樺美智子はなぜ死んだのか 安倍首相が見ない条約の影 日米安保60年(1)(2)(3)(4)(5)(6)

2020/2/25 07:00 (JST) ©株式会社全国新聞ネット  江刺昭子 女性史研究者

国会構内で亡くなった樺美智子

1960年1月16日朝、都心から羽田空港に通ずるメインストリートではなく、裏道を猛スピードで駆けぬける車列があった。車に乗っていたのは、岸信介首相を首席とする日米新安保条約調印の全権団だった。そのまま滑走路に乗り入れ、午前8時、アメリカに旅立つ。同日夜出発の予定を急きょ繰り上げての慌ただしい旅立ちであった。

「これをおくるフィンガーの見送りは約五十人の報道関係者のほか約百人の関係者だけ、日の丸もただ一本が雨にぬれてポツンと立っていた」(『読売新聞』1月16日夕刊)。記事中の「フィンガー」とは、送迎用のフィンガーデッキのことである。

全学連による実力行使を避けての出発だったが、『毎日新聞』の「余録」はこう評した。

「もとより無用な混乱は避けるにこしたことはない。だがそれを顧慮するあまり、コソコソ逃げ出すように出かけては、第一相手のアメリカは何ととるだろう。これが国民から全権を託された人たちとは、とても認めてもらえまい」

「もし政府に大多数の国民から支持されているとの自信があるなら、もっと堂々たる態度をとるべきだろう。ほかのときとは違うのである。逃げ回っていればすむという場合ではない」

こうしてコソコソと渡米した全権団によって19日、ホワイトハウスで新安保条約の調印式が行われた。それから60年、岸の孫にあたる安倍晋三首相はことし1月19日、署名60年記念式典のあいさつで「日米安保条約は不滅の柱」と胸を張ったが、課題は多い。

改定と同時に定められた日米地位協定は、基地の町に重い負担を強いる。沖縄はとりわけひどい。過去も現在も、基地があることで起きる事件・事故や騒音被害、土壌汚染などに苦しめられている。

まもなく羽田空港の国際便が増便されるが、首都圏の大部分の制空権はいまだに米軍にあり、日本の民間機は自由に飛ぶことができない。

この理不尽な条約を結ぶことに対し、調印前年の59年、非武装中立を唱える社会党と多くの労働組合を束ねる総評を軸にした安保条約改定阻止国民会議(国民会議)が結成され、反対運動をリードした。冒頭に書いた岸の渡米に、国民会議は当初、羽田での行動を計画したが、直前になって回避、日比谷での集会にトーンダウンした。

なぜか。わずか2カ月足らず前の59年11月26日、傘下団体の一つである全国学生自治連合会(全学連)と労働者が、国会に突入し6時間にわたって構内を占拠した。前代未聞、「革命前夜」とも形容された事態だった。国民会議の指導部は、羽田で再び混乱することを恐れたとされる。

全学連はこの方針に不服だった。岸の全権団の出発時間が繰り上がったのをキャッチして15日夜、警戒線を突破した。約700人が空港ビルのロビーを占拠、バリケードを築いて決起集会を開く。スクラムを組み、革命歌「インターナショナル」を高唱した。

退去させるために実力行使を始めた警官隊と激しいもみ合いの末、唐牛(かろうじ)健太郎委員長ら80人近くが検挙され、残りが空港外に放り出された。混乱が収束したのは16日未明。その後、冒頭に書いたように、岸の全権団がこっそりと出発した。

これで「ゼンガクレン」は海外にも知られるようになり、ジグザグデモは「スネークダンス」と翻訳された。

羽田で検挙された中に、女子学生が2人いた。東大文学部の学友会副委員長、樺(かんば)美智子と女子美術大の学友会委員長、下土井(しもどい)よし子で、ともに3年生。2人とも不起訴処分になり、17日後に釈放された。

このあとメディアが2人に取材攻勢をかけ、下土井は新聞や週刊誌で「全学連ナデシコ」とアイドル扱いされた。メディアは「警視庁のご飯をペロリ」などと書いたが、なぜ安保に反対するのかという彼女の主張には耳を貸そうともしない。

樺美智子は取材をきっぱりと断り続ける。だが、中央大教授である父の俊雄が「全学連に娘を奪われて―羽田空港事件で東大生の娘を検挙された父親の手記」を『文藝春秋』60年3月号に発表したことから有名になる。

