国際反戦デー「続く紛争とわたしたち」

国際反戦デー「続く紛争とわたしたち」 教育会館

10.21反戦・平和を考える青年女性集会
「続く紛争と私たち」
―  イラクの現状・課題と展望  ―

日時 10月21日(火) 18時~20時
場所 石川県教育会館 二階会議室
講師 清水 俊弘氏
(日本ボランティアセンター事務局長)


講 演 録

1.はじめに

皆さん、はじめまして。日本国際ボランティアセンター、略称でJVCというNGOで仕事をしています清水と申します。どうぞよろしくお願いします。本日はこのような場にお招き頂きまして感謝しております。同時に日頃の皆さまの地域での地道な活動に敬意を表したいと思います。また、私たちのような現場にいるものにとって地域での活動と連動できること、結びつくことが何よりも重要だと考えております。そういう意味で本日は大事な出会いの場になればと思っています。
JVCという組織は今から23年前に発足した組織で、詳しいことは今日おくばりしたパンフレットをご覧いただきたいと思います。
その中で私自身は16年前にこの組織のスタッフになりまして、最初の3年ほどはタイ、カンボジアの国境にありました難民キャンプの現場におりまして、その後カンボジア国内の復興協力に携わるべくカンボジア国内で3年ほど仕事しておりました。
皆さんもご記憶にあるかと思いますが、そのとき日本で初めて自衛隊が海外に派兵されるという渦中にありました。その中にあって私たちは、現場から見て果たして自衛隊が必要なのか、私たちから見て全く必要ないということを伝えなければということで、当時、カンボジアから日本に帰るたびに、このような場で、カンボジアにとって実際何が必要なのかということを話してきました。日本に戻ってきた後、次は東チモール、昨年はアフガニスタン、そして今年の2月と7月には、それぞれ3週間ほどイラクの方へ行ってきました。
本日は日本として何をすべきかとことを話す機会を頂きましたが、私の方から一方的に講演するということではなく、こういうときに、私たちは何をしなければならないのか、どういうことを考えたらいいのか、現場にいる立場から情報を提供していきたいと思いますし、また逆に現場にいる人間が一体何をすべきなのか、皆様から示唆をしていただければ幸です。そのようなことで私の話を聞いていただきたいと思います。

◇ 湾岸戦争の傷跡へ先制攻撃
まずイラク問題を考える前提として、今日のイラクがどうなっているのかをお話します。あの湾岸戦争以後、経済制裁が続いており、湾岸戦争の傷がいえないまま、悪いコンディションの時にこのような攻撃が起こっているということをまず押さえておきたいと思います。
そもそも今回の先制攻撃をする理由がみつかっておらず、イギリスではブレア政権が叩かれている中ですが、日本では先制攻撃を無条件で支持した小泉政権が、その問題に関して叩かれていません。私たちはもっと動かなければいけないと、国内の運動の立場から強く思っています。

◇ 芸術の街 - バグダッド
それではスライドをお見せしたいと思います。
最初にご覧頂く写真ですがどこの写真かおわかりですか?バグダッドです。私がたまたま2月にいた時に撮った写真ですが、通りが夜になっても賑やかです。イラクでは開戦2~3ヶ月前から十万人以上もの米軍が包囲するという状況にあって、いつ何が起こってもおかしくなかったわけですけど、イラク側から戦争を仕掛けようとしたわけではなく、イラクの人々にとってはまだ半信半疑でした。「脅しているけど実際は攻撃しないと思うよ」という人もいれば、「いつ攻撃が来るかわからない」と思っている人もいました。しかし多くの普通の人々は普通に生活を続けるしかなく、攻撃はアメリカ次第だったわけです。
このようにバクダッドの真ん中を流れるチグリス川のほとりにはいろんなアートギャラリーが並んでいます。芸術の街であり、イラクの教育水準、文化水準の高さは何回か訪れている中で私自身も強く感じています。子供たちは皮肉なことにミッキーマウスが大好きです。攻撃を受けた今でも大好きです。
私たちが20数年にわたって紛争後の復興協力に携わってきた立場で思うことは、どうしてこれを事前に食い止められなかったのかということです。東チモールがそうですし、一昨年のアフガニスタンもそうでした。今回もアメリカ軍からの攻撃があるかもしれないという時間があったにもかかわらず、私たちとして効果的な動きをつくれませんでした。私たち自身、現場を行き来している者から言わせていただきますと、イラクというイメージとはなんなのか。イラクといえばサダム・フセインと砂漠いうイメージしか湧かない人が大半の中で攻撃という大決断がされたと感じるわけです。
私たちはイラクというのは豊かな、いろんな人がいる社会なんだということを伝えるのが最初の仕事だと思いました。そこでイラクの子どもたち、こんなかわいい、いろんな夢を持っている子どもたちがいるということを日本の人たち、特に日本の子どもたちに伝え、日本の子どもたちから彼らに応援のメッセージを送ってもらうという、子どもたちの絵画の交流をやりました。これを通じて大人達が目を開いてくれればとも思ったんです。日本から持っていった絵をバグダッドのギャラリーで展示して、バクダットの親子に観てもらってその返事をもらって、という交流をやってきたわけですけど、残念ながら子どもたちの声も希望も届くことはありませんでした。
学校も開戦の直前まで普通に授業をしていました。これは街並みの風景です。

