原水禁世界大会・長崎大会の報告

原水禁世界大会・長崎大会の報告

時兼秀充さんの報告 中澤毅さんの報告 小原正義さんの報告
杉浦直人さんの報告 新村郁さんの報告 森 一敏さんの報告


66原水禁世界大会(長崎大会)に参加して

県教組 時兼 秀充

「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅(おび)えることになってしまったのでしょうか。

自然への畏(おそ)れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか…、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。

(中略)原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です(長崎平和宣言)。

長崎市の平和宣言が「脱原発」に踏み込んだように,今年の被爆66周年原水禁世界大会は「脱原発」が大きな焦点となった。全体会では,主催である3つの団体の合意がなされていない状態で,脱原発に関しては曖昧な表現が多かったが,核の「軍事利用」で放射線被害にあった「ヒロシマ」「ナガサキ」と,核の「商業利用」で同じく放射線被害にあった「フクシマ」から,あらためて「核と人類は共存できない」ことを参加者全員で確認することができた。分科会(脱原発2)では,原発は,廃炉になろうとしているのに技術が進んでいない古い技術である。産業革命時代は,日本は資源がない国であったが,これからは,自然大国である日本は自然エネルギー大国となる。など,脱原発にむけたエネルギー政策について学習することができた。今回,原水禁に参加して,珠洲原発問題で市を二分して戦った時代が終え,何となく今の現状に満足してしまっている自分に気づかされた。そして,核廃絶にむけてとりくんでいる高校生平和大使の「私たちは微力ですが,無力ではない」という言葉に,2020年までに核兵器廃絶をめざす「2020年ビジョン」実現に向けてとりくんでいく元気をもらった。


原水禁66長崎に参加して

県教組 中澤 毅

参加者集合写真

はじめて原水爆禁止長崎大会に参加することができました。広島大会には何度か参加しましたが、今回、長崎大会ならではの平和運動の可能性を感じることができ、有意義な3日間でした。特に高校生をはじめとした若い世代が平和運動に関わっている姿が印象に残りました。

2日目わたしは、西尾漠さんと藤井石根さんが講師となった「温暖化と脱原発にむけたエネルギー政策」という分科会に参加しました。そこでは、日本のエネルギーは投入されるうちの3分の2弱が利用されずに「損失」されており、コージェネレーションや新技術の導入でまだまだ省エネは可能であるとの話しを聞いた。また、再生可能エネルギーは可能性がきわめて大きいことや、利用方法による弱点の克服などでむしろ「頼もしい」存在になりえるとの指摘は新鮮であった。原発に頼る必要は全くないと強く確信することができました。原発推進政策の中、わたしたちには自然エネルギーのマイナス面ばかりが刷り込まれてきたのではないでしょうか。産業革命時の尺度(地下資源)でみれば日本は資源小国かもしれませんが、現代の基準(自然エネルギー)でいえば、むしろエネルギー大国ともいえ、これを有効に活用しない手はありません。

一本鳥居

フィールドワークでは、浦上天主堂や長崎医大、城山小学校等の被曝遺跡をめぐりました。中でも一本足で立つ山王神社の鳥居は衝撃を受けました。ただ広島同様、原爆の恐ろしさ物語る貴重な遺物が次々と姿を消したり、高層ビルや住宅に埋没している現状に「むなしさ」を感じました。唯二の被爆都市であり、ここにしか存在しないものがあるにも関わらず、それらを残すことができないとは…。

同様の「違和感」は初日の集会と最終日のまとめ集会でも感じました。福島第一原発事故をうけての大会だけに、来賓や主催者あいさつが注目されました。しかし、明確に「脱原発」に言及するものには、最後までめぐりあえませんでした。また公民館で、被爆者から直に体験を聞く機会もありましたが、その方でさえ「さまざまな立場の方もおいででしょうから、脱原発云々については…」と言及を避けておいでました(前後の話しのニュアンスからは、原発は無用との思いは感じとれましたが…)。

3・11後、福島では今現在もヒバクシャが生まれ続けています。放射線被害によって、ゆたかな自然が失われ、多くの人々がふるさとや仕事を追われました。子どもの健康に日々悩む母親がいます。このような厳しい現実があるにも関わらず、なぜ「脱原発」と声高に叫べないのでしょう。なぜ被曝当事者が、遠慮した発言をせざるをえないのでしょう。この壁をぶち破っていかなければ、原発はおろか核兵器も戦争もない平和な世の中の実現はありえないと思いました。


