要求と闘争を発展させて、反帝反独占の民族民主統一戦線をつくりあげ、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破する人民の民主主義革命の達成を通じて、社会主義日本への道を開く」ことが課題であるとして、「二つの敵」との対決を労働者階級と勤労国民に呼びかけた。
[塩田庄兵衛]
労働戦線再編の動向

1970年代なかばに高度経済成長期を終了した日本経済が、円高不況から脱出し、バブル経済の「繁栄期」を経過し、そしてのちに深刻な不況期へと動揺を重ねるなかで、労働運動は低迷の度を加えてきた。その間、賃金労働者数は増大を続け、有業人口の75%を占めるに至ったが、コンピュータ技術者に代表されるホワイトカラー労働者が大幅に増加し、労働組合の組織率は逆に低下し続けた。83年(昭和58)に29.7%と30%を割った組織率は、95年(平成7)6月には23.8%、2002年6月現在20.2%と戦後最低を更新している。ストライキ件数の激減とも関連して、春闘の賃上げ要求獲得率は低調を続け、「管理春闘」という評価が定着した。
経営者側優位のもとで1980年代とともに進行した労働戦線再編成の動きは、89年11月にこれまで労働組合運動の主役を演じてきた日本労働組合総評議会(総評)の解散のあとに、日本労働組合総連合会(連合)と全国労働組合総連合(全労連)とのいわゆる右派と左派の二つのナショナル・センターの結成で新しい局面に入った。そして、その中間に全国労働組合連絡協議会(全労協)が国鉄労働組合(国労)を含んで約30万の勢力で位置していた。1987年4月、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化に伴って日本旅客・貨物鉄道株式会社(JR)各社への雇用から排除された1047名の労働者を支援する運動は、全労協ばかりでなく全労連などによっても続けられ、この時期の注目される運動となった。また社会問題化した看護婦不足問題を軸に、全労連傘下の医療労働者のストライキ闘争などが目だった運動である。
連合は伝統的な「春闘」の呼び名を「春季総合生活改善闘争」と呼びかえ、経済大国にふさわしい生活内容の充実をスローガンに掲げたが、みるべき成果をあげてこなかったことは否定できない。国際的批判を浴びている長時間労働、過労死などの深刻な問題への労働組合の取組みの弱さ、とりわけ大企業中心の連合の積極性の不足がたびたび指摘され、日本の労働問題の矛盾として、自らの運動によってではなく、外圧によって処理が図られるのは奇妙だという批判がある。
日本を取り巻く国際労働運動は世界的な激動のもとで動揺し続けている。資本主義諸国の運動に共通しているのは、不況に伴う失業の増大、賃金抑制政策の圧力のもとでの組織力の低下である。旧ソ連、東ヨーロッパ諸国を中心に運営されてきた世界労働組合連盟(世界労連)は崩壊状態に陥った。また東アジアでは、経済の躍進とその後の通貨不安に伴って労働運動の動向が注目されているが前途は未知数である。[塩田庄兵衛]
『●総論 ▽塩田庄兵衛著『現代労働組合運動論』(1969・労働旬報社) ▽堀江正規編『労働組合運動の理論』全7巻(1969~70・大月書店) ▽『大河内一男集』全8巻(1980~81・労働旬報社) ▽塩田庄兵衛編『改訂 労働問題講義』(1981・青林書院新社) ▽坂本秀行著『マルクス・エンゲルスの労働組合論』(1988・労働大学) ▽大沢正道ほか編『大杉栄全集』全14巻(1995・日本図書センター)』
大杉栄
おおすぎさかえ
1885―1923

