「えひめ丸事件から憲法・安保問題を考える」

講演タイトル「えひめ丸事件から憲法・安保問題を考える」
講師 前田哲男(東京国際大学教授、軍事評論家)

注.この講演録は、2001年4月27日に開催した「憲法改悪を許さない県民集会」における記念講演の内容を要約したものです。

「えひめ丸事件」の刑事処分不追及には納得できない

ご承知のとおり、「えひめ丸事件」に対する米海軍の採決が4月24日に行われました。
大方の予想通り「お構いなし」、本人の依願退職という形で決着が図られ、日本政府もそれを受け入れる姿勢を示しています。
ところが、この採決が行われた同じ日に自民党の総裁予備選挙が行われ、マスコミの関心は圧倒的にそちらの方へ行ってしまいました。結果としてまさにテレビジャックともいえる小泉フィーバーの状況が、あれだけの「えひめ丸事件」を隠してしまった。もっと言えば、日米安保の本質に迫ることができるような出来事であったにも関わらず、その事について考える大切な機会を奪ってしまったということができると思います。
なお、今日はレジメを準備しましたが、若干内容を変更し、はじめに小泉内閣における憲法と日米安保の位置付けを考え、途中、在日米軍基地・米軍のおごりとたるみを見る中で「えひめ丸」問題に触れ、そしてそれはどのような方向に私たちを導いていくことになるのか、それを阻止するために何が必要なのかという組み立てで話していきたいと思います。

小泉内閣はまぎれもない改憲志向内閣

改革断行内閣というスローガンを掲げて発足した小泉内閣ですが、実際は「改悪断行」であり、「改憲断行」を念頭に置いたものであることを見逃してはなりません。今のところ小泉さんの個人的な人気と、改革・脱派閥イメージが自民党政治の矛盾をうまく隠していますが、それは薄いバンドエイドのようなものであって、決して治療薬ではない。つまり、ただ単に視界をさえぎるものでしかなく、そのバンドエイドをめくれば自民党が本質的に持っているもの、そして日米安保がめざす方向性が小泉さんの手で、あるいは田中真紀子さんの手でより強力に進んでいくということをしっかりと見ておく必要があります。
ところで、新内閣の方向性、キーワードとして注目すべき熟語が二つ出てきました。一つは、集団的自衛権の行使に新しい方向性を示す。もう一つは、有事法制に積極的に取り組むという小泉さんの発言です。
先般、海南島沖で中国の戦闘機と米軍の偵察機による接触事故が発生しました。この事故を題材にして「集団的自衛権」というものを考えてみたいと思いますが、仮に両国が戦闘状態に突入した場合、ほぼ自動的に航空自衛隊、海上自衛隊が米軍の応援部隊としてそこに加わっていくというのが集団的自衛権の行使であります。まぁ、今のところそうした行動は違憲であり、行なえないという解釈がなされておりますが、いずれにせよ、集団的自衛権の行使というのは、日本が侵略される、日本が攻撃されるという事態ではなく、外国における事態、国外における戦争に日本が加わることだというふうにご理解いただきたいと思います。

「集団的自衛権」と「有事法制」はコインの裏表の関係

集団的自衛権の行使と有事法制はまさにコインの両面のような関係にあります。つまり、外国での戦闘を想定した場合、これまでと違う自衛隊の使い方をすることがその前提で、当然それに対応する軍事基盤、戦闘支援体制が必要になってくる。そして、それらを組織化するために従来にない法律、有事法制といわれるものが必要になるという関係です。
したがって、私たちはそういう事態、方向性が新内閣の誕生とともにより鮮明になってきた、内閣が掲げる課題として具体的に取り上げられてきたということにもっと注目しなければならない。薄いバンドエイドを透かして見る眼力を今のうちにしっかり獲得して本質を見なければならないということを強く訴えたいと思います。

