講演タイトル「歴史教科書改悪問題から見えてくるもの~沖縄からみる日本の平和」
講師 山本隆司(沖縄県教組教文部長)
注.この講演録は、2001年1月31日に開催した「歴史教科書の改悪を許さない県民集会」における記念講演の内容を要約したものです。
近代教育の闇
いきなりですが、皆さん方ご自身はもとより、ご家族の方々も含めて教科書を使わずに育ったという方は皆無だと思います。明治以降、寺小屋の時代を含めなければ、学校で教科書を使って授業するというスタイルはかれこれ百数十年続いておりますが、1945年以前は基本的に国定教科書、つまりお上が定めた教科書を教員が教えるというもの、具体的に言えば国の方針を忠実に教えるというのが日本の教育でありました。
ですからある意味で言えば、あの15年戦争の中で多くの国民が例えばマスコミによる情報操作や学校教育の内容によって戦場へ出かけて行ったという事実があるわけでして、そういう意味ではまさに学校の先生こそが真の戦争犯罪者であったのかも知れない。だから、そうした反省の上に立って日教組は「教え子を再び戦場に送るな!」ということをスローガンとして掲げ、それが今日においてもなお続いているわけであります。
歴史教科書の「歴史」
さて本題の歴史教科書に話を移していきたいと思いますが、中学校で使用する歴史の教科書に関して言えば、問題になっている扶桑社を含め現在八つの出版社が検定を申請しています。検定に出された教科書は、文部科学省の教科調査官、もちろん調査官の氏名は秘密ですが、その調査官が学習指導要領に則って検定し、検定意見を出す。すると出版社の側はその検定意見を踏まえて記述内容を修正し、検定を通過するというのが一連の流れでありまして、今回の場合で言えば3月末までにその作業を終了し、4月頃には検定をクリアすることになるわけです。
まぁ、検定の仕組みはこれくらいにして、話を沖縄に移したいと思います。ご存知のとおり沖縄は1972年まで27年間の米軍支配を受けていました。ですから文部省管轄ではありません。琉球政府の文教局であったわけですが、沖縄においても文部省の検定教科書を使っておりました。私はかつて、1972年以前の教科書における沖縄の記述を調べてみたことがありますが、ほとんど記述されていない。単に沖縄で戦争があったという程度のものであります。まあ、その後の復帰運動などを通じて、沖縄に関する記述が徐々に増えてくるわけですが、決定的になったのはある出版社が1982年に出した高校の歴史教科書に対して、文部省から強烈な検定意見・修正意見が付けられたという出来事であります。
簡単に言いますと、沖縄戦における住民虐殺の記述に対して、「住民虐殺がなかったとは言えないが、集団自決の方が多いだろう。だから、住民虐殺について書くのならもっと集団自決について書け」というものでありまして、これに対しては当然出版社の側も反論することになるわけですが、その中で住民虐殺があったという事実は何にもとづいて書いているのかということがあって、沖縄県が戦後、住民から聞き取り調査を行う中でまとめた「沖縄戦史」にもとづいて書いたと出版社側が言うんだけれど、文部省サイドはそれに対してあまり信憑性がないというような事を言ったわけです。
それでその話がマスコミに取り上げられたこともあって、沖縄県民は非常に怒ります。ちょうどその時の検定は「侵略」を「進出」に書き換えた時にあたりますが、中国をはじめとしたアジア各国からこの検定内容に対して当然クレームがつけられたことなども幸いし、結果として住民虐殺という実態がはじめて教科書の記述として日の目を見ることになったわけであります。