大正時代の社会運動家、無政府主義者。明治18年1月17日香川県に生まれる。名古屋陸軍幼年学校を退校して上京、1906年(明治39)東京外国語学校卒業。03年幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)らが興した平民社を訪ね、以後研究会に出席、06年2月日本社会党に参加し、電車賃値上げ反対運動で先頭にたって起訴され、収監される。07年2月日刊『平民新聞』に「欧洲社会党運動の大勢」を発表、直接行動派の立場を明らかにし、幸徳をしのぐアナキズム理解者となる。同年3月クロポトキンの翻訳「青年に訴ふ」が新聞紙条例違反となり起訴され収監、08年1月の金曜会屋上演説事件で再度入獄する。同年6月の赤旗事件では、堺、荒畑寒村(あらはたかんそん)、山川均(ひとし)らとともに2年半の懲役刑を受ける。獄中でクロポトキンの影響から脱し、出獄後は大逆(たいぎゃく)事件後の「冬の時代」下、堺の時機待機論を批判して、12年(大正1)10月荒畑と文芸思想誌『近代思想』を創刊、生の拡充と創造を説き、社会的個人主義を確立していく。14年9月「知識的手淫(しゅいん)」と自嘲(じちょう)して『近代思想』を廃刊し実際運動に踏み切るが、月刊『平民新聞』、第二次『近代思想』は連続して発禁となる。このころ神近市子(かみちかいちこ)と結ばれ、ついで伊藤野枝(いとうのえ)とも結ばれるが、このような恋愛関係は新旧の同志からも批判を受け、16年11月には神奈川県葉山(はやま)の日蔭茶屋(ひかげちゃや)で神近に刺されるという事件を引き起こす。
1917年12月東京・亀戸(かめいど)の労働者街に移り、『文明批評』を、さらに和田久太郎(わだきゅうたろう)、久板卯之助(ひさいたうのすけ)とともに『労働新聞』を創刊、19年10月には第一次『労働運動』を創刊してサンジカリズム運動の先頭にたつ。20年8月日本社会主義同盟の発起人になり、ボリシェビキ派と協同するが、ロシア革命評価などをめぐってしだいに批判を強め、22年9月の日本労働組合総連合大会では自由連合論を支持してボル派と激しく対立。翌大正12年9月16日、関東大震災の戒厳令下、甘粕正彦(あまかすまさひこ)憲兵大尉らにより伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一(たちばなむねかず)とともに勾引(こういん)、虐殺された。[荻野富士夫]
『『大杉栄全集』全12巻・補巻1(1963~65・現代思潮社) ▽大沢正道著『大杉栄研究』(1971・法政大学出版局) ▽秋山清著『大杉栄評伝』(1976・思想の科学社)』

[参照項目] | 甘粕事件

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の大杉栄の言及

【アナーキズム】より

…この後に直接的テロ行動と,アナルコ・サンディカリスム運動との一時期が続くが,19世紀末におけるアナーキズム理論の集大成者はクロポトキンであり,彼は〈無政府共産制〉という標語で平等思想を徹底させ,明治・大正期の日本にも影響を与えた。 日本では明治30年代末に煙山専太郎や久津見蕨村によって無政府主義の紹介がなされているが,社会運動の中でそれを推進したのは,クロポトキンとも文通して1908年に《麵麭(パン)の略取》を翻訳公刊した幸徳秋水や大杉栄らである。このグループは1907年以来〈直接行動派〉と呼ばれるが,20年代初頭のアナ・ボル論争を経て勢力は衰退し,大正末から昭和初めにかけては無産運動の周辺部にとどまった。…

【アナ・ボル論争】より

…第1次世界大戦後,日本の社会運動内部に生まれたアナルコ・サンディカリスムとボリシェビズムの2潮流による思想上,運動上の対立。大戦後労働運動が高揚し,そのなかに1920年ころから大杉栄らのアナルコ・サンディカリスムの思想が強い影響力をもつようになった。一方1917年におこったロシア革命の研究が山川均らによってすすめられ,ボリシェビキの影響もみられるようになった。…

【甘粕事件】より

…関東大震災後の1923年9月16日に東京憲兵隊麴町分隊長甘粕正彦らが無政府主義者大杉栄らを計画的に殺害した事件。大震災による戒厳令のもとで亀戸事件など軍隊・警察による社会主義者迫害が続いたが,甘粕は東京憲兵隊特高課の森慶次郎曹長と大杉を探索し,この日大杉が妻伊藤野枝と神奈川県鶴見に弟の勇を見舞い,7歳のおい橘宗一をつれて帰宅するところを東京憲兵隊本部に連行し,3人を絞首し,死骸を構内の古井戸に埋めさせた。…

【伊藤野枝】より

…また結婚問題を通じて家族制度の矛盾を痛感し,平塚らいてうを中心とする青鞜社に参加,著作活動で〈新しい女〉の一人となった。1915年後期《青鞜》を主宰,アナーキストの大杉栄に近づき弱者の正義に生きようと,16年,夫と子を捨て世間の非難をこえて彼と同棲し,《文明批評》《労働運動》などを共に編集する。また労働運動にも参加,赤瀾会の結成に加わった。…

【神近市子】より

…1914年《東京日日新聞》の記者になったころから社会主義者と交流。多角恋愛に悩んで,16年葉山日蔭茶屋で大杉栄を傷害,2年の刑を受けた。出獄後は文筆生活に入り,《女人(によに

 

