反戦詩

「君死にたまふことなかれ」全文を以下に掲載する。

「あゝおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ 君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみずから出でまさね かたみに人の血を流し 獣の道で死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは おほみこころのふかければ もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに 君死にたまふことなかれ すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは なげきの中にいたましく わが子を召され、家を守り 安しときける大御代も 母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を 君わするるや、思へるや 十月も添はで 別れたる 少女ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで ああまた誰をたのむべき 君死にたまふことなかれ」

 

 

真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄氏の言葉(アメリカ人を憎む己自身を乗り越えた人)

「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む、憎悪は戦争を生む」

ふたりの贖罪 ~日本とアメリカ 憎しみを越えて~|NHKスペシャル

 

憎しみの連鎖は真珠湾から始まった

1941年12月7日、ハワイは日曜日の朝でした。2年前にヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていましたが、中立を保つアメリカにはまだ対岸の火事でした。ラジオからはフットボールの中継が流れていました。

「25ヤードラインへ。激しくヒットして27ヤードラインあたりへ。ここで放送を中断しワシントンから臨時ニュースをお伝えします。ホワイトハウスは日本が真珠湾を攻撃したと発表しました。これはジョークではありません。現実の戦争です」(実際のラジオ音声)

日本軍による奇襲でした。

 

日本本土初空襲 米爆撃手 憎しみの告白

2300人以上の命を奪った真珠湾攻撃。復讐の炎をたぎらせていた若き兵士がいました。アメリカ陸軍航空隊のジェイコブ・ディシェイザーです。ディシェイザーは報復作戦に志願しました。日本本土への初めての空襲です。ディシェイザーには爆弾を投下する爆撃手の任務が与えられました。

日本まで1200km。片道分の燃料しか積んでいません。爆撃後は同じ陣営の中国で救出してもらうという命懸けの作戦でした。ディシェイザーが向かったのは名古屋でした。戦闘機の工場やガスの貯蔵タンクなどに300発近くの焼夷弾を投下しました。そして民間人にも機関銃を向けました。軍の指令にはなかった攻撃です。軍需工場の工員5人の命を奪いました。民間人にまで攻撃を向けたこのときの心情をこう記しています。

「小さな黒煙が見えた。あの煙の臭いは我が機に向かって発射された高射砲の火薬の臭いだった。撃たれると撃ち返したくなる。我がアメリカに対する卑劣な攻撃の報いを日本にとことん思い知らせてやる」(ディシェイザー 著述より)

しかし空襲後、80人の乗組員のうち8人が日本軍に捕えられました。ディシェイザーもその一人でした。中国で不時着した場所が日本軍の占領地だったのです。上海で裁判が開かれ国民学校の児童を殺したなどの罪で3人が処刑されました。ディシェイザーなど、残りの5人は終身禁固刑となりました。収容所生活は過酷をきわめました。しらみのわく独房で食事はわずかな米とミミズの浮いたスープでした。尋問の時には激しい暴力もふるわれたと言います。ロバート・ハイトはディシェイザーの隣の独房でした。折れそうになる心を励まし合っていました。

「人として日本人は最低の部類に属する。これほどすさんだ環境に遭遇したことは人生で初めてだった。私は気が狂うほど日本人が憎くてならなかった」(ディシェイザー 著述より)

 

真珠湾 英雄の絶望

真珠湾の功績が認められた淵田は1943年、参謀に昇進していました。翌年には連合艦隊航空参謀にまでのぼりつめ悪化する戦局の打開策に没頭しました。

「基本的な目標はアメリカ人を殺して殺して殺すことだった。皆殺しにして最後までアメリカを苦しめることができるように」(淵田美津雄 証言記録より)

1945年8月15日、淵田は全てを失いました。終戦直後に淵田は公職を追放され、軍人恩給も止められ、一切の収入が絶たれました。敗戦の翌年、淵田は故郷の奈良に帰りました。周囲の目は一変していました。真珠湾の英雄から、国を破滅させた軍国主義者へ。手のひらを返したような態度に淵田は人付き合いを断ちました。妻の実家から譲り受けた土地に自分で家を建て、井戸を掘り自給自足の生活を送りました。

「敗戦とともに日本国民の怨嗟はかつての軍人に向けられた。職業軍人たちが戦いを好んで国を滅ぼしたとの非難であった。今、私を白眼視する日本人が憎くてならない。人を憎むものではないと頭ではわかっているのだけれど心ではどうにもならないのであった」(淵田美津雄 著述より)

 

憎しみから救った日本人看守の心遣い

1948年、アメリカから一人の宣教師が来日しました。日本軍にとらえられていたディシェイザーです。3年前まで、日本人に底知れない憎しみを抱いていたディシェイザーがなぜ日本に戻ってきたのでしょうか。

日本軍に捕えられて1年半が経ち、南京で収容されていた時のことでした。仲間の一人が赤痢で亡くなり、形ばかりの葬儀をすることになりました。その時、青田という日本人看守の一人がこっそりディシェイザーに聖書を差し入れてくれました。ディシェイザーは戸惑いながら聖書を受け取りました。キリスト教徒の家に育ちましたが、聖書はほとんど読んだことはありませんでした。むさぼるように読みふけり、ある一説に大きく心を動かされたと言います。