「脅し」と「自主規制」の関係
80年代のその頃から数えるとすでに20年近くが経過し、その20年の間に3回の教科書検定が行われていますが、沖縄戦に関する記述は物凄く良くなってきました。もちろん沖縄戦のみならず、南京大虐殺や七三一部隊などに関する記述もそうですが、今回の検定ではそうした記述が日本書籍という会社を除いて軒並みパッサリとカットされたか、あるいは減少しております。
つまり、検定意見や修正意見が出される前の段階で、自主規制という名のもとで出版社側が自主的にカットしたということがこれまでにない大きな特徴であります。まぁ、こうした動きの背景としては、そもそも教科書会社というのは弱小会社がほとんどてして、一番大きい東京書籍でも、出版社全体で見るとたかが知れたものでしかありません。それで、基本的に教科書だけを作っている会社が多いわけですが、教科書というのはゼロか百かという営業でありまして、実際に採用されなければそれこそ会社の倒産に直結するという問題を抱えております。そういった状況の中で、ご存じのように小・中学校の教科書は国庫負担ですから、自民党の文教族がそれを逆手にとって脅しをかける。すると、教科書会社は全くお手上げの状態になってしまうという構図であります。ですから、例えて言うなら相撲をとる前に自分でコケてしまったというのが日本書籍を除く6社の現状です。
名乗りをあげた「扶桑社版歴史教科書」
今ほど申し上げたように、2002年度の歴史教科書というのはただでさえとんでもない状況になっておりますが、それに輪をかけているのが産経・扶桑社版歴史教科書の存在であります。以下、問題になっているその中身を見てみたいと思いますが、パッと見ただけでも大東亜戦争という言葉を平然と使っておりますし、天皇に関する記述がやたらと多い。さらに核を認める記述すら堂々と書かれているという状況です。
ここで沖縄戦に関する記述を具体的に見てみたいと思いますが、この教科書では以下のように書かれています。
「1945年4月には、沖縄本島でアメリカ軍との激しい戦闘が始まった。日本軍は戦艦大和を繰り出し、最後の海上特攻隊を出撃させたが、猛攻を受け、大和は沖縄に到達できず撃沈された。沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って、10万の島民が生命を失い、日本軍の戦死者も11万を数えたといわれている。戦争は悲劇である。しかし、戦争に善悪はつけがたい。どちらが正義でどちらが不正という話ではない。国と国とが国益のぶつかりあいの果てに、政治では決着がつかず、最終手段として行うのが戦争である。アメリカ軍と戦わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである。」
皆さん、これを読んでどのように思われるでしょうか。もちろん見解の相違があるといってしまえばそれまでですが、この記述の中に明らかな数字の誤りがあることを指摘しておきたいと思います。それは、具体的な戦死者の数についてですが、戦後行われたいろんな調査資料を見る限り、どう少なめに見積もったとしても一般住民の間で15万~16万に達する戦死者が出たという数字が出ておりますし、もう一つ大切な事は、これまでのどのような教科書あるいは研究者の報告を見ても、今回のように軍人の戦死者の方が一般住民より多いという記述がなされたことは一回もないという事実です。にもかかわらず、産経・扶桑社版はあえてこのような記述を行っているわけでして、私たちはこの意図がどこにあるのかをしっかりと見抜く必要があると思います。
教科書の優劣とは?