俊雄の手記は「国会乱入事件後における全学連指導者の狂人じみた英雄気取の言動が国民のあいそづかしをどれだけ増したことか」と全学連の国会突入と羽田闘争を非難する。

よもや自分の娘が参加していようとは夢にも思わなかったと明かし、娘が「馬鹿げた事件」に巻きこまれたのは「なんといっても大学の友人仲間のうちに原因があったとしか考えられない……単純な考えで正義感にかられると、情熱的な行動をする性質が娘にはあったらしい」と推測した。

このことが5カ月後の娘の死につながっていった可能性がある。

のちに俊雄は、あの文章は娘をよく知らず、取り乱したための誤解であったと書くが、娘は激しく反発した。友達に誘われたからではなく、単純な正義感だけからでもない。彼女は明確な政治的意志をもって、学友たちをオルグして羽田に向っている。仲がよかったという母親にも告げず、旅行に行くと見せかけて家を出ている。

1960年6月18日、日米新安保条約の自然成立前日、国会を包囲する学生や労働者のデモ隊

60年5月19日に自民党が衆院で安保条約の批准を強行採決すると、学生、労働者、市民ら何十万人もの人が連日、十重二十重に国会を取り巻き、条約に反対した。その闘争のさなか、樺美智子は国会構内で命を落とす。

勉強好きの真面目な学生で、研究者を目指していたという。彼女はなぜ命の危険をも冒すほど、情熱を傾けて闘争にのめり込んでいったのだろうか。

×   ×   ×

激しい反対運動にもかかわらず、安保条約は60年6月19日、参院の議決なしで自然成立する。それと引きかえのように岸内閣は退陣し、熱気にあふれた運動の波も引いていった。

あの運動は何を残し、何を残さなかったのか。新たな取材資料も合わせ、樺美智子の生と死を重ね合わせて、それを探りたい。(6回続き、敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家、大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。「樺美智子 聖少女伝説」など著書、編著書多数。

 

樺美智子とは何者だったのか

恵まれない人への強い関心から闘争へ 日米安保60年(2)

©株式会社全国新聞ネット

樺美智子。全学連慰霊祭の遺影

 安倍晋三の祖父、岸信介が首相に就任したのは1957年2月。3年後には民意を踏みにじって米国と強引に新安保条約を結ぶことになる。これに反対する闘争の中で、伝説的人物として語られる樺(かんば)美智子が、東大に入学するのは57年4月。その月のうちに「原水爆実験反対」のデモに参加している。

 岸内閣が退陣に追い込まれたのは3年半後の60年7月であり、樺美智子が22年の生涯を閉じるのは60年6月だった。現実には決して交わることのなかった2人だが、登場と退場の符節は一致する。痛み分けとするには、断たれた彼女の未来があまりにも惜しい。

 樺美智子は1937年11月、東京で生まれた。父俊雄は大学教員、母光子も日本女子大卒という知的な家庭だった。豊かで自由な環境でのびやかに育てられ、兄が2人いるが、両親は女の子だからと差別はせず、娘に期待を寄せている。

 戦時中に疎開して8年余、静岡県の沼津で暮らした。富士山を目の前に仰ぐ風光明媚な地だが、漁村は貧しい。まともに食事をとれない「欠食児童」が少なくない戦後、樺家のハイカラな暮らしぶりと、彼女が飛び抜けて優秀だったことが語り草になっている。感受性の強い彼女が、貧富の差に気づき、恵まれてあることの後ろめたさを感じたのは、この時期だったと思われる。

神戸高校卒業のとき。左端が樺美智子

 父が神戸大の教授になったことから、中学1年で兵庫県芦屋市に転居し、県立神戸高校に進む。勉強やスポーツに励み、読書欲も旺盛だった。宮本百合子を愛読し、主人公の感じ方が自分と似ていると、友人に打ち明けている。

 「時間が足りない」が口癖。高校2年の終業式の日、母親に「今年は私は1時間も無駄にしなかった」と晴れ晴れとした表情で話したという。

 まっすぐな性格だった。おかしいと思ったら、相手が教師であっても臆せず主張する。

 男子が多い神戸高校で、早くも性差別に疑問を持つ。自治会の役員になぜ女子が立候補しないのか、体育祭の練習はいつも男子優先で女子が待たされるのはなぜなのか。そんな問題提起をして、全校アンケートまでした。

 京大総長の滝川幸辰が高校に講演に来て、女子は良妻賢母がいいと話したときは、気色ばんで滝川に抗議しようとして友人に止められている。

 炭鉱不況で鉱夫の家族が困窮しているのを知ると、救援カンパを集めて送った。恵まれない人への関心から社会主義思想に傾斜していく。時代は政治の季節であり、学生だけでなく労働者も市民も、街頭デモやストライキで政府や資本家への抗議の意志表示をした。特に米軍基地の拡張や米英の核実験には各地で抗議運動が燃え上がった。