◇ 仮定に仮定を重ねた戦争の大義
戦争の大義を改めて確認しておきたいと思います。9.11事件以降、テロ対策といういうことが叫ばれて、その関係が曖昧なまま、アルカイダのメンバーのトレーニングをイラクはしているんだという噂だけでそこに問題があるといい、そういう連中に大量破壊兵器が渡ったらどうするんだと、大量破壊兵器の存在すら証明されていないのに、存在しないものが渡ったらどうするんだという仮定に仮定を重ねて今回のウソの先制攻撃を成り立たせてしまいました。残念ながら私たちの国もそれに無条件で賛成してしまったという情けない状況がありますが、いずれにしてもサダム・フセインが悪いんだから、政権を変えなきゃいけないという、どこからか湧いて出てきたような理由をつけて今回の戦争が行われてしまいました。私たちは何故戦争が行われたかということをしっかりと忘れないようにしておかなければなりません。

◇ 破壊された街と市民の暮らし
3月20日に始まった攻撃は多くの市民を巻き込んでいきました。例えば私たちが絵を飾っていたギャラリーのある目抜き通りの街も、攻撃とその後の略奪行為によってほとんどゴーストタウンになってしまいました。攻撃によって窓ガラスが破損し、建物が破損し、その中に人々が簡単に侵入して、その中にあるものを盗んでしまう。盗んだ人たちにももちろん問題があるとは思いますけど、そういった行為を容認してきた米軍の戦略、どういう思惑で目をつむってきたのか、いろんな受け止め方があると思いますけど、直接の攻撃、二次的な略奪行為によって結果的に街は壊滅的な打撃を受けてしまったわけです。
民間人の犠牲者もクラスター爆弾、デイジーカッターなど、まさに大量破壊兵器ではないのかという兵器が使用されることによってどんどん増えています。米軍は政府関係機関をピンポイント攻撃すると言いつつ狙っていきますが、日本の霞ヶ関と違ってイラクでは省庁があちこちに分散しているんですね。その省庁の回りには普通の住宅があるところもあって、いくらその省庁を狙ったとしても、そこに大きな爆弾が落ちることによってその周辺にいる住民も巻き込まれてしまいます。しかし米軍は想定された誤差の範囲ということで済ませてしまうわけです。その犠牲者の中にはもちろん子どもたちも含まれています。
これは、米軍がバグダッドに入っていって倒されたサダム・フセインの像ですけれども、私たちが銅像の写真を撮ろうとするとそこにいる人がポーズをとって、その後、5ドルくれ、10ドルくれと迫ってくるわけです。お金になると彼らは知っているんです。銅像を倒すシーンについてはいろんな話がありますが、お金につられて一部の人間がやったということかもしれないし、または一部の親米派の人間だけが集められて絵図をとるために使われたとか、いろんな噂があります。イラクの人たちが「ワァー」と押し寄せてやったことではないのだけは確かだと思います。