原水禁世界大会・長崎大会に参加して

県教組能登珠洲支部 小原正義

8年ぶりに長崎の地を訪れることになって、私自身期待していたことがありました。東日本大震災・福島原発の事故を受けて日本中が脱原発に向けて勢いを増し、大きな運動が展開されていくきっかけになる大会であると。ところが、いざ大会が始まりプログラムが進んで行っても、何のアピールもなく、宣言文、基調にもなく何か物足りなさを感じてしまいました。その中で、ひとつ心に残った言葉が高校生平和大使の代表のあいさつにあった、「私たちの活動は微力だけれど、無力ではない。」何か元気づけられる言葉でした。初日の晩は、懇親会を兼ねて中華街でお食事、紹興酒を片手に自己紹介をしながら長崎の夜は更けていきました。夜食に長崎ちゃんぽんは欠かせませんね。

2日目午前中は分科会②脱原子力2-交流・討論編「-温暖化と脱原発に向けたエネルギー政策-」に参加してきました。

私自身が脱原発といいながら、「実際今の日本から原発がなくなると電気不足になってしまう。」と言われると、何も言い返せない自分がいました。ところがこの分科会の講師である西尾漠氏(原子力資料情報室共同代表)や藤井石根氏(明治大学名誉教授)の話を聞いていると、勉強不足のため誤解していることが、たくさんあることがわかりました。まず、日本のエネルギー消費は90年代後半から伸びておらず、今では減少傾向にあること。日本のエネルギー構造を見ると、発電量の1.5倍のエネルギーが「損失」になっているそうです。そのことからも原発の開発より蓄電技術の向上や給配電網の整備そして、エネルギーの地産地消をすすめていくことが大事であることがわかりました。要は自然エネルギーに転換できることを、改めて確認できたことが何よりの収穫でした。

午後からは時間ができたので、一本鳥居や山王神社のヒバククスノキを見学してきました。

一本鳥居 山王神社のヒバククスノキ

改めて原爆のすさまじさをかんじさせられました。

最終日は、朝早くから被爆体験者の貴重な体験談を聞くことができました。自分の横で遊んでいた幼なじみが、気がつくと爆風で吹き飛ばされて亡くなった。私が今生きているのは、運が良かったからではなく、偶然なんだとおっしゃっていたのが印象に残りました。

そのあと、まとめ集会・平和行進に参加し、爆心地公園で黙祷をして解散となりました。最後に世話役をしていただいた県教組の中澤さんキップを間違えてご迷惑をおかけしました。どうもすいませんでした。


 

運輸労連 杉浦直人

原水禁長崎大会に参加して…2009~10年と原水禁広島大会で勉強させていただき、今年は長崎大会へと3年連続原水禁世界大会への参加となりました。私事で恐縮ですが、長崎県と言えば私の母方の祖父母が五島列島出身で、昭和8年までは長崎市内に在住しており、原爆が投下され破壊された三菱造船所に勤務していた事を、最近母親から聞かされてなんとも言いようの無い気持ちになったものです。もしも昭和20年8月9日まで祖父母が三菱造船所で働き暮らしていたならば、間違いなく被爆者になっており私自身もこの世に存在していない可能性が非常に大きいと思われ、人としての運命に感謝すると共に、不幸にも原爆に被爆した方々への悲運を悲しまずにはいられません。アメリカは広島・長崎に原爆を投下する必要が、本当にあったのでしょうか?

昭和20年8月といえば日本は戦争を継続する国力は無かった…いろんな事情はあるにせよ当時の政府の判断力・決断力の欠如には怒りさえ感じます。

今年の原水禁は、3月11日の東日本大震災において福島第一原発事故が起こり、改めて『核と人類は共存できない』との思いを確認する大会でもありました。毎年、日本は8月に戦争や非人道的核兵器の原子爆弾への反省や批判を繰り返し述べているが、新たに3月11日が脱原発運動への起点になることで、1人でも多くの国民が脱原発を共通認識し将来(早急に)原発のない日本へ向けて運動を本格化させる事が喫緊の課題だと思いました。

8月8日のフィールドワークでは第4分科会に参加し東日本大震災直後、米軍の友だちともだち作戦の検証や新防衛計画大網・米軍再編計画と震災出勤との関係について講演を拝聴しました。北朝鮮が韓国の延坪島へ砲撃したことや尖閣諸島問題にも触れ、北東アジアの平和なくして非核兵器地帯実現への道は程遠い事だと思いますし、いまだ核兵器をチラつかせ平和維持への抑止力だと核兵器を正当化しようとする思想は多くの国が持っているのかもしれません。