樺美智子の1957年11月の小遣い帳。自分の楽しみのための支出がほとんどないのに、運動や困っている人の支援には出費を惜しまない

 東大に入学した直後にクラスの自治委員に立候補し、デモにもしばしば参加している。一方で学業も手を抜かず、歴史学研究会でサークル活動もしながら、社会科学系の本を多読した。

 岸信介のほうは首相就任後まもなく、自衛のための核兵器保有は憲法解釈上、禁じられていないという趣旨の答弁で物議をかもす。政権発足から4カ月後には米国を訪問し、安保条約改定に関わる協議を開始。反対勢力を抑え込む意図で警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出したが、激しい反対運動が起こって法案は流れる。

 安保反対運動をリードしたのは、社会党や総評を中心とする安保条約改定阻止国民会議(国民会議)だった。しかし、その傘下団体である全日本学生自治会総連合(全学連)の主導権を握ったのは、共産党を離党した学生らによって58年11月に結成された前衛党・共産主義者同盟(ブント)である。樺美智子も早い時期からブントに加盟し、書記局を支えている。

 ブントは日本帝国主義打倒を掲げた。安保条約を葬ることを目標とし、より先鋭な運動方針を打ち出す。これに対して共産党系の学生らは、全学連の反主流派として、ゆるやかなデモ行進から流れ解散で抗議の意志を示した。

 権力を握る者への対抗軸がまとまらない構造は今に続く。

 樺は3年の秋に文学部学友会の副委員長になり、学友たちに主流派の方針を説得する。59年11月27日の国会突入と、翌年1月16日の羽田ロビー闘争に参加したのも当然のことだった。羽田闘争で検挙され、18日間の勾留を経て帰ってきた美智子は、父が文芸春秋に書いた「全学連に娘を奪われて」という文章に肩身の狭い思いをしながら、かえって強い意志で運動にのめり込んでいく。

 60年4月26日、全学連は首相官邸に突入する。唐牛(かろうじ)健太郎委員長ら幹部は装甲車を乗り越えて警察官の群れに飛び込み、逮捕された。樺も装甲車を乗り越えたという人がいるが、真偽は不明だ。その日の夕方、九州に転勤する次兄を見送るため、東京駅に現われた彼女は泥だらけだった。

 5日後のメーデー。心配する母は街頭に出て、デモの隊列の中に娘を発見する。隊列は「アンポ」「ハンタイ」を連呼している。

「東大文学部自治会の旗の長いすそが娘の黒い髪の上を何度もなぜて、私がみつめている姿をその度にかくした。私は動く気力もなくたたずんで、心に残るその影を追ったのだった」(樺俊雄・樺光子著『死と悲しみをこえて』)

 娘の闘う姿を見るのは、これが最後になる。闘う娘と見守る母の姿が浮かんできて、読むたびに目頭が熱くなる。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

日米安保60年(1)

逃げずに闘い続けた樺美智子

国会の暴力から「革命前夜」に 日米安保60年(3) 2020/2/27 07:00 (JST)2/27 12:13 (JST)updated  ©株式会社全国新聞ネット

ハガチー大統領秘書が乗った車を取り囲むデモ隊=1960年6月10日、羽田空港

 昨年、香港で逃亡犯条例の改正案に反対して市民の激しい抗議デモが起こり、持続的な運動になった。その最前線に若者たちがいた。それに比べて「日本の若者は政治に関心が薄い」と嘆く声も上がった。

 特定秘密保護法が制定されても、自衛隊が海外に派遣されても、若者の多くはスマホに目を落したままのように見える。60年前、日米安保条約に反対して立ち上がった若者たちとどこが違うのか。

 60年安保闘争のときの学生たちを当時のメディアは、こぞって「はねあがり」「赤いカミナリ族」などと批判した。カミナリ族は集団でバイクなどを駆る若者たち。今で言う「暴走族」で、そこに共産主義を意味する「赤」という形容詞を付している。

 しかし、体を張って行動した学生たちや、それに続いた民衆の姿に、革命の未来を見た人もいた。それをあながち幻想と呼べないほど運動が盛り上がっていったのは、1960年5月20日以降である。

 反対運動は国民運動ともいうべき様相を呈した。デモ隊は雪だるま式にふくれあがった。この年、早大に入学したばかりの一般学生のわたしが、手作りの旗を持って、サークルの仲間たちとはじめて街頭デモに参加したのも、5月20日だった。

