設立趣意書および各種集会アピール

設立趣意書および各種集会アピール

「大東亜聖戦大碑の撤去を求め、戦争の美化を許さない石川県民の会」設立趣意書

●私たちは憤っている
 昨2000年8月4日、右翼団体「日本をまもる会」などを中心とする大碑建立委員会が、護国神社参道に「大東亜聖戦大碑」を建設した。戦中の独善的なスローガンを堂々と碑名としたばかりではなく、戦争反対に立ち上がってきた沖縄の元ひめゆり部隊や少年鉄血勤皇隊を無断刻銘する厚顔無恥な大碑がこの石川の地に出現したことに、私たちは強く憤っている。

●あの15年戦争は断じて正義の戦争などではない
 碑文は、先の大戦をアジア諸国を欧米の支配から解放するために天皇が起こした尊い戦争つまり「聖戦」と呼ぶ。植民地支配と侵略によって、皇軍により数千万人の死者とあらゆる惨害を被ったアジアの人々にはそのような独りよがりは通用しない。アジア諸国の独立はアジア民衆のたたかいの勝利である。歴史の捏造は認められない。

●野望のために人命を軽んじた者たちの責任隠蔽と死者の冒涜は認めない
「聖戦」を発動した天皇を頂点とする戦争指導体制の下、権力者たちは人命を極限まで軽視した戦争政策を強行した。人の命は一銭五厘で浪費され、無謀な作戦が幾百万の兵士を悲惨な死へと追いやった。当事者からの責任表明と謝罪は未だになされず、死者たちの無念は五十余年を経ても晴れることはない。
「聖戦」との戦争美化は、領土・権益拡張を目論み、権力にあった者たちの責任の隠蔽であり、今日にその体制の復権を目論むよこしまな野心を粉飾するものに他ならない。これ以上の死者への冒涜があろうか。

●県に過ちの認識と許可の取り消しを求める
 大碑設置場所は護国神社が所有するが、石川県が都市公園法に基づき管理する本多の森公園の一角である。県当局は、碑名が「大東亜聖戦大碑」であることを知りながら許可を与えている。そればかりか、許可に対する批判に耳を貸さず、県民の会設立準備会の申し入れに対して、手続きは法に則って適正であり、碑の内容吟味は不必要として要求を突っぱねている。設置許可申請書には設置目的が「英霊と真正歴史顕彰」と明記されている。
大碑の正確を「教養施設」と認定する県は、設置許可行為により、「15年戦争は大東亜建設の聖戦であった」との歴史認識を公的に表明し、その普及をも公認したものと見なさざるを得ない。それは、敗戦50年の1995年に平和を求める内外の多くの人々の願いを背景に決議された国会決議や村山首相談話ひいては日中共同声明、日韓共同宣言の精神にも逸脱する反動とのそしりを免れない。行政当局の無自覚は、アジアとの共生の時代に生きる県民にとり大きな不幸である。

●私たちは、過去に学び、未来を見据えて「大東亜聖戦大碑」の撤去を求めて行動する
敗戦まで金沢は、朝鮮の植民地支配に深く関わり、中国侵略においては精鋭の前線部隊として蘇州や南京を占領するなど、侵略戦争を推進した第九師団、歩兵第七連隊の本拠地であった。かつての軍都に今また全国に例を見ない「聖戦」の名を冠した大碑が建立された。政府の不誠実な戦後処理によりアジアの傷は未だ癒えず、平和と民主主義の内実が問われている。
私たちは、戦争責任を自らの生きる課題として受け止め、民族間の和解と共生の進展に努力を払ってきた。しかし、今般の事態を前にして、その力が極めて小さかったことに改めて思いを馳せている。今日の平和憲法危機の状況は、再びアジアの民衆と敵対する時代の訪れを危惧させるものである。地方から生活者の立場から平和を求める切実な声を発信する重要さが増している。
「大東亜聖戦大碑」は今日の危険な兆候を象徴するものである。私たちはその存在を許すことはできない。よって、「大東亜聖戦大碑の撤去を求め、戦争の美化を許さない石川県民の会」を設立し、全国の仲間とも連帯して「大東亜聖戦大碑」の撤去を実現するため広範な運動を展開するものである。