幸徳秋水

没年:明治44.1.24(1911)
生年:明治4.9.23(1871.11.5)
明治期の社会思想・運動家。高知県中村町の薬種業,酒造業篤明と多治の次男として生まれる。本名は伝次郎で,秋水は師・中江兆民から授かった号である。生後1年たらずで父を失い,維新の社会変動のなか家業も没落し,しかも生来病気がちで満足な教育を受けられなかったことが,秋水をして不平家たらしめ,他面では理想主義に向かわせた。高知県という土地柄もあり,幼くして自由民権思想の影響を受けた。明治21(1888)年より中江兆民のもとに寄寓し,新聞記者となることを目ざし,『自由新聞』『中央新聞』に勤めた。『万朝報』記者時代(1898~1903),社会主義研究会,社会主義協会の会員となり,社会主義者としての宣言を行う。34年5月,日本で最初の社会主義政党である社会民主党の創立者のひとりとして名を連ねた。秋水の著作『社会主義神髄』(1903)は当時の社会主義関係の著書としては最も大きな影響を与えた。36年,日露戦争を前にして戦争反対を唱え,堺利彦と平民社を結成。平和主義,社会主義,民主主義を旗印として週刊『平民新聞』を刊行したが,38年筆禍で5カ月間入獄。出獄後渡米し,権威的社会主義を否定し,クロポトキンなどの影響を受けて無政府共産主義に傾く。39年帰国。43年,説くところの政治的権力と伝統的権威を否定する思想,並びに労働者による直接行動の提唱が,宮下太吉らの明治天皇暗殺計画に結びつけられ,いわゆる大逆事件の首謀者とみなされ,絞首刑に処せられた。<著作>『廿世紀之怪物帝国主義』『基督抹殺論』『幸徳秋水全集』<参考文献>飛鳥井雅道『幸徳秋水』,神崎清『実録幸徳秋水』,大原慧『幸徳秋水の思想と大逆事件』,塩田庄兵衛『幸徳秋水』

(山泉進)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

こうとくしゅうすい【幸徳秋水】

1871‐1911(明治4‐44)
明治期の社会主義者。高知県生れ。本名伝次郎。土佐の自由民権運動の熱気のなかで育つ。17歳で上京したが,保安条例により東京を追放され,大阪で中江兆民の学僕となる。主権在民思想や抵抗権・革命権の思想を兆民から受け継ぐだけでなく,人格的感化も大きく,文章家としての資質もみがかれた。再び上京して国民英学会卒業後,各地の新聞記者生活を経て,1898年《万朝報》に入社するころから社会主義思想に関心を寄せ,社会主義研究会に入会した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

こうとくしゅうすい【幸徳秋水】

(1871~1911) 社会主義者。本名、伝次郎。高知県生まれ。「万朝報」記者。日露戦争に反対し、平民社をおこして「平民新聞」を刊行。のち無政府主義者となり、大逆事件の主謀者とされて処刑された。著「社会主義神髄」など。

 

 

全日本産業別労働組合会議
ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ

略称産別会議、単に産別ともいう。第二次世界大戦後の労働組合の復活の結果、1946年(昭和21)8月19日、21単産、162万9669人で結成された全国中央組織(ナショナル・センター)。占領軍・政府の弾圧と民主化同盟(民同)による分裂とで組織が縮小し、58年2月15日解散した。[松尾 洋]
結成経過と闘争の展開目次を見る

戦後いち早く各地で共産党員が労働者の組織化に着手し、神奈川県でこのような活動を通じて結成された鶴見(つるみ)造船所労働組合の呼びかけで、1945年12月神奈川県工場代表者会議が開かれ、同県労働組合協議会が結成された。これを最初として東京城南をはじめ各地域、関東各県にも労働組合協議会が結成され、これらが合流して翌46年1月関東地方労働組合協議会(関東労協)が結成され、産業別単一組合結成の方針が決められた。一方、同年2月に結成された日本新聞通信放送労働組合が、炭鉱、印刷出版、金属などの産別単一組合・同準備会および関東労協に提案して、産別会議準備会が成立した。このような経過で産別会議は結成され、共同闘争の機関としての機能を果たすことになったが、府県連単位に結成された日本労働組合総同盟(総同盟)とは組織形態が異なっている。
産別会議は世界労働組合連盟(WFTU)の基本綱領に基づく10項目の戦闘的綱領を掲げ、政党支持の自由などを原則としたが、結成の経過からも共産党の影響を免れなかった。結成直後の1946年9月には国鉄労働組合(国労)・全日本海員組合(海員)の大量人員整理反対闘争、10月には産別加盟民間単産の賃上げ要求を中心とする十月闘争、年末から翌47年にかけては越年資金、賃上げ要求などの官公庁260万組合員の二・一スト計画と、これを支援する400万人に上る全国労働組合共同闘争委員会(全闘)の組織と活動、二・一スト禁止後の全国労働組合連絡協議会(全労連)の結成などがめまぐるしく続いた。産別会議は、つねにこれらの闘争の先頭にたって活動したので、二・一スト禁止は産別会議、共産党の労組引き回しの結果だとの批判が起こり、47年4月に行われた総選挙、第1回参議院議員選挙に産別会議議長聴濤克己(きくなみかつみ)をはじめ多くの幹部が共産党または無所属で立候補したが、すべて落選した。産別会議は、個々の情勢を考慮せず共同闘争を機械的に行ったことなどを自己批判し、これを7月の臨時大会に提出したが、これは否認され、かえって労働者の必需物資確保を基本とする生活給確立と、ゼネストにかわる職場・地域における自主的な地域闘争の決行という強い方針が採用された。[松尾 洋]
弾圧と分裂目次を見る