私は、3年連続で原水禁へ参加し戦争・核兵器・原発と安心して日本で暮らしていくために捨てなくてはならないものが確実にあることがわかりました。そのことを組合員や家族に伝えていくことが、これからの私の使命の一つだと思って頑張っていきます。又、機会があれば積極的に原水禁に参加したいと思います。


被爆66周年原水爆禁止世界大会・長崎大会に参加して

金沢市公営企業労働組合 新村 郁

これまで広島や長崎への原爆投下に関しては、学校での授業やマスコミなどの情報である程度知っていましたが、今回、初めて大会に参加させていただいたことで、より深く理解することができました。
特に大会初日での「被爆者の訴え」や分科会での被爆者の証言(山川剛氏による)、さらに慰霊碑墓参の時にも、直接、被爆者の方のお話を聞かせていただく機会があったことは、初めてのことでもあり、被爆地・ナガサキの実情に触れることができた貴重な経験となりました。

さらにフィールドワーク「被爆遺構めぐり」で、原爆投下中心地(爆心地公園)からスタートして、浦上天主堂(落下鐘楼)、被爆者手帳友の会平和記念会館、長崎大学医学部(医大門柱)を徒歩で回り、見学させていただきましたが、吹き飛ばされた鐘楼や爆風で傾いた門柱などの被爆の爪跡を見て、原子爆弾の威力のすさまじさを改めて実感させられました。被爆者手帳友の会平和記念会館では、被爆者の方々が描いた絵を見せていただき、原爆によってもたらされた当時の悲惨な状況や人々の苦痛、現在まで続く苦悩がとても伝わってきました。

また、東日本大震災によって福島県で起こった原発事故に関しても、分科会で放射能というものをわかりやすく説明していただき、原子力発電所の事故がいかに危険で恐ろしいものであるのかが確認できました。

今回の大会を通じて、自分自身が感じたことは、「核と人類は共存できない」とより強く実感できたことと、日本が経験した原爆投下という事実を多くの人々、特に若い世代にキチンと伝えていかなければならないとのことです。被爆者の高齢化などで貴重なお話が聞けなくなってきている中で、より多くの若い世代の人達がこのような大会に参加し、理解を深め、行動することが核のない世の中を作っていくことに繋がるのではないでしょうか。

そのためにも私が実際に見て・聞いて・触れたことを多くの人に伝えていかなければいけないと思いました。


ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ そしてノーモアフクシマ

金沢市議会議員 森 一敏

「2011年8月、被爆66年の原水禁世界大会には、特別な意義がある。」私は長崎大会に参加する代表団にこうあいさつした。3.11福島第1原子力発電所の過酷事故をくい止められず、新たな被曝者を生み出してしまった私たちの社会を、働く者と市民総ぐるみで変えていく決意を固め合う最大の機会だからだ。正に世界が注視している。

しかし、全体集会の連合、原水禁国民会議、核禁会議三団体共同開催の積極的意義は、この最も重要な機会に発揮できなかったばかりか、核事故という今日的脅威に瀕して尚も足並みをそろえられないという非力を世界に露呈する結果となった。福島の被災住民の失望は計り知れない。脱原発を求める大半の民意と乖離する労働、平和運動は、世論から早晩見捨てられ、無力化させられるだろう。原発の根っこにある米日核戦略と核の商業利用を隠蔽する「核の平和利用」神話から平和運動自身が脱せなくして、人類に貢献することはできない。川野浩一原水禁議長が、脱原発エネルギー転換への足並みにむけて、二団体に働きかけたいと締めくくったことは、三団体共催の限界への挑戦と受け止めておきたい。

さて、9日は、断続的に大粒の雨が降る日となった。早朝、私たちは京都の参加団とともに、爆心地から1.5㎞にある家野町公民館を訪れ、住民被曝者の佐々木さんから被爆体験を伺った。74歳のる佐々木さんは、文字通り九死に一生を得た方だ。政治的な発言は控えたいといいながら、原発はもう終わりにしなければと言われた。被爆者としてやむにやまれぬ思いがそうさせるのだ。慰霊碑に献花し閉会集会場へと移動した。

雨中の平和行進の後、原爆投下時刻11時2分には、慰霊碑に向かって死者に黙祷を捧げた。全日程が終了して、私は、ナガサキの平和記念公園に立った。この下に眠る、三菱により強制労働を強いられ、監獄に置かれた中国、韓国・朝鮮被爆者たちに思いをはせて。


カテゴリー: 原水禁, 反核・脱原発 パーマリンク

コメントは停止中です。