 画期をもたらしたのは何か。

 5月19日深夜から20日未明にかけて、衆議院で新安保条約、新行政協定(地位協定)、関連法案の3案が強行採決されたのだ。警官隊500人を入れ、秘書も使って、反対する野党議員をゴボウ抜きにした。国権の最高機関が暴力で支配された。もちろん討論は行われていない。

 与党が民主主義を踏みにじり、議会政治を崩壊させたことで、安保闘争の風景は一変する。政府攻撃の世論は日に日に高まり、衆議院の解散と岸信介内閣の退陣を求める戦後最大の大衆運動に発展した。

 社会党と総評を中心とする安保改定阻止国民会議(国民会議)は、連日デモを組織し、今まで動かなかった市民団体、女性団体、学術団体、全国の大学の教授団も相次いで声明を出し、組織に属していない主婦や商店主も街頭に出た。

 30歳の画家、小林トミが一人ではじめた「声なき声の会」の旗のもとに、たちまち300人もの行列ができた。文学者や芸術家、芸能人やプロ野球選手も岸内閣を責める発言をしている。

 樺(かんば)美智子はその春、東大4年に進み、文学部学友会の副委員長の任期が終わる。これからは卒論に集中すると周りにも宣言し、力を入れはじめた矢先、皮肉にも反対運動が日ごとに盛り上がっていった。

 樺が所属する共産主義者同盟(ブント)は全学連主流派を指導し、国民会議の請願デモを「お焼香デモ」と批判した。穏健なデモを揶揄した言い方である。主流派は5月26日に国会に、6月3日には首相官邸への突入を試み、多くの検挙者を出す。

 そんな過激な闘争から足を洗って、公務員試験や司法試験、就職活動、大学院進学の準備に向かう学友もいたが、樺は逃げなかった。睡眠時間を削って卒論の準備を進めながらも、デモに出かけた。

1959年、教育実習の運動会の日の樺美智子

 亡くなるまでの1カ月、さまざまな顔を友人たちに目撃されている。ゼミのレポート作成のため、先輩に熱心に質問する後ろ姿を写真に撮られている。渋谷の横断歩道ですれ違った学友もいる。樺は母親と腕を組み「温和で、嬉々とした」笑顔だったという。

 デモに行く地下鉄でマルクス・エンゲレスの共著『ドイツ・イデオロギー』を膝に広げて居眠りをしていても、いざ現場に立つと勇敢な闘士になった。首相官邸突入をひるんだら、彼女に腕をむんずと掴まれスクラムを組まれたと、回想する男子学生もいる。どんな場面でも、いい加減にとか、適当に、ということができない人だった。

樺美智子の日本経済史のノート。左ページをメモ用にあけている

 6月10日、羽田でハガチー事件が起きた。アイゼンハワー米大統領の来日が予定されていて、その下見のために秘書のハガチーが羽田に着く。しかし、ハガチーを乗せた車はデモ隊に取り囲まれ、ヘリコプターで脱出する騒ぎになった。取り囲んだのは全学連の主流派ではなく、共産党系の反主流派と労働者の集団だった。

 それが主流派のブントの焦りをよぶ。これでは全学連の主導権を反主流派に奪われてしまう。これまで中心を担ってきた指導者たちの多くが逮捕され、不在の中で、慌てて「6月15日国会突入」という方針をうちだした。

 国会構内では「鬼の4機」と呼ばれた屈強の第4機動隊が重装備で待ち構えていた。一方、デモ隊はと言えば、のちの全共闘運動のときと違い、ボール紙で作ったプラカードや布の旗だけ。足元はズックや下駄履きもいる。女子はスカート姿がほとんどだった。

 武器はみんなと固く組んだスクラムだけ。正面からぶつかれば、誰かが死ぬかもしれない。指導部には「死者が出るのではないか」と、不幸な予感を持つ者もいた。そして、その予感は的中してしまう。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

日米安保60年(1)

樺美智子とは何者だったのか 日米安保60年(2)

樺美智子「運命の日」

警官隊と衝突、斃れる 日米安保60年(4)

©株式会社全国新聞ネット

亡くなる数時間前、デモ行進する樺美智子

 日米新安保条約は、1960年5月20日に衆院で強行採決された。これにより、参院の採決なしでも1カ月後の6月19日には自然成立することになった。そのタイムリミットの4日前、6月15日が、樺(かんば)美智子にとって運命の日となった。

 反対運動を主導した安保改定阻止国民会議(国民会議)はこの6月15日をヤマ場とし、全国に統一行動を呼びかけた。国民会議の中心となった総評傘下の組合を中心に、全国で実に580万人が抗議行動に参加した。