次に日米安全保障条約に関する記述を見てみたいと思います。
「わが国は、アメリカ合衆国との間で日米安全保障条約を結んでいる。これは、他国がわが国の領域へ攻撃をしかけてきたときに、アメリカと共同して共通の危険に対処することを宣言したもので、アメリカ軍がわが国に駐留することも認めている。この条約は、わが国と極東の平和と安全の維持にも役立っている。なお、1999年に制定された周辺事態法によって、わが国周辺における有事にさいして、アメリカ軍への後方支援が強化されることとなった。」と書いてあります。また、憲法に関する記述では「わが国としても自衛隊を増強するなど、これまで現実的な対応をしてきた。そのため憲法と自衛隊の実態とが整合しておらず、憲法の改正が強く主張されている。」とあります。中学校の教科書にここまで書いてあるんですよ。まぁ、確かにこういう意見もあるのでしょう。けれども、先程も少し説明したように数字を意図的に改ざんし、あるいは「・・・になった。」、「・・・されている。」という具合に、自らの主張を断言し、押し付けるような記述法には問題があると思います。
そもそも学校の授業というのは、事実関係を示した上でいろんな意見を紹介し、それらにもとづいて子どもたちに自らの頭で考えさせるというのが基本ですから、このように考える余地を全く与えない教科書は極めて不適当であると言わざるを得ません。
いずれにしても、こうした内容の教科書が本当に検定を通るのかという疑問を私はずっと持っていましたが、執筆者の側が137カ所といわれる検定意見をすべて受け入れて修正するという表明をしましたので、この教科書は間違いなく検定をパスすることになります。ですから、私たちが次にやるべき事は、実際に採用させないという取り組みを進める段階に移っているということを是非とも認識しておいていただきたいと思います。
沖縄における「歴史改ざん事件」
ここで再び話を沖縄に戻します。実は今日、少し早く金沢に着いたもんですから護国神社に行って大東亜聖戦大碑をこの目で見てきました。ご案内のように、鉄血勤皇隊とひめゆり学徒隊の名前がこの碑に無断で刻銘されたということで、沖縄でも大きな問題になったわけですが、実は沖縄においても戦争美化という意味で良く似たことが行われようとした事実があります。それは、昨年の4月にオープンした新しい「沖縄県平和祈念資料館」における展示内容の改ざん問題です。この新しい資料館というのは前の太田知事の時代に着手されたものですが、途中で稲嶺さんに変わったという経過の中で、稲嶺さんが県の担当部局に圧力をかけ、具体的な展示内容を決める監修委員の承諾を得ぬまま内容の変更を命じていたことが事前に発覚したという事件です。
その一例を紹介しますと、「ガマ(鍾乳洞のこと)での惨劇」と題する展示物ですが、当初のキャプションではガマの中に隠れている家族のところに米軍が迫ってくる。ガマの中には赤ちゃんもいて泣き叫んでいる。これに対して日本兵が、その泣き声で米軍に見つかるという理由で「黙らせろ、絞め殺せ」と銃口を向けて命令しているというもの、実際に母親が自分の子どもを絞め殺した、あるいは日本兵が子どもを殺したという事例が沖縄には沢山ありますが、その銃がいつの間にかバケツに代わっていたというもので、この他にもキャプションの書き換えが百数カ所で発見されました。まぁ、最終的には県民運動の大きな盛り上がりもあって、元に戻させることに成功しましたが、いわゆる自由主義史観勢力の台頭によって、沖縄においてもこうした問題が発生しているということを紹介しておきたいと思います。
「安保」と「憲法」の関係
話は変わりますが、極東最大といわれるカデナ基地が嘉手納町に占める割合は実に83%であります。そのカデナ基地の滑走路東端に通称「安保の見える丘」がありますが、どうしてこんな名前がついたか皆さんご存じでしょうか。
私を含め、学校の先生は日本における最高の決まりは憲法であるということを子どもたちに教えていますが、はっきり言ってウソだと私は思います。沖縄にいると、どう考えてみたって日米安保条約が上で、その安保条約が許す限りにおいて憲法があると解釈せざるを得ないのが実態です。例えば石川や東京だって安保の傘の下にいることに変わりはありませんが、普通に生活していたのでは全く安保条約など見えないことと思います。けれども、あの丘に立つといやでも安保が見えるわけであります。だって、町の83%が軍事基地、しかもフェンスで囲まれて一歩も中に入ることができないのですから。