「父よ、彼らを赦し給へ。その為す所を知らざればなり」

「彼ら」とはキリストを磔にするローマ兵とユダヤ人のことです。残酷な仕打ちを加える日本人たちもまた自分たちが何をしているのか分かっていないのだ、ディシェイザーは反抗してばかりいた日本人看守への態度を変えてみようと思い立ちました。

「こんな日本人をどうやって愛せるんだ。ひどい本当にひどいやつだ。そんなやつを愛さなければならないのか。扉に近づいたら看守が来た。私はのぞき窓に顔を近づけて、おはようございますグッドモーニング サー、そう言ってにっこり笑った。すると看守はとても驚いていた。私は毎日そんなふうにおだやかに振るまった。すると6日目の朝に当番の看守がやって来て食事用の小窓からゆでたてのおいしいサツマイモを差し入れてくれた」(ディシェイザーの音声テープより)

収容所から解放されたディシェイザーはアメリカの大学で神学を学び宣教師になりました。当時、アメリカは日本の民主化の一貫としてキリスト教の布教を推し進め、3000人の聖職者を送りこんでいました。日本に到着したディシェイザーは真っ先に収容所で聖書を差し入れてくれた元看守・青田武次さんの行方を捜しました。捕虜と看守の再会はぎこちないながらも喜びにあふれたものとなりました。

ディシェイザーは自分が爆撃した名古屋に小さな教会を作り、全国各地を伝道してまわりました。日本人に抱いていた憎しみをどう赦しに変えることができたのか、体験を語り続けました。

 

真珠湾攻撃 元指揮官 突然の転身

一方、淵田は敗戦の失意から抜け出せないでいました。1949年12月、淵田のその後の人生を大きく変える出来事が起こりました。GHQの取り調べを受けるため、渋谷駅に降り立った時のことでした。アメリカ人がキリスト教布教のパンフレットを配っていました。淵田も差し出されるままに受け取りました。タイトルは「私は日本の捕虜でありました」あのディシェイザーが書いたものでした。そこには真珠湾攻撃に始まる日本人への激しい憎しみを断ちきった体験が書かれていました。自分もまた抑えきれない憎しみを抱えていた淵田はすぐに聖書を購入。農作業の合間に2ヶ月をかけて読みました。淵田は最も感銘を受けた一説を書き記しました。

「父よ、彼らを赦し給へ。その為す処を知らざればなり」

ディシェイザーが心動かされた言葉と同じでした。

「私はハッとした。彼らをお赦し下さいという彼らの中に自分も含まれている。私は軍人として戦争もまた正義の名において平和へ至る道だと心得ていた。私は自分の罪を自覚した」(淵田美津雄 著述より)

淵田はキリスト教徒となることを決意しました。淵田はすぐにディシェイザーのもとを訪ねました。ディシェイザーは真珠湾の指揮官がキリスト教徒となったことを祝福しました。そして淵田はディシェイザーが日本人への憎しみをどう断ちきったのか話に聞き入りました。

「捲土重来、臥薪嘗胆などと言っていた自分が恥ずかしかった。私は祖国を愛するあまり火のような敵がい心を抱いて戦ってきたが偏狭にして独善なものがなかったか。私は無知だった。それが悲劇を生んだのだ」(淵田美津雄 著述より)

 

憎しみ渦巻く米国へ 覚悟の旅

淵田はアメリカへ伝道の旅にでました。目的は真珠湾攻撃を申し訳なく思っている気持ちを伝えることと、無知が招く戦争を二度と起こさないために日本人を分かってもらい、またアメリカ人を知ることでした。淵田はアメリカ全土をまわりました。ほぼ休みなく1日に4つの講演をすることもざらでした。しかし、覚悟をしていた以上の憎しみの声が浴びせられました。「大量虐殺者」「茶番だ」「淵田を日本に帰せば空気がきれいになる」など。淵田は最も激しい憎悪が待つ場所にも飛び込みました。真珠湾攻撃で2300人以上の命を奪ったハワイです。覚悟を決め、どんな小さな教会でも訪ねました。教会ではさすがに罵声は発せられませんでしたが、多くの人が刺すような視線を浴びせました。

 

終わらない戦争 米伝道者の苦悩

1970年、ディシェイザーの一家に大きな出来事が起こりました。21歳になる次男のジョンさんがベトナム戦争に徴兵され味方であるアメリカ軍のまいた枯葉剤を浴びたのです。ジョンさんは糖尿病や静脈瘤を発症。66歳の今もアメリカ政府からの補償を受け続けています。伝道に忙しいディシェイザーには傷ついた帰還したジョンさんと十分に向き合える時間がありませんでした。ベトナム戦争について触れることも互いに避けていました。

