集団的自衛権行使容認に向けた安保法制懇報告および安倍首相の与党内協議指示に対する抗議声明
本日、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の報告が出され、それを受けた安倍晋三首相は、歴代内閣が戦後一貫して認めてこなかった「集団的自衛権行使」を容認するよう憲法解釈の変更へ向けた検討を与党に求めた。安保法制懇は、有識者で構成すると言いながら14人の構成員のすべてが集団的自衛権行使容認の立場であり、その議論は、安倍首相の意図に沿って、どのように「集団的自衛権行使の容認」に向けて「戦争への道」を開くかにあった。日本の安全保障政策の成り立ち、歴史的経過、国民世論、外交上の経緯など、多くを無視した極めて狭隘な議論と結論である。平和フォーラムは、このような一方的な報告に基づく、国民的議論なしの集団的自衛権行使容認という憲法解釈の変更を決して認めない。
報告は「国家の使命の最大のものは、国民の安全を守ること」とし、「憲法論で、安全保障政策が硬直化すれば、憲法論のゆえに国民の安全が害されることになりかねない」として憲法解釈の変更を迫っているが、これまで歴代内閣が集団的自衛権の行使は憲法に反するとしてきた経緯、そのことを日本社会がどう受け止めてきたか、世界とりわけ東アジア諸国がどう評価してきたか、などの歴史的経過には触れていない。しかも、戦後社会が一貫して守り続けた憲法解釈を変更することについて、「政府が新しい解釈を明らかにすることですむ」と述べている。そこには、平和を求め日本の戦後復興を支えた市民の思いは見えてこない。憲法が規定する主権者に対して、70年を迎えようとする戦後を否定する憲法解釈が閣議決定ですむとするのは、立憲主義の否定であり、憲法の根幹を壊すものである。
また、集団的自衛権行使の具体的行動の事例として、これまでの4類型に加え6つの事例が並べられているが、しかし目新しいものではない。ミサイル迎撃や米艦船の防護などは現実的ではないし、どの項目も、それにより集団的自衛権行使の必要性を引き出せるものではない。国連の集団的安全保障措置への参加には憲法上の制約はないとして、国連多国籍軍への参加を企図しているが、そのことをそもそも誰が要求しているのか。日本はこれまで憲法の許容する範囲の中で、多国籍軍への参加に踏み込まないとし、国連の平和活動に参画してきた。平和フォーラムは、武力を持っての貢献ではなく平和的貢献を主張してきた。日本国憲法は、そのようなあり方を規定しているのであって、銃を向けての平和貢献を容認してはいない。
「政府の行為によって」戦争に参加することは、日本の若者が死ぬということであり、そのことは日本の戦後社会のあり方を根底から覆すことだ。報告は、「国を守る」ことのみに拘泥し、個人の死について何ら言及されない。「国を守る」ために侵略戦争・戦場へとかり出され、意に沿わぬ死を強制されてきた社会への反省が、日本国憲法と日本の安全保障のあり方の根源にある。そのことを、平和フォーラムは決して忘れない。
「敗北を抱きしめて」で日本の戦後を描きピューリッツア賞を受賞したジョン・ダワー・マサチューセッツ工科大学教授は、5月10日の朝日新聞で「日本は米国の軍事活動に関与を深める『普通の国』ではなく、憲法を守り非軍事的手段で国際問題の解決をめざす国であってほしい」と述べている。この考えこそが日本のあり方の根幹になくてはならない。平和フォーラムは、そのことを基本に、戦争への道を開く集団的自衛権行使容認への憲法解釈の変更を阻止するため、「戦争をさせない1000人委員会」とともに全力でとりくんでいく。