2.市民生活と治安 ・・・ 募る占領軍への不満

◇ 一段と悪化する治安状況
写真を注意して見てください。普通の生活をしている人たちの中に装甲車がグルグル、グルグルと廻っています。自分達の生活の場にこのようなことがあったらどうなのかとイメージしていただきたいと思います。このように道路が封鎖されているところで、先日も大きな爆破事故がありました。
駐留米軍が多いバクダッドホテルのすぐの正面、私たちが滞在しているところのすぐ近くなんですけど、駐留米軍が多い施設の前にはこうやってタンクが道路を封鎖して、普通の人たちが通れないようにしています。道路を封鎖している所が、結果的に歩行者天国のようになって、そこに子供たちがサッカーをやったりしてるんですけれど、普通の人が通る道が制限されています。これが例えば戦闘行為が終わった直後の様子で、バリケードや土嚢があるのならわかります。それが5月、6月、7月と最近になっても解除されず、しかもバリケードや土嚢が低くなるのならともかく、いま現実は逆なんですね。どんどん、どんどん米軍に対しての攻撃が増えていく、米軍と一緒くたに見られてしまう我々外国人に対する攻撃も増えていく中、駐留米軍が多いホテルを中心にバリケードはどんどん高くなっていく。建物の入り口に検問がある。検問から入り口までの距離がどんどん遠ざかっていく。4月の初旬の攻撃が一旦終了した頃をゼロとすると そこから状況が少しでもプラスになっているのかといえば、マイナス1、マイナス2になっているのが現状かと思います。
これはバスラの様子ですけども、街のど真ん中で監視しているわけです。戦争によってイラク市民を自由にする、解放するとブッシュ大統領は言っていましたが、現実は監視しています。
この写真を良く見ると、この銃口と皆さんの目線が合うのがわかると思います。まさに銃口が私のファインダーに向けられていたと言うことです。
これは高速道路です。アンマンから国境を越えてバクダッドにいくところに立派な高速道路があるわですが、バグダッドの手前のラマディというところで米軍が道路を封鎖しています。彼らは理由を言いません。戦車をグルグル回転させて車の流れをせき止めます。何百メートルも渋滞がおきてしまうんですね。待ちきれない人がわき道を探して移動します。私たちもたまたま暗くなってからバグダッドに行くのはまずいだろうと言うことで向きを変えて、一本別の道を行こうとした途端にドドドドドーンと発砲されてしまったんですね。運転手さんにとにかく止まれ、止まれと言って車の中で3人で手をあげていました。
なにしろ米兵が毎日一人二人殺されるという状況が続いています。攻撃をしていた時点の米兵の死者数より4月以降の米兵の死者数の方が上回っているということを聞いておられると思います。まさに4月以降百人を越える米兵が死んでいる。毎日ように少しずつ殺されている。殺され方も見えないとこから殺されるケースもあるし、ニコニコと近づいてきた人がいきなりドーンと自爆テロ的に爆発ということもあるし、米兵も常に非常に緊張しています。自分達に近づいてきている者が何者なのか確認できるまでは、彼ら自身が非常に恐怖心をもっています。ちょっとでも彼らの意に沿わないことがあると彼らの銃撃の対象にされてしまうという状態が続いています。
こういう状況の中で、自衛隊が行って何ができるのか?まさに危険にさらされるだけであって、皆さんも言っておられるように、いつ彼らがイラクの人たちを傷つける側にまわるかもしれない。この前外務省を首になった、というか外務省を辞めました駐レバノン大使の天野さんではないが、バグダッドにいる若い大使館員ですら「今来たらヤバイですよね」って言うんです。それじゃあ大使に言えよというんですが彼らは言わないですよね。
同じような写真が続きますが、道路には米軍の車輌が動いています。上にはヘリが飛んでいます。下からも上からもうるさく監視されています。これはヘリの下でうんざりしている人の顔です。占領政策が長引けば長引くほど治安が悪くなっているのが現実だと思います。

◇ 手付かずの再建事業
例えば今回の攻撃で落ちた橋、いろんな社会インフラが攻撃されているわけですけど、このように攻撃された橋も修復されないで、仮の一車線だけの橋がかけられています。そうすると一車線だけですから大渋滞になるわけです。早く直せやというみんなのイライラが募るわけです。このように壊れた建物も直されません。これは違う角度からですが、バスラの旧バース党の事務所です。