憲法9条も同様です。確かに良い事を書いてありますが、沖縄にいると本当にその精神が生きているのかどうか、あるいは憲法に明記された財産権や生存権といった権利が本当に保障されているのかどうかを疑いたくなるというのが現状であります。
沖縄戦に見る軍隊の本質
ここで55年前の沖縄戦の話をしたいと思います。54万人という米軍の部隊に対し、沖縄守備隊というのはどう見積もっても11万人弱でしたから、ある意味では最初から勝敗がはっきりした戦いでありました。実際に大本営も、とにかく少しでも長く持ちこたえろという「戦略持久」が方針でしたから、1945年の4月1日に18万の海兵隊を無血上陸させ、そこから住民を盾にした戦いが始まったわけです。
その後、約1カ月間で日本軍は壊滅的な状態に追い込まれますが、牛島司令官は「最後の一兵まで」ということで摩文仁の一番南の方まで司令部を下げ、10数万人といわれる沖縄の避難民が隠れている所へ3万の敗残兵がなだれ込みます。これに対して、アメリカ兵が徹底した敗残兵狩りを行う中で10万人以上の県民が死んでいったわけです。ですから、ある意味では実際の戦闘の中で死んでいったのではなく、敗残兵狩りの中で虐殺されていったというのが真実であります。
そもそも日本の軍隊というのは明治以来、常に外国に侵略をかける、つまり相手の国で戦争をする軍隊であり、実際にそうした訓練を受けてきました。だから、ほとんどが前線部隊であって補給部隊を作らない軍隊でもありました。当然、食糧なども現地調達が基本ですから、例えば捕虜なんかも次々に虐殺したわけです。だから、沖縄戦というのは初めて自分の国内で、自分の国民を足元に置いて戦った唯一の経験といえますが、その時に日本の軍隊が住民に対してどのような事をしたのか。果たして本当に住民を保護したのか、地域を守ったのかということが非常に重要な意味を持ってくるのであります。
沖縄戦の実態を見る限り、軍隊の本質は住民を守ることにあるのではありません。むしろその逆で、戦争に勝つためには住民を盾にして戦うというのが本質でして、実際に沖縄で起きたいろんな出来事、つまり住民虐殺や集団自決の強要は軍隊の本質を探る上で非常に重要な要素があるといえます。
当時、米軍は東京を落とさないと戦争は終わらないと考えていました。一方、大本営の側も当然本土決戦を考えておりました。横須賀や相模湾にある壕を見ればわかるとおり、完全に本土決戦を意識した陣地構築が今も残っています。ですから、もしかしたらこの石川の地にも米軍が上陸して地上戦になっていたかも知れない。その時に、住民と軍との関係はどうなっていたかという検証は、沖縄の中で何が起きたのかという事実関係を見れば一目瞭然であります。
真の狙いは「本土の沖縄化」
1972年に沖縄が日本へ復帰しました。その時の私たちの主張は「核抜き、無条件全面返還」でしたが、当時の佐藤首相は「核抜き、本土並み返還」と言ったわけです。当時、沖縄の人々は日本に対してあまり良い印象を持っておりませんでした。日本に帰りたいという気持ちもそれほどのものではなかったわけですが、何が沖縄の人々を動かしたかといえば、それは憲法第9条であります。平和憲法を持っている日本の国民になることによって、これまでさんざん苦しめられてきた基地被害の問題、犯罪の問題、治外法権の問題、そして生存権の問題などが解決されると判断して日本を選んだというのが本当のところであります。
最近公表されたアメリカの公文書には、復帰前の沖縄に約二千発の核弾頭があったことが記されています。もちろん、その他に毒ガス兵器なんかもあったわけですが、そうした事実が最近になって続々と明らかにされております。ご存じのように日本には非核三原則があります。まぁ、誰もそのことを信じていませんが、当時の沖縄はまだ日本ではありませんでしたから、ある意味では核を置くことにも多少の正当性があったかも知れません。ところが、72年に日本国沖縄になった段階においても沖縄から核が無くなることはなかったのです。ですから、逆に言えば沖縄が本土並みになったのではなく、本土が沖縄並みになるということがその時点で明らかになったのだと私は考えております。
同じ日本である以上、沖縄に核を置くことができるとすれば、当然石川県にも置くことができるはずです。例えば有事立法やガイドラインの問題が皆さん方にどんな影響を及ぼすかという事は、沖縄を見ればすぐにわかります。まさに復帰前なんかは有事立法の典型ですよ。だって軍隊がすべてを支配するわけですから。とにかく簡単に言えば、日本全国が沖縄のようになると考えれば非常にわかりやすいと思います。沖縄は決して特殊な地域ではない。近い将来の本土の姿を先取りした極めて平均的な地域であることを特に強調しておきたいと思います。