 今では考えられない規模だが、軍事同盟に対する拒否感情はそれほど強かった。戦争の記憶が色濃く、平和への希求は切実だったのだ。

 その日、東京のデモ隊は、国会、首相官邸、アメリカ大使館などを目標とした。統一行動の模様を伝える朝日新聞夕刊1面の見出しは「六・一五統一行動/大した混乱なし」。至って穏やかなスタートだった。夕刊締め切りの午後の早い時間までは。

 全学連主流派のデモは午後4時ごろから始まった。全学連委員長代理の北小路敏(さとし)、都学連副委員長の西部邁(すすむ)らが乗った宣伝カーが先導し、東大、明大の順で各大学が続き、最後尾の早大とつながったまま国会を2周。先頭集団に樺もいた。

 同じころ、国民会議が主催する請願デモも続々と国会周辺に集っていた。そのなかの新劇人グループや市民のデモ隊に、右翼の「維新行動隊」がカシの棒で殴りかかった。女性の多い新劇人と市民約70人が負傷したのに、警察官が傍観していたと学生たちに伝わり、怒りの引き金を引いた。

 全学連デモ隊の中の「工作隊」が国会の南通用門の扉を外した。守備側がバリケードにしていたトラックを、学生たちが引っ張りだす。構内には約1千人の武装警察官と100人を超える私服警官がいたが、一瞬うしろに引いた。

 誘われるように入り込んだ学生たちを警察が包囲した。指揮者の「かかれ!」の合図で、警棒を振りかざして「やっつけろ」とかかってくる。前の方にいた学生は、警棒で頭、顔、肩を乱打され、腹を突かれた。逃げ出す者を追い、うずくまっている者を叩いて、後方の私服警官に検束させた。社会党の議員や報道関係者が制止しても、警官隊の暴行はやまなかった。混乱のなかで樺は斃(たお)れた。これが第1次の激突である。

6月15日、警官隊との激突で多数の学生らがけがをした

 女子学生が死んだと門外の学生たちに伝わり、再び学生が構内に入る。9時ごろ構内で黙祷した。その後、また学生と警官隊がぶつかり、多くの負傷者が出た。

 警察側は門の外の学生たちにも催涙ガス弾を撃ち込み、逃げるのを追って警棒を打ちおろした。学生を心配して国会周辺に集まっていた教員や大学職員にも襲いかかり、教授陣からもけが人が出た。16日午前2時ごろまで続いた激突で、学生の検挙者182人、負傷者は589人で、うち43人が重傷を負う。救急車が48台も出動した。

 樺は救急車で飯田橋の警察病院に運ばれた。文学部学友会委員長の金田晋(かなた・すすむ)と同期生の北原敦(あつし)が呼ばれて遺体と対面し、樺美智子と確認。金田はそのままパトカーに乗せられて西荻窪の樺家に行くが、留守だった。

 時間を少し巻き戻して、この日の樺の行動をたどろう。

 いつものように半徹夜で勉強をした樺は、朝になってクリーム色のカーディガンにチェック柄のスカートで家を出た。午前中は近世史のゼミでレポーターを務め、昼食後、スラックスに着替えて地下鉄で国会正門前に行き、抗議集会に参加する。雑誌『マドモアゼル』(小学館)の記者がデモに伴走しながら、写真を撮らせてくれと頼むが、「わたくし、こまるんです」と断っている。

死の数時間前。デモ隊の中の樺美智子

 マドモアゼルの記者は樺に、この行動によって国会を解散に追い込み、安保改定を阻止できると信じているのかと問いかける。樺はこう応じた。

 ―「はい、信じています。わたくしはわたくしの信念にしたがって行動しているんです」。一瞬、あなたの声は強くはりつめて、その語尾は、泣くかのようにふるえていた―

 南通用門前の学生たちに警官隊が放水し、彼女はビニールの水玉模様の風呂敷で頬かぶりした。その姿がお茶目で周囲の者が笑った。同期の榎本暢子と卒論の進行具合を話し合ったのが最後になった。死亡推定時刻は15日午後7時10分から13分ごろ。

 父の俊雄は、学者・研究者グループによる「民主主義を守る会」の抗議デモに初めて参加し、騒がしい南門前に行き、死者がわが娘とは知らずに黙祷している。現場を離れ食事に立ち寄った店のラジオで娘の名を聞き、深夜、東京・飯田橋の警察病院に駆けつける。