この出来事以来、ディシェイザーの戦争への考え方は変わったと言います。1948年に来日してから平和を訴えてきたディシェイザーでしたが、実は戦争そのものを否定したことはありませんでした。太平洋戦争はアメリカの正義の戦争であり、世界に平和をもたらしたと考えていたからです。しかし、この頃から戦争自体に反対する考えを持つようになっていきました。しかし、アメリカとソビエトは互いの憎しみを世界各地の代理戦争でぶつけあっていました。戦争を止めることなどできるのか、平和を祈り続けることにどれだけ意味があるのか、ディシェイザーは苦悩していました。

 

真珠湾の元指揮官 苦しみの伝道

その頃、淵田は再び真珠湾攻撃の指揮官として脚光を浴びることになりました。真珠湾攻撃を描いた日米合作の大作映画「トラ・トラ・トラ」が公開されたからです。この映画の中で淵田は実名で登場。この人物が今、敬虔なキリスト教徒になっていると淵田にはインタビューの依頼が殺到しました。淵田は苦しんでいました。人々にどれだけ憎しみを断ちきろうと訴えていても、アメリカ人が関心を持つのは真珠湾のことでした。

元GHQの歴史課長だったゴードン・プランゲは淵田と興味深い研究対象と考え、伝道に同行するなどしてリポートを作成しました。

「注意してお読みください。私の発見によって伝道者淵田のイメージは悪くなるかもしれません。淵田はキリストの信念に真剣に向き合う立派な人間ですが、同時に葛藤を抱える複雑な人物であることがわかりました。淵田は話を飾り立てる傾向があります。彼は何度も自分の語っていることはすべて真実だと言いますが、私がそれを確かめようとするとひどく嫌がります」(プランゲ「淵田リポート」より)

プランゲは淵田の話には事実と異なるものが含まれていると報告しています。例えば、淵田が自叙伝に残したある伝道集会でのエピソードです。

「一人の中年夫人が12歳くらいの男の子の手を引いて来た。『私の夫は戦艦アリゾナの砲台長でありました。あなたが真珠湾を爆撃した時、私の夫は永遠に消え、その時この子が産まれました。どうぞこの子のために祈ってやってください』それから10年ほど過ぎ、ある集会で陸軍士官学校の学生の一人が私に声をかけてきた。『私は祈っていただいたあの時の少年ですよ』この子は私の集会があると知って応援に駆け付けた次第であった」(淵田美津雄 自叙伝より)

プランゲと共に淵田の研究をしたピッツバーグ大学名誉教授のドナルド・ゴールドスタインは、淵田からこのエピソードを聞き感動し、この少年を探しだそうとしました。しかし、真珠湾の戦死者や陸軍士官学校の名簿を探りましたが該当者は見つかりませんでした。淵田はなぜこのような話しを語ったのでしょうか?淵田は人々に向け感動的なエピソードを作ることで自分の平和へのメッセージに耳を傾けてもらおうとしたのではないかとゴールドスタイン教授は考えています。

1967年、淵田の15年に渡るアメリカ伝道の旅は終わりました。行った講演は2000回。帰国した淵田は64歳になっていました。

 

憎しみの連鎖を断つ ふたりのラストメッセージ

1975年、淵田とディシェイザーは久しぶりに再会しました。アメリカのキリスト教団体が二人の対談番組を企画したのです。共に憎しみの連鎖を断ち切るという使命を自らに課し、格闘した二人はまさに同志でした。しかし、このとき淵田の体調は悪く、じっくり言葉を交わすことはできませんでした。これが二人が会った最後となりました。

半年後、淵田は亡くなりました。73歳でした。葬儀はキリスト式で行われましたが、棺は軍艦旗で包まれました。ディシェイザーも葬儀に参列していました。人目もはばからず号泣していたと言います。

「私は心から泣きました。淵田とは天国でまた会えると思います。淵田と私は兄弟ですから」(ディシェイザー)

淵田が亡くなった翌年、ディシェイザーは29年間伝道を続けた日本を離れ、アメリカに帰国しました。重度のパーキンソン病に苦しみながらも、なお説教台に立ち続けました。911のテロも目撃しました。正義の戦争を始めるアメリカでひたすら平和と愛を訴え続けました。「次の説教はいつかね?」と家族に訊ねながら、95年の生涯を終えました。

淵田の娘・美彌子さんはアメリカ人と結婚し、カリフォルニアで家族を築いています。美彌子さんが海兵隊員のアメリカ人と結婚したいと言い出した時、母親や親戚が反対するなか父親だけは賛成してくれました。国籍を越えて家族となることには特別な意味があると考えていたのです。

「父は『いろんな国が混ざれば混ざるほどいい。お互いをもっとよく理解することができるようになる』と言っていました」(美彌子さん)

亡くなる直前まで淵田は伝道で繰り返していたある言葉を周囲に語っていたと言います。

「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む。そして憎悪こそ人類相克の悲劇を生む。無知から生まれる憎しみの連鎖を断ち切らねばならぬ。これこそ『ノーモア・パールハーバー』の道である」

 

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