対県交渉報告集会アピール

 私たち「大東亜聖戦大碑」の撤去を求め、戦争の美化を許さない石川県民の会は、設立準備会の段階から、設置許可を行なった石川県当局に対し、「聖戦大碑」設置許可の取り消しと同碑の撤去を求める申し入れを行い、責任ある措置を求めてきた。しかしながら、県当局は都市公園法の表面的な解釈を前面に押し出し、手続きは適法であったとして要求を突っぱねてきた。
 私たちは、設立趣意書で確認したように、「大東亜聖戦大碑」の設置許可は、皇国史観による歴史の捏造・美化を公認するものであり、アジア太平洋地域の戦争被害者のみならず、戦死者をはじめとする日本の戦争被害者への冒涜に与するものであると厳しく批判してきた。靖国神社でさえ躊躇した「大碑」を石川護国神社に建立させた石川県行政は、アジアとの共生の時代における行政責任の重さに無自覚である。こうした県行政の放置はもとより私たち県民の責任でもある。
 そうした問題認識の下、私たちは対県要求を強め、去る6月1日に公開質問状を提出の上、県当局に対応を迫った。
 席上、杉本副知事は、都市公園内の設置許可については、内容の事前審査基準が無く違法ではないとの見解を繰り返したものの、「県の歴史認識は国会決議のそれと異なるものではない」、「都市公園内での碑文の内容は適当ではない」との見解を表明した。とりわけ碑文の内容は適当ではないとの表明は、事実上、許可は妥当ではなかったとの行政としての一定の自己批判の表明であったと私たちは受け止める。県内はもとより県外さらにはアジアの人々の声を前にして、県はそう表明せざるを得なくなった。これは私たちの運動の成果であることを確認したい。
 しかしながら、副知事が「国際問題等様々な点を勘案して最善の処理」とした護国神社所有地部分を本多の森公園から除外し、「神社の求めに応じて」返還する措置は、行政責任を果たすことには到底ならない。なぜなら、県の管理を離れようと、護国神社参道に「大碑」は立ち続け、不特定公衆に侵略戦争賛美のイデオロギーを振りまき続けるのであり、設置を許可した事実とそれにより生まれた状況は消えることがないからである。一体その措置のどこが責任の履行だというのであろう。「問題となったから県の管理地から切り離す」これでは「トカゲのしっぽ切り」との批判に反論できまい。表明された歴史認識と実際の態度との矛盾を指摘せざるを得ない。私たちは、返還による幕引きを認めることはできない。
 今日、中国、韓国などから寄せられる「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書への厳しい抗議には、依然として日本がアジアの隣人の足を踏み続けていることへの憤りが込められている。小手先の欺瞞的な措置は不信の上塗りとなる。私たちもまた、問題の本質から目をそらさず、撤去を勝ち取る日まで全国、さらには海外にも運動を発信しながら歩みを進める決意である。
「聖戦大碑」の撤去を求める全国集会アピール 昨年の今日、護国神社の参道に「大東亜聖戦大碑」が出現した。私たちは、設置を許可した石川県の責任を追及するとともに、「大碑」の撤去を求めて「大東亜聖戦大碑の撤去を求め、戦争の美化を許さない石川県民の会」を結成した。以来、会の取り組みの過程でこの碑にはあまりにも問題が多すぎることが明らかになってきた。
 建立委員会は、県から設置許可が出る以前にすでに着工を始めていた。これを見逃した県の土木部長は「一時的に違法状態にあったことは残念」と表明せざるを得なかった。
 大碑に刻銘された賛同団体名や個人名に、当事者の同意を得ていないケースが頻出している。無断で刻銘された「ひめゆり学徒隊」や「鉄血勤皇隊」の関係者は、驚きと憤りをあらわにしている。批判に対して建立委員の一人は「亡くなった人のための碑で、生きている人が文句をいうことではない」と述べているのはきわめて独善的な態度と言わざるを得ない。
 今年の6月1日、私たちの追及に対し、副知事は「県公園内の施設として碑文内容は適当ではない」旨を表明した。県知事は記者会見で「『聖戦』は政府見解とは明らかに違う。(個人的には)行き過ぎた表現」であると認めた。これらは、事実上、県の歴史認識としては〈「聖戦」感をとるのは誤りである〉という一定の自己批判をしたものと受け止めたい。
 しかし県当局は、この不「適当」で、「行き過ぎた」内容の碑が設置された土地を護国神社に返却することで幕引きを図り、自らの責任にほおかぶりする姿勢にでた。これらの諸問題は何一つ解決されていない。「責任は負い続けなければならない」とした県当局は、どのようにその責任を果たすのであろうか。碑が依然として不「適当」に立ち続けていることに私たちは強い憤りをおぼえる。
 建立委員会が「聖戦」と賛美する「大東亜戦争」の実態は、アジア諸国の資源の収奪と民衆の抑圧であった。1941年の大本営の決定事項によれば、占領の方針は「軍政の実施」、「重要国防資源の急速獲得」、「作戦軍の自活確保」であった。そのためアジアの人々に「重圧」を強い、独立運動を管理下においた。
 御前会議では、帝国領土をアジア全域に拡大し、これらを「重要資源の供給地として極力」維持するよう命じている。当時の方針の中に「アジアの解放」などという政策は全く見られない。先の戦争は、まぎれもなく「日本の国益」のためと称する収奪と抑圧、すなわち侵略戦争であった。歴史の改ざんは許されない。
 「誇りとロマンを感じる自国史」観とは、この様に主張する人々にとり不都合な史実を「暗い」「自虐」として闇に葬り、好都合と考えられるものだけを強調する偏狭なナショナリズムに他ならない。それは現実社会の不公平、不安、不透明感の裏返しである。10年以上続くバブルの崩壊、将来に明るい展望の開けない状況の中では「誇りをもとう」という勇ましいかけ声に私たちは飛びつきやすい。しかし書き換えなければならないのは、教科書ではなく、この現実である。私たちは「自国史への誇り」や「聖戦」観で身に鎧をまとうのではなく、アジア諸国への加害の歴史、侵略戦争の歴史を認識し、誠実にこれを反省することを通して友好と平和の礎を築き上げたい。聖戦大碑の撤去を求め、今日の全国集会に結集した私たちの声を国境を越えてさらに大きくしていこう。