◇ 復興を妨げる不発弾、武器、弾薬
南部バスラの地域で特に多いのが、湾岸戦争のときに使われた劣化ウラン弾、今回の戦争でも使ったとアメリカは認めていますが、その劣化ウラン弾の影響で小児ガン、特に白血病を患っている子供たちです。私たちが支援している病院には小児ガンの子供たちがたくさんいます。
劣化ウラン弾の二次的、三次的影響のほかに大量に投下されたクラスター爆弾の不発弾で怪我をする子どもたちも結構います。この子は命を取り止めることはできましたが、全身に細かい破片を被弾してしまっています。
サダム・フセイン時代、このような武器管理、弾薬管理、これは彼の戦略であったと思うんですが、民間の施設、学校とか病院の地下を弾薬庫にしていました。政権が倒れた今、武器管理が非常に曖昧になっていて、それを知っている人々が武器を運び出します。運び出して何をするのかといいますと、中から銅を取り出して日銭を稼ぐ。仕事がないんだからしょうがないだろうというのが彼らの言い分ですが、この作業をしている最中に暴発させてしまうということもあります。現地で地雷不発弾の対策にあたっている組織の人たちは「まずこの問題を解決しなければ」と言っています。
このような状況が続く中で、連合軍暫定当局(CPA)はサダム・フセインの宮殿の跡を使っているわけですけど、このCPAの前で毎日のようにイラク国民を解放しろ、解放したんじゃなかったのかというデモが繰り広げられています。

◇ 続く戦闘状態
以上の点を整理しておきたいと思いますが、人々が今暮らしていく治安の維持、治安の回復ということに駐留米軍の任務の優先順位があるのではないということです。彼らの仕事というのは、あくまでもサダム親衛隊、あるいはバース党幹部の残りを見つけて処罰する、殺してしまうということが彼らにとっての優先課題となっているということです。それまでは人々の治安の維持、治安の回復などは言ってられないわけです。
実際どんなことが起きたかといいますと、皆さまも記憶にあると思いますが、サダム・フセインの息子でかなり有名だったウダイとクサイがイラク北部にいたところを米軍に発見され、攻撃を受け、ほとんど即死状態で担ぎ出されるところが日本でも報道されたと思います。その数日後、バグダッドにいる他の息子、彼に何人子どもがいたのか知りませんが、別の息子がバグダッドのある住宅地に潜んでいると聞いた米兵がわぁっとそこに駆けつけ、検めることもなくいきなり攻撃して、そこを破壊するという蛮行に出たんですね。先ほどの道路の話と似ていますが、一応その周辺の道路を封鎖しているつもりだったんでしょうけど、それを知らないで普通の市民の車が進入していったんですね。5台くらいあったと聞きましたけど、その車に向かって米兵は問答無用に撃ってしまった。5人くらいの民間人が命を失ってしまったんですね。このように、市民に対して威嚇とか通常の手続きを踏まずにすぐに撃ち殺してしまう。それに対して何の補償もなく、撃ち殺した兵隊が軍法会議にかけられることもない。これはまさに戦闘状態なんです。いまも戦闘状態にある対応をしていると言えます。

◇ あふれかえる失業者
次に市民の日常生活への影響ですが、社会インフラが壊れたままで直されない。壊れた建物が直されない。その中にある設備や備品も直されない。ということは人々の仕事の場がないということです。その不満を少しでも和らげようということで米兵は毎月40ドルくらいの失業手当のようなものを主に旧公務員だったような人たちにやろうとしています。だけど炎天下に何百メートルも並んでやっとそれがもらえるというような状態で、みんなが簡単に手に入れられるようなものでもないということからの不満も出ています。