アメリカからの強い圧力

では次に、なぜ日本が、あるいは自民党が集団的自衛権の行使、有事法制制定という反憲法的な方向に走らざるを得ないのか、その背景を見てみたいと思います。
もちろん、この背景を探るためにはいろんな分析が必要ですが、何と言っても一番大きな要因はアメリカからの圧力です。アメリカの戦争感が変わった、軍事戦略が変わった、そして世界戦略が変わった。それにもとづいて、従来はソ連を向き、反共の軍事同盟であったはずの日米安保条約が今や全世界を向き、地域紛争を抑圧し、地域紛争に介入するための形に変わったということです。
具体的にアメリカの戦略変更が現れはじめたのは95年からですが、97年にはそれが「ガイドライン」という形で結実し、さらにそれに対応する「周辺事態法」が国内法として制定される。そして、その延長線上に集団的自衛権の行使と有事法制の制定が準備されているという図式です。
特に、集団的自衛権の関係で言えば、日本の基地をベースにし、自衛隊をその一翼に加えたいというのがアメリカ側の本音であり、何度も言いますが、そのために日米安保を対ソ反共という性格から対地域紛争、オールラウンドの方向性を持つものに変えていく必要があるということです。

えひめ丸事件はたまたま起きた海難事故ではない

えひめ丸事故はハワイで発生した事故です。つまり、アメリカの領海内でありましたし、なおかつ日米共同訓練=安保協力の中で発生した事故ではありませんから、一見するとそれは不幸な一過性の出来事のように思われがちです。実際、日米両政府はそのように描き出すことによって、問題の沈静化を図ったわけであります。しかし、えひめ丸を実際に引き裂いたグリーンビルは日本にも入港したことがありますし、また、グリーンビルと同じロサンゼルス級の原子力潜水艦にいたっては週に1回のペースで横須賀佐世保、沖縄に入ってきています。つまり、本質的には横須賀沖であのような事故が起こったとしても何の不思議もないことですし、佐世保や沖縄で起こる可能性があったというふうに受け止める必要があると思います。
えひめ丸事故は緊急浮上訓練中に発生したわけですが、例えば神奈川県の相模湾で同様な訓練、しかも今回の場合と同じ「体験搭乗」付きの訓練を行っていたことが明らかにされています。相模湾には、ハワイ沖と同じような潜水艦のための訓練水域が設けられ、そこでアメリカの原子力潜水艦は緊急浮上訓練を含む様々な訓練を行い、そこに日本の民間人が招待されたことも何度かある。こうした事実をあらためて知りますと、遠いところでたまたま起こった不幸な事故として見るだけでは明らかに不足であるということがよくおわかりいただけると思います。

傲慢な在日米軍の行動

えひめ丸事件に前後して、大分県の日出生台演習場ではアメリカの海兵隊が日本の民間人に155ミリ榴弾砲の引き縄を引かせ、実際に大砲を発射させるという出来事が起こりました。仮にこうしたことが自衛隊基地の中で行われますと、それは銃砲・刀剣類等所持取締法違反になるわけですが、米軍であれば「米軍の公務中の行為」ということで何のおとがめもない。つまり、米軍基地では国内法が適用されないという実態があり、さらにはその国内法の中に「水先法米軍特例法」「関税法米軍特例法」「航空法米軍特例法」といった優遇的な法律が定められております。
例えば「航空法米軍特例法」によって、自衛隊であれば絶対に行うことができない低空飛行訓練が日常的に行われているという実態があります。島根県の桜江町という山奥の町ですが、そこではこの低空飛行訓練による衝撃波によって学校の窓ガラスが17枚割れるという出来事が実際に起きていますし、なかには自動車のリアウインドウが割れたというケースもあるくらいです。しかし、共通して言えることは実際に補償が行われるのはごく限られたケースでしかないということです。大抵のケースは因果関係を立証できない。物凄い音とともにやってきて、一瞬のうちに飛び去ってしまうわけですから、それが米軍機によって行われたということを証明するのは極めて困難です。そういうわけで、低空飛行訓練による被害の実態は実際どれくらいになるのかわかりませんし、低空飛行訓練自体、正規に定められた空域で行われているわけではありませんから、事故でも起きない限り、そこが低空飛行訓練のルートてあるということはなかなかつきとめられないのが実態です。
冷戦終了後の状況の中で、特に目立つようになったのが米軍艦船の民間港への寄港であります。日米安保条約にもとづく地位協定、基地提供取り決めにもとづいて、日本のどの港であろうとそこに艦船を乗り入れる権利を有していると米側は主張し、日本側もそれを支持しています。日本における米軍基地といえば、沖縄や厚木、横須賀、岩国、佐世保などであり、それ以外に米軍基地はないと考えておられる方が多いと思います。しかし、それは正確ではありません。日米地位協定によれば、日米で合意すれば日本のどこにでも基地を置くことができると書かれています。いわゆる全土基地方式といわれるものですが、これによって基地を増やすことも可能だし、性格を変えることだって出来る。例えば、小松基地は自衛隊の基地ですが、日米で合意すれば一瞬のうちに米軍基地になることが出来るということを是非知っておいていただきたいと思います。