1947年4月選挙で第一党になった日本社会党参加の三党連立による片山哲内閣、芦田均(あしだひとし)内閣が続き、1800円ベース(のち2920円ベース)の業種別平均賃金の実施が強行され、全逓信(ていしん)従業員組合(全逓。現全逓信労働組合)などの地域闘争が激化し、食糧買出しのための集団欠勤と相まって職場は混乱し、48年3月には全逓が全国ストを決行しようとしてふたたび占領軍に禁止された。7月マッカーサー連合国軍最高司令官が公務員の争議権の剥奪(はくだつ)を指示する書簡を芦田首相に送り、政府は政令二〇一号を公布したので、国鉄・全逓労働者の職場離脱闘争が展開された。また、民間単産でも産別会議加盟日本映画演劇労働組合(日映演)指導の東宝争議をはじめ多くの激しい争議もあり、騒然たる情勢が続いた。産別会議は、つねにこれらの闘争の渦中で活動したが、48年2月反共・組合民主化を主張する民主化同盟が結成され、大きな困難に直面した。
産別会議は当初民同の存廃に関与しないとの方針を決めたが、民同の運動はたちまち産別系・中立系組合に浸透し、その足元を掘り崩していき、1948年11月の産別会議第4回大会は産別民同の解散を決議したので、産別民同は全国産業別労働組合連合(新産別)の結成に乗り出した。このような分裂の動きは、WFTUの分裂と国際自由労連(ICFTU)の結成運動の反映でもあった。翌49年にはアメリカ政府の指示する経済九原則と、ドッジ・ラインの実施による超デフレ政策で、翌50年にかけて行政整理・企業整備に基づく官公庁、民間産業の大量人員整理が行われ、この過程で、産別会議を支えてきた共産党員・左派活動家が解雇された。さらに50年6月からは、朝鮮戦争を契機にレッド・パージが強行され、共産党員・同支持者は根こそぎ職場から追放された。こうして産別会議加盟の各単産の指導権は民同に移り、産別会議を脱退した単産は日本労働組合総評議会(総評)結成の主力になった。産別会議は、50年6月には8単産、32万1200人、51年12月には5単産、4万1380人、53年以降はわずか2単産、1万人前後になってしまった。
これより先1950年4月産別会議執行委員会は、総同盟をはじめ民同派組合の脱退した全労連への発展的解消を決議したが、8月全労連が解散を命ぜられたため存続し、日本唯一のWFTU加盟組織として国際連帯運動や労働組合の統一行動などの活動を行った。55年日本共産党の第6回全国協議会(六全協)が産別会議引き回しを自己批判したこと、産別会議加盟全日本金属労働組合(全金属)と総評加盟全国金属労働組合(全国金属)とが合同を決定したことなどが重なり、58年解散した。[松尾 洋]赤色追放。共産党員やその支持者またはそれとみなされた者が、その思想信条や政治的立場を理由に、公職や企業から不当に解雇・追放されること。1950年代アメリカマッカーシズムによる赤狩りや日本で行われた共産党員とその支持者の追放がおもな例。
朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)の直前である1950年5月、マッカーサーは共産党を法の保護外に置くことを示唆し、6月6日には日本共産党中央委員会全員24名、『アカハタ』編集幹部17名の公職追放を命じ、いっさいの集会・デモを禁止した。朝鮮戦争開戦とともに公職追放の範囲は、新聞・放送関係、電気・運輸などの重要産業部門のすべてに拡大し、9月1日の政府決定によって政府機関や公共部門にまで及んだ。追放指名者は占領軍の示唆や口頭指示を口実に政府と経営者の手で決定され、解雇された労働者は米軍の憲兵や武装警官隊によって実力で職場から排除された。このようにして、不当に解雇・追放された者は、公務員関係1177人、民間産業1万0972人に上る。このとき、裁判所は、占領軍の命令を憲法に優先するものとして身分保全の申請を却下し、労働委員会も審問拒否の態度をとった。共産党は内部分裂と混乱のために有効に対処しえず、社会党や大多数の労働組合もこの不当解雇を傍観した。さらに、一部の右翼的組合幹部は当局や経営者に積極的に協力し、日本の労働運動は大きな打撃を被った。[五十嵐仁]

 

Share on Facebook0Share on Google+0Tweet about this on Twitter
カテゴリー: トピックス, 人権, 住民の暮らしに直結する課題, 全国・中央・北信越, 反戦・平和, 護憲・憲法改悪反対・教育・歴史 パーマリンク

コメントは停止中です。