◇ 攻撃対象は占領軍からあらゆる外国組織へ拡大
皆さん8月19日に起きた事件をご記憶でしょうか?これは駐イラクの国連事務所です。多くの国連の機関が事務所として使っているバグダッド郊外のアルカナルホテルという建物で、爆破テロにあったところです。日本でも報道されたと思いますが、私たちが入るときも二重、三重にチェックするところで、僕もどうしてそんなことができたか分からないんですが、大量の火薬を積んだミキサー車が、そのチェックポイントを通って玄関前まで着けられていたわけです。そのミキサー車が大量の火薬を爆発させて、この写真のように 結構大きなホテルなんですが3分の1くらいがごっそりと爆破されてしまい、当時の駐在国連代表であるセルジオ・ヴィエラ・デ・メロ代表ら国連職員が20人くらいでしたか命を落としたという痛ましい事件がありました。
このように駐留米軍に対してのストレスが、彼らに対してだけでなく、占領行政下で活動している外国人はみんな一緒だという見方に変わってきているんですね。だから国連だけでなく、私たちも中立だと思って仕事をしていますが、私たちも含めそう見られていないわけです。そんな中で、国際社会においても影響力が大きく、目立つという意味に置いて国連がターゲットにされてしまったと思います。国連の中にも労働組合と言うのがありますけど、こんな危険な地域に職員を派遣することはできないんじゃないかという激論があった結果、現在は表向き、国連は活動は続けますと言っていますが、ほとんどの国連スタッフが撤退しています。今、国連の活動を担っているのは現地のイラク人であり、外国人スタッフはほんの数人のみとなっています。
グランドにテントを張ってミーティングなども行っていたんですが、そこでもう一回、一ヶ月ほど前ですが爆破テロがありました。それ以来、このホテルに集まることはなくなりました。同時に私たちにも2名ほどバグダッド駐在のスタッフがいますが、本部の方から、予め告知のある、例えば来週の水曜日の2時からといったような、予め告知のあるような会議には出ないように、それと規則的な行動は慎むように、毎日同じ所にいくようなことは絶対にしないようにということなど、ターゲットにならないよう動くよう指示を出しているところです。たまに治安会議と称して日本大使館から月に一回くらい在留邦人に呼びかけがあるんですけど、そういった呼びかけで日本人がターゲットになることがあるので、私たちの方から外務省に対してむやみに招集をかけないようにと言ってあります。

3.国境の難民問題

◇ 現実と乖離した難民支援
少し別な観点から話をします。戦争が起きる前からヨルダン国境のこちら側に難民が来たら収容しますよという難民キャンプが作られていたわけです。これは変だと私たちは言っていたんですが、同じように日本の自衛隊もまた難民支援ということでパキスタンの時みたいに懲りずに必要のないテントをヨルダンに送って、そして使われてないわけです。たまに国連のメンバーに会うと「あのテント使わない?」というんですけど「いらない」と言っているんです。難民キャンプっていうのはこの場所に用意されているんですけど、実際に攻撃が始まると難民は出ませんでした。なぜなら、先ほどの略奪の話とも関連するんですが、湾岸戦争の時に攻撃された後に略奪が起こり、治安が悪くなるということを経験している彼らは、今回もそういうことが起こると警戒して、自分の家を空けないようにして残っていました。少しは難民が出たんですが、そういう人はスーダンやソマリアからイラクに出稼ぎに来ていた人でした。

◇ 国境に残された民・パレスチナ問題
そのあとに残ったのがサダム・フセインの時代に優遇されていたパレスチナ難民でした。パレスチナ問題というのはサダム・フセインにとってアラブとの戦いの大義であったわけで、パレスチナ難民は当時の政権と友好関係にあったわけです。彼らはバグダッド市内の比較的良いところに住んでいました。ところが今度、政権が変わることによってアパートの持ち主から出て行ってくれということになり居場所を失ってしまったわけです。バクダッド市内の運動場に一つのテント村を形成しているグループと、そこにも残れなかった人々がヨルダン側国境を越えて、ルエイシッドの難民キャンプに出てきています。攻撃を受けた結果、割を食ってしまったのはやはりパレスチナ難民だったいうことです。パレスチナ難民の問題はそれ自体がイラク戦争の有無には関係なく、大きな問題だと僕らは思っているんですが、戦争の前は難民支援、難民支援といっていた日本政府が、イラク戦争とは関係ないからと「パレスチナ難民」については何も言わなくなり、今は予算も全然つかない、そんな状況になっています。