 母の光子も娘を心配してひとりで国会周辺に行くが様子がつかめず、池袋の実家に帰り着いた。遺体と対面を果したのは夜明け近く。遺体の顔はきれいで、ほほえんでいるようだったという。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 【注】検挙者数などは『現代教養全集 別巻 一九六〇年・日本政治の焦点』(1960年9月、筑摩書房)による。

樺美智子、死因の謎

捏造証言で印象操作か 日米安保60年(5)©株式会社全国新聞ネット

 
死の20日前、文学部研究室で。樺はなかなか写真を撮らせなかったという。名前を呼ばれて振り返った瞬間をとらえた1枚(加藤栄一さん撮影)

 樺美智子の死因については、圧死説と扼死説があり、60年を経た今も謎のままである。圧死であれば、国会構内でのデモ隊と警官隊の衝突の中で、デモの隊列が崩れ、下敷きになったことになる。首を絞められた扼死であれば、加害者は故意の殺人罪に問われよう。

 死後約3時間半後、6月15日午後10時42分から検視した監察医の渡辺富雄は「圧死の疑い」とした。ただし、父親に渡す死亡届の用紙には死因を「不詳」と書いている。当時の週刊誌への寄稿で、父親に「圧死の疑い」とするのは「忍びがたく」と説明したが、医師が死因を虚偽記入する理由としては、説得力がない。

 司法解剖は翌16日。遺体は慶応大法医学教室に運ばれ、中館久平と中山浄が執刀した。その前半だけ、東大医学部教授上野正吉も同席した。

 中館の鑑定書は、扼殺されたとも、そうでないともいえるというあいまいな表現だった。傷害致死の疑いで捜査していた東京地検は、上野に再鑑定を依頼する。再鑑定の結論は、警察官との接触はなく、デモ隊の人なだれの下敷きになった窒息死、つまり圧死だった。

 これに対し、解剖に立ち会った社会党の参院議員で医師の坂本昭の見解は扼死。現場の写真や証言を集め、樺のいたデモの先頭近くでは「人なだれはなかった」と断定する。さらに、膵臓と頸部に出血があったことから、警棒で腹部を強く突かれて気を失い、首に手をかけられて窒息死したと結論付けた。

 坂本は参院法務委員会で法務省を追及、死体検案書と中館・上野の鑑定書の公開を求めるが、法務省は拒否した。

 近年まで扼死を主張し続けた人もいる。医師で詩人の御庄博実(みしょうひろみ、本名・丸屋博)は、執刀した中館のプロトコール(口述筆記)を伝染病研究所(現・東大医科研)の草野信男に届け、草野の所見をまとめた。「扼死の可能性が強い」という内容だった(「樺美智子さんの死、五十年目の真実―医師として目撃したこと」(『現代詩手帖』2010年7月号など)。御庄は2015年に亡くなっている。

 わたしは関係資料を調べ、国会構内に入った樺の学友たちに会い、坂本の遺族や御庄にも取材した。その結果、扼死の心証を得たが、決定的な証拠がない。真相を明らかにするため、死体検案書と2つの鑑定書の公開が望まれる。

6月15日、警官隊との激突で多数の学生らがけがをした

 扼死か圧死か。決定的な証拠がないのに、圧死と思っている人が少なくない。ネット上の百科事典『ウィキペディア』の「安保闘争」の項も、圧死と断定して記述する。これには当時の新聞報道も影響しているのではないか。

 樺が死亡した翌朝、6月16日の朝日と毎日がそろって、樺の隣でスクラムを組んでいたという明治大学生の証言を載せた。警官隊とぶつかり、うしろから押してくる学生集団に圧迫されて人なだれが起きた。樺は学生のドロ靴に踏まれて死んだというリアルな証言である。週刊誌などもこの学生の話を載せた。

 しかし、住所氏名まで出ているこの学生は実在しないことが判明している。捏造(ねつぞう)された証言である可能性が高い。誰がどのような意図で証言したのか。

 父親の俊雄は、60年1月の羽田ロビー闘争で娘が検挙されたときは、彼女が学生運動に深入りしていることを知らずに『全学連に娘を奪われて』(『文藝春秋』3月号)を書き、全学連を批判したが、このころには娘の行動に理解を示し、新聞報道に厳しい目を向けている。

樺美智子の死の直後、記者の質問に応える父、俊雄=1960年6月16日、東京・飯田橋の警察病院

『中央公論』60年8月号には「体験的新聞批判」を寄稿し、娘の死を伝える6月16日の朝日新聞朝刊を例に検証した。

 11版社会面の見出し「学生デモに放水」が、12版では「デモ隊警察の車に放火」にかわる。11版の「まるで野戦病院」は学生の負傷者の惨状を報じるが、12版でこの記事が消え、13版では「暴力は断固排す」という政府声明が加わる。