新ガイドライン(97年)の本質

先ほども少し述べたように、97年に新ガイドラインが制定されました。新たな基地の提供、米軍による自衛隊基地の使用、そして民間空港・港湾施設の一時使用が主な三要素ですが、それに加えて政府および地方公共団体並びに民間の能力、つまり場所だけではなくて能力の活用をも日本は約束したわけです。
もともと地位協定によって、アメリカは全土基地方式という非常に特権的な権利を持っていたわけですが、この新ガイドラインによって、全土基地方式を文字通り全土に、しかも随意の時に適用する条件が整ったということです。実際、97年のガイドライン制定前後から、日本の民間港における米軍の親善訪問が活発になってきた。新ガイドライン交渉が進む中で、デモンストレーションのような、あるいは地慣らしのような形で民間港への訪問がはじまり、ガイドライン終了後には当然の権利として全国各地で行われています。
つまり、何を言いたいかといえば、固定的な在日米軍基地だけではなく、自衛隊基地があるところはもう自動的に米軍基地としての潜在的な性格を持っているということであり、港を持っているということは、そこにアメリカの軍艦が入ってきたとしても何の不思議もない。むしろ入ってくる権利があるんだということになってきたというのがガイドラインの枠組みであります。

周辺事態法(99年)の本質

次に周辺事態法の本質について考えてみたいと思いますが、一言でいえば前述したガイドラインを実現する、実行するための法律であるといえます。日本以外の場所で起きた戦闘行為に対して、「後方支援」という条件付きではあるが自衛隊が参加する。そして、そういった米軍および自衛隊の活動に対して、地方公共団体の長が、その有する権限の行使を国から要請された場合、それを引き受けねばならないというものです。
港を例にとって説明しますと、国が金沢市長に対して金沢港の使用を要請した場合、市長にはそれを引き受けることが求められるという話ですが、そもそもこれまでは自治体が港湾の管理を行うという原則が日本の港における基本的なルールとして続いてきました。
言うまでもなく、憲法における地方自治の精神をそのまま引き継いだもの、実体化したものという考え方でして、例えば神戸市なんかはこの原則に立って、神戸港に入港する外国の軍艦に対して、その軍艦が核兵器を積んでいないという非核証明書を提出しない限りは入港を認めないという条例を作りました。その結果、神戸港には1975年の条例制定以来、アメリカの軍艦はただの一隻も入港していません。ところが、今回の周辺事態法では地方公共団体の長に対して必要な協力を要請するということを決めましたので、両者は完全に矛盾しています。実際に多くの自治体から政府の態度に対する異議申し立てがなされ、また、それを適用しないというふうに表明した石垣島のような自治体もあるわけですが、いずれにせよ政府はガイドライン、周辺事態法でそのような方向性をアメリカに約束したわけですから、今や憲法の規定にのっとった港湾の民主的な運営、自治管理は崩れつつある。そしてこれがもっと進んで有事法制というところにまで行くならば、それは罰則をもって強制されるようになることは必然的な流れであります。