◇ 難民キャンプに図書館
そのキャンプの写真ですが、数百人規模というキャンプで、私が15、6年前にカンボジアにいた時は10万人規模でしたから、それと比べると非常に小規模なキャンプです。当時は約800人いたパレスチナ人ですが、パレスチナ問題を解決しないとイラクにも帰れない。ヨルダン政府が彼らを受け入れるかどうかという問題になっています。ヨルダン政権としては家族のいるパレスチナ難民だけを受け入れるという判断を下して、800人の約半分の400人がヨルダンでの定住を許されました。今現在このキャンプにいるのは400人くらいになっています。ただこの中でも子ども人口の占める割合が多くて、私たちとしても子どもたちが炎天下のテント生活を何もないまま過ごすのもしのぎないということで、小さな子ども図書館を8月につくりました。子どもたちにいろんな本を読んでもらったり、現地の職員を雇いまして読み聞かせとか絵を書いたりとかいろんなアクティビティができるように工夫をしています。
このキャンプは12月頃まではあるだろうと言われてまして、少なくともそれまでは見守っていきたいと思います。仮にそれ以後も残るようなことがあれば、また新たなパレスチナ難民キャンプがここに出来てしまうということになるので、今後はパレスチナ和平との関係で考える必要が出てきます。

4.市民生活の再建とJVCの活動

◇ 妊産婦、小児医療支援
次の写真はJVCが今、イラクでどんな活動をしているかということの紹介です。占領行政下、イラクとしての行政機能が麻痺している中で、私たちも通常他の国で考えるような、後に仕組みを残していくような長期的なプログラムを作れない状態が続いています。昨年の秋以来私たちが続けているのが、バグダッドやバスラの医療施設へ、その都度必要な医療器具なり薬品を送る活動です。
この先、長期的なことが出来ればと思っていますが、特に力を入れているのが母子保健の充実、産婦人科の施設の改善です。というのは、紛争状態の時はケガ人は注目されますが、病人でもケガ人でもないお産の時のケアが盲点になっています。安心して出産できるような場を回復させなければということで4月、5月の戦争直後にはそういった施設の改善に力を入れてきました。現在は小児病院を中心に施設の回復しようということで活動を続けています。
◇ 給水・保健衛生活動支援
この先私たちが活動を展開する地域の一つとして、バクダッドの郊外、サダム・フセイン時代にはサダム・シティと呼ばれていた街があります。主にイスラム教シーア派の人たちが数百万も住まわされていた住宅密集域で、サダム政権時代には、私たちはこの地域の表面しか見ることができませんでした。今回、政権が倒れて、治安の問題に気をつけつつ中に入って気がついたのは、いかにこの地域の人たちの居住環境がひどかったかということです。こういった面から見ていくと、いかにサダム・フセイン政権というのがまずかったか。こういう人たちからみれば、サダム・フセイン政権が倒れたことは喜ばしいことだったかもしれません。しかしその後、占領軍による占領政策がいいのかといえばそれもノーです。前よりもっとひどいという人が多いのも事実です。何が特にひどいかというと、この地域のための電気や上下水道の設備が全くなかったわけです。彼らは近くにある軍の施設から上水を盗水してきたり、電気を盗電してきたりと、イリ―ガルに生活してきました。ところが米英軍の攻撃で軍事施設が破壊されたことで、電気も水も供給されなくなってしまいました。7月、8月の暑い時期に非常にくさい水、上水も下水も区別つかない水を彼らはとってきて生活用水として使うしかなかった。その中で子どもたちは下痢を起こし、コレラとか別の感染症を引き起こし、どんどん栄養失調状態に陥っています。200万人から500万人くらいがいるのではないかと見積もられている地域なんですが、この地域で早く水の問題を解決し、小規模でもいいから、できるだけ数多くのクリニックを展開していこうと頑張っているNGOがいくつかありました。私たちも状況が許せばその中の一つとして新たな支援ができればと思っています。しかし、NGOがそこに行く途中に襲撃にあって車が盗まれるとか、ドライバーが殺されるとかの事故が起きていて、そういった支援活動が安心して出来るような環境が未だに出来ていないこともこれまた事実です。