巧妙に仕組まれた普天間移設計画
95年9月に沖縄で少女レイプ事件が発生しましたが、日本政府の反応は極めて冷淡なものでした。日本のマスコミも「沖縄県民は怒っている」と書きましたが、「日本国民は怒っている」とは決して書きませんでした。いわば差別ですね。仮に横須賀で同様な事件が発生したとすれば、神奈川県民は怒っているなどとは決して書かないはずで、当然日本国民は怒っていると書くことと思いますがそれはさておいて、クリントンの対応というのは実に素早いものでした。あのレイプ事件によって安保条約が崩れかねないと即座に判断し、日本政府の頭越しに動いたわけです。結果としてその動きが普天間基地を返還するという発言につながるわけですが、その実態が「県内移設」という条件付きであったことは皆さんもご存じのとおりです。
ところで、そもそも普天間基地を名護に移設するという計画は1960年代からあったものであります。ベトナム戦争当事に主力であったCH46、CH53というヘリコプターが今でも沖縄では使われておりますが、旧式を理由に2005年段階で退役し、オスプレイ22という最新鋭の機種が新たに配備される計画になっています。けれども今の普天間基地では、その基地機能的に見てオスプレイを配備することができない。つまり、普天間基地に代わる新しい基地がどうしても必要になるという長期的な見通しにもとづいて、それこそ40年越しに進められてきたというのが普天間移設計画の実態であります。
実に偉大な教科書の力
最後に教科書のことに話を戻したいと思います。石川県の場合、教科書の採択というのは基本的に採択区協議会単位で行うことになっていますので、県内9カ所にある協議会が教科書を採択することになります。それで、最終的には審議委員が決めるわけですが、その審議委員というのはいわば素人でありまして、実際に全学年、全科目の教科書に目を通して判断することは困難ですので、現場の教員などを選定調査員に委嘱した上で、そこから出される意見書を参考にしながら採択を行うということをやっています。
まぁ、新しい歴史教科書をつくる会の側は、こうした選定作業に現場の教職員を関わらすなということで議会対策を進めているわけですが、そもそもこうした教科書が本当に学校現場に出てきて、自分の子や孫の授業に使われると考えたら背筋が寒くなります。教科書が持つ力というのは本当に大きくて、例え先生がどのように教えようとも実際に違った事が教科書に書いてあれば、子どもたちはそちらを信用するんですから。
人海戦術で不採択をめざそう
ところで、今の流れでいきますと検定をパスした教科書を実際に閲覧できる「法定閲覧期間」というものが6月下旬に設定されます。この期間内であれば教員だけではなくて例えば保護者や子どもたちも実際に手にとって見ることができるわけでして、同時に自分の意見を意見書という形で書くことができます。ですから、一人でも多くの人が会場を訪れ、今回問題になっている教科書に対して批判的な意見をたくさん書くことができれば、いくら県教委に圧力がかかったとしても、そう簡単に採択することは到底出来ないと思いますし、さらに情報公開という観点。つまり、どういった理由でその教科書が採択されたのかという情報公開を求めていくことにも取り組みながら、それこそ二重三重に市民の意見を反映させるような仕組みを作っていくことが極めて大切だと私は考えております。
今日は先生方も何人かご参加いただいているようですが、とてもじゃないけど実際の授業で使えない内容がこの教科書には書かれています。それは何故か、もちろん記述内容にも問題はありますが、はじめにも申し上げたようにすべて断定的な論調で書かれていることが最大の問題であります。例えば文部省の側も、多様な意見・考える力をということを常々言っているわけでして、いかに幅広い観点で子どもたちに考えさせることが出来るのかが教科書の優劣を決めますし、何よりもこのような教科書では高校受験に通らない、これが一番キツいですねぇ。だけども絶対に通らない。とにかく考えられるあらゆる手法を駆使すること、まぁ、私たちの側はお金もありませんのでそれこそ人海戦術、口こみで理解を広げる努力が極めて大切であるということを最後に申し上げ、私の話を終わりたいと思います。