集団的自衛権の行使、有事法制に突き進む小泉内閣

冒頭にも申し上げたとおり、小泉さんは「集団的自衛権」と「有事法制」をキーワードとして掲げました。集団的自衛権の行使、つまり国外で戦争ができる、外国と交戦できる、そのような自衛隊に憲法解釈を変える。とりあえずは憲法解釈を変える。やがては憲法そのものを変えようとするわけでしょうが、今は間に合わない。ガイドラインや周辺事態法といった対米公約を実現するのに、憲法改正では遅すぎる。とりあえずは、集団的自衛権の行使は憲法違反であるとしてきた岸政権以来の解釈を変更する。そうすれば周辺事態法が定め、ガイドラインが約束した国外での戦闘、外国との交戦に自衛隊を差し出すことができる。そして、そのような国外での活動を行うためにこれまでになかった有事法制をつくるというこの二つの流れに小泉政権の危険な本質を見ることができるわけで、いずれにせよ、これまでにない速度と圧力で物事が変わろうとしていることだけは確かだと思います。

有事法制でどんな現実がやってくるのか

有事法制といいますが、実際、言う方にしても聞く方にしてもどんな中身をさしているのかよくわからないというのが現実です。 政府の側も、国家の緊急事態に備えて法律を持っているのは当然である。治に居て乱を忘れず、平和なうちにそれを作っておく必要があるんだというような言い方しかしません。
しかし、私たちはそんな建前の有事法制論議ではなく、有事法制とはどういう現実なのか、具体的にどんな法律なのか、そしてそれはどういう事態を市民に、地域に、民間に与えるものなのかを具体的に質す中で議論していかないとダメだと思います。つまり、抽象的な有事法制論議あるいは単に合憲か違憲かという議論では必ず負けてしまう。治に居て乱を忘れずという言葉の説得力は非常に強いものがあります。今は平時だ、だから今のうちに有事の備えをしておく必要があるという建前に対して、我々は反論できないと思います。形式論議ではまさにその通りなわけですから。
では、有事法制とはどんな現実なのか。労働組合にとってどんな現実なのか、新聞社にとってどんな現実なのか、交通運輸労働者にとってどんな現実なのか、我々ニュースを読む者にとってどんな現実なのか。このようにして具体的に有事法制の中身を探っていくならば、この法律が持つ恐ろしさ、同時にそれが憲法と真っ向から対立するものであることが明らかになってくると私は考えております。

かつて体験した「有事法制」の現実

 1937年に「国家総動員法」という有事法制ができて以降、日本の有事法制は勅令、天皇の命令によって次々にできるようになってきました。ちょっと調べてみれば誰にでもわかることですが、まずやられたのは労働組合であり、その次は報道、新聞の検閲です。
労働組合に関して言えば、1938年以降の状況を見れば一目瞭然でして、本当に見事なくらい数が減っていって、最後は労働組合の解散です。日本海員組合が一番最後でしたが、こうしたことはきれいに年表で読み取ることができます。同時にマスコミが規制される。県紙、一つの県に新聞が一つになったのは国家総動員法以降のことですが、この背景には検閲しやすいように各県の警察部が指導したという現実があります。ちなみに、それ以前は一県一紙どころか一町一紙ぐらいの数の新聞があったわけですが、それがある時からきれいに一つになる。つまり、有事法制というのはこうした国家総動員法下の状況を見れば明らかなとおり、はじめに何がきて、その次に何がくるという筋書きが過去の経験によってすでに確立されていると見ておくことが大切だと思います。

危険な潮流を皮膚感覚でとらえることが大切

 集団的自衛権と有事法制をキーワードにしながら、今日的な憲法の危機的な状況を検証してきましたが、ただ単にそれは憲法違反であるから憲法を守れということだけで押し返すことは困難だと思います。今必要なのは、憲法を守るという意識を少し皮膚感覚のところ、現実感覚のところ、わかりやすく言えば何が起こるのかという現状想定のところまで下ろした上でそこから反対していく。つまり、憲法を守れという抽象的な論議ではなく、団結権の問題だ、地方自治の問題だ、情報を受ける側の問題だという具体的なレベルで考え、そこを結集軸にしていくことが大切だと思います。
 確かに今の小泉内閣は実に手強い相手だと思います。けれども、基本的に自民党政治が持っている矛盾を彼はパフォーマンスと個人人気という薄いバンドエイドで隠しているに過ぎない。そしてそれは見透かすことができるし、また私たちは見透かさねばならない。今まさに、私たちの護憲意識が根本から試されようとしていることを最後に訴えて、私の話を終わりたいと思います。