 早版と遅版の違いは、第一線の取材記者のなまなましい現地報道が、上級幹部の意図に反するからだと分析している。

 幹部の意図の浸透を示すように、各新聞の論調が政府の主張と軌を一にして暴力追放を強調するようになり、6月17日朝刊では東京に拠点を置く主要7紙が「七社共同宣言」を掲載。「理由のいかんを問わず、暴力を排し、議会主義を守れ」と呼びかけた。

 中央公論で俊雄は、この宣言文の「その依ってきたる所以は別として」を挙げ、混乱の根本の原因である政府・与党の非民主的な行動(国会に警官隊を導入した強行採決など)を不問に付していると指摘した。

 また「暴力ということについていうならば、単にデモ隊の暴力だけをとり上げるべきではない」。武装警官が「非武装の国民大衆のデモ隊にむかって行使した暴力」こそ糾弾されるべきだと述べている。説得力のある議論を展開した。

最後の微笑

 同年9月刊行の『最後の微笑』では、官の責任について次のように述べる。

 「娘の死という事実について、自分にその責任があると申し出られた人が一人も現われないのはおかしいという気持ちです。虐殺にしろ、事故死にしろ、ああいう公けの事件で、公けの場所で死んだのでありますから、その公けの立場にある誰かが、娘の死について哀悼の意志を表明してもいいのではないでしょうか」

 「娘のとった行動が法の秩序を破るものであったとしても、娘が死んだという事件はまた別の事実であります。かりにその死が事故死であったとしても、そこに出動していた多数の警官にはその死を阻止する義務があったのではないでしょうか」

 父の視点は、直接の関係者・関係当局の責任だけでなくもっと深い所まで届く。「それらの関係当局をこえた岸内閣の政治的意向が表れていると思われてなりません」

 俊雄は1980年に亡くなるが、最晩年まで一貫して、娘は警官に扼殺されたと主張している。(敬称略、肩書は当時、女性史研究者=江刺昭子)

樺美智子が投げかけた問い

「可憐な少女」拒否する実像 日米安保60年(6)

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1960年6月24日の「国民葬」。葬列は日比谷公会堂から国会へ向かった

 昨春、東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞が話題になった。東大入学者の女性比率が2割の壁を越えていないことや、東大男子と他大学の女子だけで構成されるサークルがあることなどを列挙して、性差別が温存されていると指摘した。

 樺(かんば)美智子が東大に入学した1957年はどうだったのか。入学者の女性比率はわずか3・1%。将来を期待されていいはずの彼女たちについて、東大文学部学生掛の尾崎盛光(のちに文学部事務長)が『週刊東京大学新聞』(58年9月17日)に「東大花嫁学校論」を寄稿している。趣旨を要約すれば次のようである。

 これからは国際社会で活躍する外交官、学者、音楽家などの夫人の需要が増える。こうした大型ホステス向きの夫人を養成できる花嫁学校はどこにもない。東大女子学生諸君はすべからく「わたしは日本最高の花嫁学校にいる」という誇りを持つべきだ―。

 こんな女性観がまかり通っていた時代、この根深い性差別を、樺は社会主義やマルクス主義に拠(よ)って解決しようとした。そして前衛党を名乗る政治集団、共産主義者同盟(ブント)に参加した。だが、ほとんど結成メンバーのような立場でありながら、与えられた役割はガリ切りや同盟費の集金といった雑務ばかりだった。

 ガリ切りとは「ロウ紙」と呼ばれる原紙に、鉄筆でガリガリと文字を書き込む作業で、その部分だけにインクが入って多くの紙に印刷できる。ビラ作りなどには不可欠の、しかし、恐ろしく根気のいる作業だ。樺はいつもガリ切りをしていたと、周囲は証言する。

 支配するのは男、手足になって働くのは女という構図のなかで、組織に忠実であろうとして消耗した。性別役割分業を批判してウーマンリブが声を挙げるのは10年後である。リブには安保世代も少なからずいる。彼女の願いが受け継がれたのだと思いたい。

 安保闘争を主導した国民会議も、報じるメディアも、全学連の行動に否定的だったが、樺の死によって評価が一変する。死の3日後の6月18日、東大で「樺美智子さんの死を悼む合同慰霊祭」が全学を挙げて行われ、教職員と学生約6千人が本郷から国会まで喪章を付けてデモ行進した。23日と24日には日比谷公会堂で全学連葬と国民会議主催の「国民葬」が続けて行われた。