◇ 劣化ウラン弾被爆を防がない米英軍
私たちが劣化ウラン弾に対して怒りを覚えるのにはもう一つ理由があります。劣化ウラン弾というのは貫通力があるということでタンクなど固いものを突破するために使うものなんです。劣化ウラン弾を使ったタンクには黄色いマークがついているから気を付けなさいと、国連関係者や私たちも含めた国際機関関係者の安全ガイドラインにはそういう記述があります。私たちはそういうことかと気をつけますが、イラクの普通の人たちにはそういった情報はないんですね。イラクの人たちにそういった適切な情報が与えられるの先決だろう。ましてイラク市民のための攻撃であるならば真っ先にそれをやるべきだと思います。なによりも米兵に対して早く片付けろと言いたい。少なくともカバーをするとか撤去するとか、そういう作業をするべきではないのかと言っています。クラスター爆弾の不発弾と合わせて、米兵自体が怖いので「ノー・ゴー・エリア」とか言って行かない地域にしているわけです。

◇ ストリート・チルドレンへの支援
それからストリート・チルドレン、路上生活をしている子供たちもバクダッド市内には結構いまして、女の子にはいろんな危険があるということもあり、いくつかの団体が昼間面倒を見る施設、夜泊まってもいい施設ということで運営しています。私たちも協力できることはないかと考えているところです。

5.「復興」の条件とNGOの果たす役割り

◇ 混迷する親米政権
難しい問題に入りますが、これからのプロセス、占領行政からイラク人による政府をつくる道筋ができるのかということを考えていきたいと思います。何よりもこのプロセスを見ていてすわりが悪いのは、占領行政がつづけば続くほど行政に対するストレス、不満がどんどん積もっていくわけですけど、その不満を解消するために米軍はイラク人による統治へ移行しているんだということを見せるために、イラク人による統治評議会を形だけでつくろうとしたわけです。これが7月です。CPAが委員を指名するわけで、イラク人を代表するどれくらいの正当性があるか疑問ですが、百歩譲ってイラクの人たちがそれでもいいよということなら、私たちはそこまで言うつもりはありません。しかし今、アフガニスタンと非常に構図としては似ているんですけど、米軍主導で指名された内閣に対して、それに対峙するものがいるということで非常にすわりが悪い。とりわけイラクでは全人口の6割を占めているイスラム教シーア派を中心にまとめていかなければならないわけですけど、統治評議会の構成をみますと閣僚25名のうち過半数を超える13名がシーア派です。この中で石油相や治安を担当する内相などがシーア派から選ばれています。アメリカがアフガニスタンではパシュトゥン民族を中心に政府をつくっていかなければならないにもかかわらず、そのパシュトゥンを倒したら北部民族・タリバン政権ができた。非常に油断の構図があったわけですけど、それと同じようなことが起こり始めています。シーア派を中心に政権をつくって行かなきゃ政権は安定しないといいつつ、最大派閥のシーア派の中で大きな分裂がある。シーア派の中で親米派と反米派がある。そのうち親米派として期待していたリーダーが8月にナジャフの爆弾テロで死んでしまったということで、アメリカとしては計算が狂った。去年、カルザイ大統領がロヤジルガ(国民大会議)で選ばれた直後、その片腕のハジカディール氏が暗殺されたのと非常に似たようなケースになってきている。親米派シーア派のリーダーが殺されたなかで、今、反米派シーア派のリーダー、サドルという人が声を大きくしており、こんなCPAが選んだ統治評議会は認めない、自分達、民衆側が選んだ民衆評議会をつくって、その中から閣僚を選ぶべきだというカウンターパンチを出している。このままその調整が出来ない限り、今後の権限委譲の受け皿を作っていくのが極めて難しい状態となっているのが現状です。

◇ 軍人にはできない民生再建
特に民生再建の部門というのは軍人じゃわかりません。軍人が市民のニーズをくみ上げることはできません。全くその逆。民生再建の部門で大事なのはいかに地域、コミュニティの声を吸い上げるかです。イラクの市民の声を聞いて、いかにその声を反映させるかが問われてきます。それが軍部にはできなくて、結局期待されるのは国連とか我々人道援助をやる立場のものになりますが、国連にしてもそういう責任を負わされても権限は与えらないという、非常にゆがんだ構図の中で苦労しています。この前のように殺されてしまうこともあるわけです。このような状態が続く以上、なかなか民生再建の部門が動き出すということはありません。

◇ 活かされない石油資源
この中で、活かされない資源、石油を復興プロセスの中で使えるようにもなっていません。石油収入が入ってきたとしても、その前にサダム・フセイン時代に抱えていた借金を返さなければいけないとか、米軍に対して払わなければいけないとか、イラク人のために使うにはまだまだ長い道のりになってくるだろうと想定されます。