 国民会議が盛大なセレモニーを主催したのは、全学連に世間の同情が集まるなかでの政治利用に見える。式後、長い隊列が彼女の死の現場となった国会の南通用門前まで続き、群衆が沿道で手を合わせて見送った。その人波は、約1年前の59年4月に行われた皇太子(現上皇)と正田美智子(現上皇后)の結婚パレードに匹敵し、樺は悲劇のヒロインに祭りあげられる。

 この過程で樺は、ラジカルな学生運動家ではなく、デモに巻きこまれて犠牲になった真面目な一般学生というイメージに仕立てあげられる。被害者として、美化されていく。

 葬儀をプロデュースした脚本家松山善三の「この暴挙許すまじ 6月19日午前0時 歴史の瞬間に立って」(『週刊朝日』7月3日)を読むと、それがよくわかる。

 「セーターに身をつつんだ可憐な少女のつぶらなひとみが、はっきりと物語っている。一ファシストに牛耳られたおろかな不安な日々の政治下になかったならば、彼女の未来には、恋や結婚や育児という、輝かしい、そして美しい人間の生活があり得たはずだ」

 22歳の女性を「少女」とみなすのはおかしい。彼女は成熟した大人であり、明確な政治的意志をもってデモに参加し、斃(たお)れたのだ。女子学生の未来に、恋や結婚や育児を置き、それが「輝かしい」とか「美しい人間の生活」と形容するのも、枠に閉じこめるものだ。当時、大学1年だったわたしは、激しいいらだちを覚えた。

作家・秋田雨雀の色紙。「永遠の処女は平和のためにたたかいて今ぞ帰りぬ盾にのせられ」

 松山善三や東大花嫁学校論の尾崎だけではない。近年でも「清楚な姿の写真を見るにつけ、彼女は進んで学生運動に身を投じるタイプには見えない」と書く男性ジャーナリストがいる。「可憐」や「清楚」を求められても、樺なら断固拒否するだろう。

 樺の死は政治に激動をもたらした。

 6月16日、政府はアイゼンハワー米大統領の訪日を断念する。18日は空前絶後の反政府デモとなった。「岸内閣打倒、国会解散、安保阻止、不当弾圧抗議」を掲げた国民大会に33万人が参加。4万人が首相官邸前に徹夜で坐りこんだ。官邸突入という情報もあって、首相の岸信介は蒼白になって震えだし、自衛隊出動を要請したと伝えられている。

1960年6月18日に国立劇場建設予定地で開かれた国民会議デモ隊の大集会。今では信じられないほどの人並みだ。左奥に国会議事堂が見える

 防衛庁長官の赤城宗徳が要請を断ってことなきを得たが、自衛隊が市民に銃を向ける寸前までいったのだ。全学連主流派はこの大群衆を前に方針を出せなかった。衆院での強行採決から1カ月後、6月19日午前零時、新安保条約は自然承認された。

 このあとも国民会議の反対行動は続き、22日には全国で111単産、540万人が参加した。岸は23日、ついに辞意表明する。

 高揚した国民運動の波は去って、中核を担ったブントも解体する。学生運動は四分五裂し、党派間の激しい争いも起きた。一方で安保闘争のエネルギーはのちの、ベ平連運動や反公害などの多様な市民運動に形を変えて引き継がれ、育っている。

 だが、日米安保条約は廃止も改正もされずに残り、軍事同盟が一貫して強化されてきたことも事実だ。安倍晋三首相は、この安保体制の下で憲法改正を狙う。3年前の6月15日には、共謀罪法案を参院法務委員会の採決抜きで、いきなり参院本会議に持ち込み、強行採決した。民主的な手続きを無視し、開かれた議論を拒むやり方は、祖父を想起させる。

樺美智子の遺稿集「人しれず微笑まん」

 オリンピック・パラリンピックの狂騒のなかで、あるいは、新しい感染症の恐怖や他国の脅威を利用して、戦争体制に突き進もうというもくろみを警戒しなくてはならない。

 安保条約は60年後の今も、わたしたちの日常を縛り、憲法の平和主義と衝突している。それなのに、沖縄をはじめとする基地の町以外で、樺美智子が命をかけて投げかけた問いを、わがこととして受け止める動きは少ない。それは樺の死後、その実像を受け止めず、美化してしまったことと、無関係ではないだろう。(敬称略、終わり、女性史研究者=江刺昭子)

 えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家、大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」など著書・編著書多数。『樺美智子、安保闘争にたおれた東大生』が河出文庫から6月刊行予定。

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