◇ 国際社会と日本政府の対応
国際社会はどう対応できるのか。占領軍支援なのか、本当の意味でイラク復興支援を考えているのか。先般の国連安全保障理事会で対立したアメリカとフランス、ドイツの構図を見れば一目瞭然だと思います。アメリカとしては最後まで自分達の権限を残したいわけです。先ほど紹介した統治協議会の中の首相ポストは保留となっています。首相がいないのに内閣があるというとんでもない形になっています。占領軍の権限を最後まで持ち続けるぞというメッセージでもあるわけです。権限を譲らないアメリカと、イラク人による主権回復を目指せ、具体的な権限委譲の日程を示せというのがフランス、ドイツの主張だったわけです。これはまさに正しい主張だったと思いますし、やり取りの中でアメリカに再々提案をさせるところまで譲歩をさせました。明確な期限が盛り込まれたわけではなかったので、フランス、ドイツの主張が丸々通ったわけではありません。しかし、その交渉をした両国に対しては高く評価したいと思いますし、この決議に不満があるとして、今回のマドリードにおける復興支援国会議では、フランス・ドイツは一切協力しないということも明言しているわけです。
その中で日本は全く情けないことに、戦争がおこる前には安保理のメンバーでもないのに安保理の国に電話をしたり、外務大臣を中東に送ったりしていたのに、それが復興支援の場合は何の注文もつけずに15億ドルを拠出することを決めてしまっています。

◇ 私たちの訴え・・・占領軍の撤退日程の確定を!
わたしたちNGOは日本の中で運動していく立場として、日本政府に対して早く占領軍の撤退日程をつけさせるような運動をしていきたいと思っています。10月23日、24日、スペインのマドリードにてイラク復興支援国会議が開かれます。普通、国連の枠組みの中で行われるのであれば、まさに国際社会がみんなでイラクの復興を考えましょうということになるんですが、国連の統治のないまま、占領軍による占領統治のままの復興支援ということですから、そこに参加するということは占領軍にたいする支援に直結してしまうわけです。だけどその場で私たちが言うべきことを言わなければ私たちは大きな機会を逃してしまうことになります。臨時国会が終わった今、時期を逸しているという感じがしないこともないですが、この会議には私たちの代表が参加します。イラクで活動している86の団体を代表して、そのなかの数名がこの会議にも出る予定になっています。NGOはもちろん国家ではないので正式な参加者とは認められませんがオブザーバーとしてこの会議をチェックすることはできます。この会議の成り行きを見守って、再度、問題提起をできればと思っています。とりわけ、来月は選挙があるので、私たちとして全候補者に対して質問表を送る、あるいは考えを聞くというのは最低限やるべきでしょうし、(私たちの活動を理解する)議員を選ぶというのが私たちの権利を行使することにつながると思います。

◇ 非軍事、市民ベースの協力推進を
このままイラク市民の立場に立って物事を考えていくならば、軍隊によるトップダウンで軍人が人道支援を行っていくのではなく、あくまで市民ベースの協力を多方面で展開することによって、イラクの人たちとの信頼関係を築くことしかないと思います。
かつて私たちはイラクの人たちからとても友好の目で迎えられていました。いまでも親しく向かえてはくれますが、米軍の攻撃を支持したことで、米軍に原爆を落とされた日本がなぜここまで米軍を支持するのかと3月には言われました。7月にイラク特措法が通ってしまった時には、会う人会う人、ほとんどの人から「WHY?」と言われてしまいました。「なぜアメリカを支持するんだ」「これまで仲良くやってきたじゃないか」「とても残念だ」「日本人の軍事的な活動をすることでイラクの復興支援に関わることができなくなるんだぞ」などと真剣に説教されました。「自分も日本政府に言いたいくらいだ」とむなしく言い返すだけでした。
あくまで文民ベースの支援実績、実践例を積み上げていくしか自衛隊のイラク派兵を回避できないのではないかということで、私たち自身も現場の立場からも働きかけを続けていきたいし、必要に応じて皆さんとも情報交換を続けながら一緒にできることをやっていきたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。

(文責:石川県平和運動センター事務局次長 北野 進)

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